見出し画像

【小説】ゆれるかご・1

 商社に勤める中村亜希子は、恋人の田畑聡とその娘小梅と、シェアハウスに暮らす同居人のような気負わない暮らしをしていた。
 ある日、亜希子は会社の人事部から突然呼び出されあらぬ疑いをかけられる。

*全5話です。毎週火曜日の夜に更新予定*


「中村さん、ちょっと……」

 出社早々、中村亜希子は所属課の小松課長に呼ばれた。淹れたばかりのコーヒーの香りが鼻孔をくすぐり、思わず「5分後でもいいですか?」と言いたくなった。

 亜希子の勤める友井物産で数年前に導入されたコーヒーマシンは、豆から挽く本格派で社員に人気があった。亜希子も出社して〝いつものデスク〟を定めると、早速コーヒーを淹れにいった。
 『社内のコミュニケーション活性化と創造力の向上』などという謳い文句で、本社のみデスクを固定しないフリーアドレス制が導入されたが、なんてことはない、結局暗黙のうちに上役から順に座る席は決まっていた。

 亜希子が小松のもとに行くと、小松は周囲の様子を窺った。早朝出勤が推奨されている友井物産では、それこそコーヒーを片手に談笑しながらひと休みしている社員が何名かいた。

「ちょっと、向こうで話そうか」

 小松は珍しく重々しい雰囲気だった。普段ならたいていのことは笑い飛ばしてしまう豪胆な人だ。明らかにいい話ではなさそうだ。

「忙しいところ申し訳ないんだけど、今日13時に人事部に行ってください。面談があるそうです」

 ミーティングルームに入るなり小松はそう告げた。

「人事部……ですか? こんな時期にまたなんでしょうか?」
「詳しくは私も聞かされていない……が、君自身のことで確認があるそうだ」

 意味がわからず、亜希子は無言のまま首をかしげた。小松が様子を窺うようにこちらを見ている。

「中村さん、立ち入ったことを聞くので答えたくなかったら答えなくてもいいけど、確か数年前に離婚されて以来、独身…だよね? その…付き合ってる人とかはいるの?」

 ずいぶんプライベートなことを突っ込んで聞いてきたな、と亜希子は思ったが、小松のキャラ的に何故か悪い気がしないので、素直に答えることにした。

「はい、います。いま一緒に暮らしています」
「それは、同棲ってこと?」
「……まぁ、そうなりますね。私としては再婚してもいいかなと思っている人ですが、ちょっとワケありなんで」

 亜希子としては軽い気持ちで言ったのだが、小松は明らかに表情を変えた。

「小松課長どうしま…」
「あ、いや。分かったよ。とりあえず13時に人事部。よろしくね!」

 小松は亜希子の言葉を遮りそう言うとそそくさとミーティングルームを後にした。

 人事部からの呼び出し……。正直、心当たりが何もないが、さきほどの小松の反応を思い起こすと嫌な予感しかしない。人事部は同じ本社ビルの27階にあった。ほとんど立ち寄ることなどないそのフロアは、どうやら〝空気が違う〟らしい。

「どうかしたんですか?」

 同僚の小林奈緒が話しかけてきた。奈緒は派遣社員だが、細かいところまで気が回り、それでいて愛想がよく皆に頼りにされている存在だった。

 歳が近いこともあり、亜希子と奈緒は時おりランチを共にする仲だった。奈緒のほうが少し年上で聞き役にまわってくれることもあり、亜希子は他の同僚には言わないよう愚痴も奈緒には話していた。

「なんか、私人事部に呼び出されちゃいました……」
「こんな時期に? なんでしょうね?」
「いやぁそれがさっぱり……」

 そういって亜希子はすっかり冷めきったコーヒーを口にした。



 13時きっかりに27階を訪れると、人事部の森本が待ち構えており、隣のミーティングルームへ案内された。
 森本は亜希子の同期入社だったが、入社式と研修で数回会ったのみでほとんど会話したことがない。入社の頃からよく言えば冷静沈着で着眼点が鋭い、悪く言えば心を感じないサイボーグのような男だった。数年前に人事部に異動になった。

「森本くん……久しぶり」

 亜希子は挨拶のつもりで言ったが、森本は返事をしない。しばらくして、人事部長が入室しそれぞれ腰かけた。しばしの間があった後、人事部長が口を開いた。

「中村亜希子さん、突然の呼び出し申し訳ない。実は君について良からぬ情報が入ったため確認のため来てもらった」

 口調こそ丁寧だがその雰囲気は威圧的で、やはり明らかに悪い話のようだ。森本が続いた。

「中村さん、東陽町の『バル・ドゥエロ』によく行かれていますね?」

 森本のニュアンスはまるで証拠を握った検察官のようだったが、当の亜希子は唐突に何を言われたか分からなかった。確かに『バル・ドゥエロ』は通勤途中にある馴染みの店で、タパスの種類も多くワインも数種類グラスで楽しめるので、一人でよく利用していた。

「たまに仕事帰りに寄ることはありますが、それが何か?」
「何か……とはまたずいぶんなとぼけ方ですね。その店でいかがわしい人と交流しているでしょう?」
「い、いかがわしい??」

 一体何を言い出すんだ……。いかがわしい、という言葉の響きと自分が結びつかず亜希子が唖然としていると、森本は続いて3枚の写真を取り出し並べた。

 1枚目は、『バル・ドゥエロ』の店内で、亜希子がある男性と親しげに話している写真だった。それだけならプライベートのワンシーンと言えなくもないが、問題の男性の風貌が、スキンヘッドにサングラスかつブランドもののシャツを身にまとっており、なかなかのいかつい雰囲気を醸し出している。あえてなのか、腕に彫られた龍がシャツから顔を覗かせしっかり写真に写りこんでいる。

 2枚目は、店の外で亜希子がその男性から何かを受け取っている写真。

 3枚目は、『バル・ドゥエロ』とは全く関係ない場所のようで、時間帯も昼間だった。テナントビルの裏のような場所で、亜希子はその男性に頭を下げている。

「こ、この方はいったい……?」

 恐る恐る亜希子が聞くと、森本は眉を寄せ
「質問しているのはこちらです、中村さん。当方では、この写真に写っている男性が、その筋の人だと調べがついています」
「確かに何というか……。街中で会ったら、わざわざ近寄りたくはない風貌の方ですね、ハハハ」

 どう答えていいか分からなかった亜希子は思わず愛想笑いをしてしまったが、面前の二人はニコリともしない。

「念のため、お伝えします、中村さん。当社は反社会勢力との断絶を内外に公表し、就業規則にもその旨の記載があります。状況がお分かりですか?」

 ここまできて亜希子はハッとした。

「あの…! 待ってください! 私はこの男性のことを知りませんし、仰るような交流など全くありません。『バル・ドゥエロ』でもお会いした記憶もありませんし、これは何かの間違いでは……?」

「写真以外にも中村さんが反社と繋がりありという情報が寄せられています。この写真に写っているのは確実にあなたでしょう?」

 確かにどう見てもこれは自分だが、全く心当たりがない。加工でもされているのではないのか?

「確かに私のようですが、この方は断じて知り合いではありません。お酒を提供する店なので、一人で飲んでいて他のお客さんとお話しすることぐらいはありますので、たまたま隣り合わせただけではないかと」

「じゃあこの3枚目の写真はなんですか?明らかに昼間じゃないですか。そもそも、たまたまこんな風貌の人と隣り合わせになって、あなたこんな親しげに話すんですか?」

 畳みかけるように森本に言われ、亜希子は言い返せなくなった。それまで黙って聞いていた人事部長が諭すようにこう続いた。

「中村さん。会社としてもこれは何かの間違いだと思いたい。しかし現実に情報が寄せられ、写真までもが提供された。この状況が仮に取引先にでも目撃されたらどうなるか考えてみてほしい」

 亜希子にはますます返す言葉がなくなった。

 人事部を退室し、再び自分の属するフロアへ戻った。人事部からの指示は『明日までに始末書を提出するように』というものだった。腑に落ちないが最後に森本に言われた

「これはあなたに悪意なしとのことでの寛大な処置です。くれぐれも行動に気をつけて友井物産の社員である自覚を持ってください」

 との言葉に僅か数ミリになっていた亜希子の〝反論する気持ち〟は潰えた。

 それにしてもあの写真はなんだ?このところ、亜希子は深酒をすると記憶が飛ぶときがあった。いや、と考え亜希子は思わず頭を振った。さすがにあれはないだろう。あれでは男女の仲に見えてもおかしくない。

「そういうことか!」

 今朝の小松との会話を思い出した。大まかな内容を事前に聞かされたであろう小松は、亜希子との会話からその筋の人と恋人関係にあると勘違いしたに違いない。

 思わず口から「うう〜」という呻きのようなものが漏れ頭を抱えていると、心配そうに小林奈緒が話しかけてきた。

「大丈夫ですか? 人事部なんて?」
「いや……日頃の行いが悪いみたいで怒られました」
「えー? なにそれ?」
「小松課長は?」
「明日出張みたいで、前のりでもう発たれました」
「なるほど……大丈夫です」

 さすがにいくら奈緒にも、反社との繋がりを疑われていますとは軽々しく言えなかった。

 
 自宅へ帰ると、〝同居相手〟の田畑聡はまだ帰宅しておらず、代わりに娘の田畑小梅が炊飯器のセットをしているところだった。
 亜希子は聡と暮らしてもう少しで1年経つが、当時中学2年だった小梅も最近はすっかり大人びてきて簡単な料理を作ってくれたり、家事をこなしてくれたりと頼もしい存在だった。

「小梅ちゃん、ご飯ありがとう!たすかるわ~」
「べつに、ただお米研いだだけだし」
「いや、それが助かるんだって」
 小梅はまんざらでもない表情を浮かべ自分の部屋に戻っていった。

 亜希子がおかずなど適当に用意し終える頃、聡が帰宅した。炊き上がったご飯をよそい、3人でテーブルを囲み食事についた。

「私、今日とんでもないことが起きて」

 ビールを片手に亜希子は人事部に呼び出され始末書を食らったことを聡に説明した。亜希子の話を聞いているのか聞いていないのか、聡は「へえ……」と素っ気ない返事をしたのみだった。

 聡と付き合い始めた当初は亜希子もこの聡の淡泊な反応に驚き、自分に対する気持ちを疑ったりしたこともあったが、今ではこれが悪気がないことが分かる。もっと言うと恐らく彼は早く食事を終えて携帯で動画を観ることを考えている。

 亜希子は聡の反応を見て、普段ならこの話は終了するところだったが、今日は代わりに小梅が球を拾ってくれた。

「亜希子さん、その人のこと知ってるの?」
「知るわけないじゃん!はっきり言って加工された写真にしか思えない……。全く記憶にないし。でも、私、酔ってるぽかったからなぁ……」
「だからあれほど飲み過ぎないほうがいいって言ったのに……」

(うっ、ヤブヘビ)

 亜希子はうなだれた。酒のことは成人した大人に言われてもほっといてくれ、と思うが未成年に言われると申し訳なさでいっぱいになる。小梅はさらに、どストレートにこう言った。

「亜希子さん、嫌われてるんじゃないの? 学校でもよくあるよ、気に入らない奴にでっち上げの写真使うのとか。SNSに流すの。怖いよね~」
「え……! 今の中学生ってそんなことするの?? 小梅ちゃんは大丈夫?」
「人の心配してる場合じゃないよ、亜希子さん。誤解を解かないと」
 小梅の言葉にそれまで無関心風であった聡までが続いた。
「そうだよ、あっこちゃん。身に覚えがないって、言えばいいんじゃない?」

 その後、聡はソファで動画サイトを視聴しはじめ、小梅は自室へ戻った。亜希子はネットで『始末書』を検索し、パソコンで作り始めた。
 だが、何と書けばいいのだ? 聡や小梅に言われなくとも誰より亜希子自身が誤解を解きたい。もし加工された写真なら誰がなんの目的であんなことを? 小梅の「嫌われている」の言葉が胸につかえる気がした。


 翌日、亜希子は作成した始末書を持参して出社した。もう一度人事部で身に覚えがないことを訴えるつもりではいたが、バルで酔っていた可能性も否定しきれず、「社員として自覚をもち、分をわきまえた行動をとる」といった内容にした。

 人事部からは特に何時に来いとは指示されなかったため、入館すると亜希子はひとまず自分のフロアにあがった。
 一見いつもの朝の風景に思えたが、亜希子が入室した瞬間にどよっとした空気が流れた。心なしか同僚たちがチラチラとこちらを見ている。
 心にざわざわとしたものを感じながら、ロッカーに手をかけようとすると、人事部の女性がフロアへ訪れ亜希子のもとへやってきた。

「中村さん、今日人事部へお越しになる予定ですよね。出社早々ですがこのあと10時から、よろしいですか?」

 ミーティングルームに入ると、すでに昨日面談した人事部長、森本と共に所属部の本部長までもが腰を掛けていた。

 いたたまれない思いになった亜希子はひとまずお決まりの謝罪を口にしたが、人事部長と本部長は何も言わない。代わりに森本が口を開いた。

「中村さん、昨日の件、会社でどなたかに話をされましたか?」
「え…いいえ、誰にも話はしていません」

 一同に一瞬の間があり、本部長はため息をついた。

「どうやら、昨日の写真がどこかで流出し中村さんの所属する部員全員にEメールで送られています」
「え……??」

 森本はこう続けた。写真は人事部では印刷された紙ベースでしか保有しておらず、昨日はあの後から鍵のかかるキャビネットに保管してあり、流出の可能性はない。
 中村さんにも手渡ししていないため、中村さんが流出させたとは思っていないが、現にいま分かってる範囲では同じ部署の部員はほぼ全員そのメールを受信している。
 現在システムで詳細調査中。

「あの…写真を提供してきた人は誰なんですか? その人が送ってるってことはないんですか?」

 森本は逡巡するような表情をして黙ったが、人事部長が続いた。

「情報提供者のことは答えられないが、その人でないことは確かだ」
「何で言い切れるんですか?」

 人事部長と本部長が顔を見合わせ、本部長が頷き亜希子にこう告げた。

「中村さん、あなたは仕事の効率も良く正確なので信頼していました。しかしこうなった以上なにかしら手を打たないわけにもいかないので……。急なことですが、北関東営業所に異動してもらおうかと思っています」

 亜希子は何を言われたか分からず、一瞬息が止まったような気がした。言葉を振り絞るようにこう答えた。

「でも……私は引っ越しを伴うような異動がないエリア採用のはずです。北関東営業所へはとても自宅から通勤できません」

 手が震えていた。聡と小梅の顔が浮かんだ。

「エリア採用が異動がないというのは、あくまで原則です。人事権は会社が握っています。それに……君だってこんな状況になってしまって仕事がしづらいでしょう」

「結婚を考えている人がいて、その人に娘がいます。転居できません」

「それなら…北関東なら通勤できないこともないのでは? 申し訳ないが、本件はもう確定事項です。ご家庭……になるのかな? ご自身のことはご自身で判断願います」

 人事部を出た後、亜希子は呆然としながらフロアへ戻った。フロア内の同僚はすでに平常を取り戻していた。腫れ物に触るような扱いだろうが、好奇の目にさらされ続けているよりはマシだった。

 異動先である北関東営業所は水戸にあり、自宅から軽く3時間くらいかかりそうで通えるはずがない。
 今週は引き継ぎ資料をまとめよとの指示だったが、思考がまとまらないまま一日が過ぎた。

 このままではさすがに引き下がれない。聡に今日は遅くなるとSNSで連絡をいれると本社前のカフェに入り、エントランスがよく見える場所に席を確保してある人物を待つことにした。
 20時に回るころようやくその人物は姿を見せた。

「森本くん!」
「え、な、中村さん! なんでこんなところに」
「森本くん、教えて。あの写真は誰が送ってきたの? あれ絶対加工された写真だと思う。あなた誰か知ってるんでしょう?!」

 森本の進行を立ちふさぎ、一気にここまで話すと、森本はあからさまに動揺した様子で目を泳がせた。周囲の視線も気になるのだろう。小声でこう答えた。

「こんなことされたって、何かが覆るわけじゃない」
「覆るって? なにかあるのね?」
「言えるわけないだろう! 少なくとも中村さんの処分は会議で決定した。別に誰かが無理やり決めたとかじゃないよ。中村さん、なんかやっちゃったんだろ? 自分で身に覚えないの? 俺が言えるのはここまでだよ」

 森本はそう言うと、亜希子を押しのけて足早に去った。

 私は何をやっちゃったのだ? 思い返してみても心当たりが驚くほどない。しばしその場に立ち尽くしていたが、とにかく、帰って聡に相談しようと亜希子は思った。さすがの聡も異動の話は真面目に聞いてくれるだろう。


 自宅のマンションに着き玄関ドアを開けると、静まり返った室内がそこにあった。聡と小梅がいない。どこか外食でもしてるのだろうか……。すでに時間は21時過ぎだった。電気をつけ、携帯電話で連絡をすることにした。

「さっき送ったメッセージ、まだ読んでないじゃん……」

 遅くなると入れたSNSが既読になっていなかった。電話をかけてみたが応答しない。聡は連絡はきちんと入れてくれる人だった。ふと気になり、小梅の部屋を覗いてみた。

「嘘……なんで?」

 小梅の身の回りのもの、制服その他すべて無くなっていた。慌てて家の中をあちこち見ると聡の旅行用の鞄もなかった。
 考えるより早く手が動き、再度携帯電話で聡に連絡をした。

『おかけになった電話は現在電波の届かないところにあるか電源が入っていないため繋がりません』

 携帯からは、無機質な応答メッセージだけが繰り返された。亜希子の携帯電話を持つ手は力を失った。


つづく

2話はこちら

お気に召したらフォローお願いします。ツイッター(@tatsuki_shinno)でも呟いています。