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【現代病】「情熱コンプレックス」の病状報告

好きな言葉は「情熱」です。湘南美容外科クリニックのCMコピーです。「情熱」が好きって、何の捻りもないよね。円堂守かよ、と思ってました。Yahoo!知恵袋にこんなのも転がってました。

正論

特に、現代社会において、「情熱」は蔑みの対象になりがちだと思うので、蔑まれないように蔑んできたわけです。(上記の画像のように)

つい1年前(正確には10/14)、これから就活を始めるか、となったタイミングで、アートディレクターというこれまた胡散臭い肩書きで仕事をしている親戚(多分3〜4親等くらい)のおじさんと話す機会があり、そこで言われたコトも「情熱」の話だった。何かを成し遂げる人は結局「情熱」があるんだと。

この話を聞いて、なんかどこかで聞いたことある話だと感じた、それはそこからさらに1年前に遡る。電通のコピーライター、阿部広太郎さんの学生向けの話を聞いた時だ。変な親戚のおじさんと同じことを言っていた。そして、情熱を冷ましに来る大人たちもいる、という話もしてた。これに対する解決策として信じて進むべき、といういかにも「情熱」任せの回答を放り投げていただいた。

まぁそんな得体の知れない「情熱」という言葉を頭の片隅に配置しておきながら1年間過ごしてきたわけなんですよね。ただ、ここ1年で様々な「情熱」に触れる機会があった。

この夏、「GEZAN with Million Wish Collective」のライブを観た。言葉で片付けられない「ヤバさ」が胸に突き刺さった。(俺は時々こういう感覚になる)初めて「情熱」を浴びた感じがした。特に「BODY ODD」という楽曲。ライブごとに異なるゲストがフリースタイルでかましにやってくるものなのだが、ただ叫んでいる人、スケボーして叫ぶ人、裸で叫ぶ人など、各々がオリジナリティの叫びを披露していた。

毎週末、駅の広場で、お得意の大道芸を披露しているパフォーマーがいる。俺は、大道芸パフォーマーの目指す最終ゴールってなんだろうな、と思ってぼんやり見つめているのだが、結局それも「情熱」なのかも知れない。自分がやりたいからやる、というその理由のない純粋な動機に勝るものはないんだって気づいた。

「愛にイナズマ」「ハケンアニメ!」という映画2作品(どちらもかなりおすすめ)で描かれるのは、映画監督とアニメ監督という、創作に携わる2人のヒロインだ。彼女たちにも「情熱」があった。電通の阿部さんがいうように、「情熱」を冷ましにくる大人が劇中で描かれるのだが、諦めない。とにかく諦めない。「情熱」がある強み、とはそういうことなのかもしれないな、と思いながら、「情熱」は外部の邪魔が入っても拠り所とすることができる、いわばお守りみたいな存在でもあるな、ということも感じた。

こんな感じで、1年で様々な「情熱」に触れる機会があった。そして、先に述べた「情熱」を蔑んできた価値観というものが揺らぎに揺らいでるってわけ。「情熱」を持って何かに向かってる人こそ美しい、ライフイズビューティフル。そんな彼らに羨望の眼差しを向けるようになった。

同時に、大人に夢を絶たれる、「情熱」を冷ましにこられて、死ぬほど悔しい思いをした経験がないことについて、コンプレックスを感じるようになった。名付けるなら「情熱コンプレックス」というやつだ。

ここまできて、「暇と退屈の倫理学」(ちなみにまだ読み終わっていない)で國分功一郎先生が書いていた、幸せとは何かに熱中できることなんだ、という主張に納得感が得られた。

先日、自分がヘビーリスナーをやらせてもらっている、でお馴染みのポッドキャスト「奇奇怪怪」(旧「奇奇怪怪明解事典」)でも、どうやら同じようなことを言っていた。

この「情熱コンプレックス」が原因で昨今(この言葉の指す尺度がわからないから一応補足しておくと、1週間前くらいから今に至る間のこと)の俺は絶望している。

この絶望が、非常に狡滑なのは、生活に困らない点にある。この悩みを抱えていたところで、別に生きていけるのだ。そして、解決方法が「人による」(最も相談相手にしたくない人がよくいうアレ。)という点にもある。

結局、自分でしかどうにかできない問題だし、解決しなくても生きてはいけるのがとても悩ましい。だから、この文章を書いている今も特に解決法は思いついていないし、落とし所もなく、ただただ現状の報告となる予定だ。本来であれば、こういう悩みに対して、こう解決しました!というストーリーが鉄板中の鉄板、王道中の王道なのだが。

高校生時代を思い出の引き出し(ダサい文章表現)から取り出してみる。当時は良かった。熱中できるものがあったから。勉強に部活に。志望校という目標を学校から突きつけられ、それに向かって、「脳みそは回転しているが実質的には無回転」状態で机に向かっていた。これはおそらく「情熱の錯覚」ということなのだろうけど、その錯覚で十分満足できた。部活もそうだ。県ベスト〇〇、という目標をシステム的に立てて、それに向かって頼まれていないのに走って吐いて(月イチペースで体育館のトイレで吐いてた)の繰り返しだった。ただ、他のことを考えられないくらいには熱中していた。

それらを手放し、大学生となった今、「どんなことにも挑戦できる環境」だけが宙ぶらりんの状態で、SNSを眺める日々が続いている。つまりな、今の俺に必要なのは、ガールフレンドや友人などではなく、「情熱」を持てる夢、なんだ。結局、それに勝るものはない。みんなにはありますか?ない人は一報ください。「情熱」を持てるものがない人同士で繋がりましょう。

マッチングアプリの広告にも、「情熱」がない人同士で繋がろう!ってメッセージをつけちゃおう!

現場からは以上になります。

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