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なぜいまCommedia Dell'Arteなのか?
この記事は以前わたしが他SNSでワークショップ告知のために、シリーズで書いていた告知文を修正・加筆してまとめたものです。この記事はワークショップ実施後に書いているので、その影響も受けています。
Commedia Dell'Arte コメディア デラルテについて、少しでも理解が広がればな〜と思い、ここでもシェアしたいと思いまして載せました。
お時間ありましたらぜひ読んでみてくださいね〜。
(記事の特性上、コメディア デラルテの説明が最後になってしまいました。もしそちらにご興味あれば、後ろから読んでいただいたほうが良いかもです。)
マスクとカウンターマスク
まずあまり馴染みがないかもしれませんが、マスクには「カウンターマスク」というものがあります。これはそのマスク自体が持っている感情やキャラクターと対をなすものです。コメディア デラルテのキャラクターでいうと
・アルレッキーノは純真で狡猾
・カピターノには勇猛さと臆病さ
・ドットーレは博識でいて何も理解していないし
・パンタローニは優秀なのに恋に盲目
お芝居ではこのカウンターマスクを正しく演じることで、そのキャラクターやストーリーがとても豊かになります。
例えばディケンズ著、アラステア・シムが演じた「クリスマスキャロル」のスクルージがわかりやすいかもです。
スクルージの本来のマスクは純真でとても明るいキャラクターですが、彼は物語総じて暗く、ケチなカウンターマスクを被っています。
彼の甥であるフレッドや幽霊との掛け合いの中で、彼の本来のマスクが顔を覗かせ、その滲み出る優しさが彼の人間性を物語り、ひいてはストーリーそのものを豊かにしています。
あるいはジャイ◯ンのマスクはとても優しく思いやりあるキャラクターです。
ですが彼はずっと乱暴者でわがままというカウンターマスクを被っています。
でも本当は…
この「本当はあいつ◯◯なんだよ」
という本当は、がマスクで、それと対を為しているのがカウンターマスクですね。
以上のように仮面劇以外の物語でもとても有用なもので広く活用されているアイディアですが、物理的なマスクを用いることでよりわかりやすく学ぶことができるのです。
カウンターマスクをうまく利用すれば、その物語をより魅力的にすることができるでしょう。
歌や踊り、曲芸などの「非日常」の違和感
よく、ミュージカルやオペラで「そもそもなんでいま歌うの?」とか「なんで突然踊るん?」って思ったことないですか?
あるいはお芝居を見ていて「なんかただ喋ってるだけに聞こえる」って感じたことはないですか?
こういったことが起こってしまう理由のひとつに「そのキャラクターが行なっているアクションではないから」というのがあります。
コメディア デラルテには曲芸含め、大きな演技が入ることがたくさんあります。
例えば恋人が浮気しているのを見つけたパンタローニが、怒りのあまりバク宙をする。このシーンでも「ああ、素晴らしいバク宙だ!」ではなく「ああ、なんて素晴らしい怒りの表現だ!」となって欲しいわけですが、そのキャラクターの怒りではなくバク宙をやろうとすると、そのアクションが不明瞭になり、どうやったって違和感がうまれます。
これを観客が納得できる形態で提示できれば「自然な演技」として受け入れられるのですが、そもそも俳優が舞台上ですることは「自然なこと」ではありません。
この俳優が行う「自然ではないこと」を自然な様に見せられるようにする作業のことを「キャラクターを見つける」と言います。
後述しますが、コメディア デラルテでは基本的にキャラクターは何かに飢えています。それを満たすために「何をするのか?」ではなく「どうやるのか?」というwhatではなくhowに注意して取り組む必要があり、それをきちんと見つけられれば上述の観客が抱く違和感を回避することができます。
悲しいから笑える
さて、コメディア デラルテが中世〜近代演劇に与えた影響というのは計り知れません。シェークスピアやモリエール、ブレヒト、ベケット、ゲーテ、ルザンテ、ゴッツィ、ゴーリキーにチェーホフ、ゴーゴリ… 数えればキリがありません。
ゴルドーニはThe Servant of Two Masters(邦題:二人の主人を一度にもつと)を、フランスのモリエールによるコメディア デラルテの戯曲化に倣って書きましたし、ベケットのゴドーを待ちながらにもコメディア デラルテの要素が垣間見えます。
コメディア デラルテはルコックの教育の中ではthe human comedyとされています。commediaという言葉を使うとクリシェになってしまい(要は笑わせてやろうとし)、薄っぺらく魅力の薄いものになりがちだったことがその理由の様です。
the human comedy ヒューマンコメディとは、チャップリンの
“Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.”
"人生は拡大してみると悲劇だが、俯瞰でみると喜劇である"
という言葉にあるように、失敗と悲しみの中でそれでも逞しく生きるキャラクターの中に笑いを見出すものです。コメディア デラルテのキャラクターたちは基本的に何かに飢えています。満たされない愛だったり、いつまでも満足できない富だったり。それを埋めるために努力をし、混乱の中それでもひたむきにそれに向かって一途に進み、そして必ず失敗します。これは当人にとっては悲しみですが、観客にとっては笑いとなるのです。
「でもガラスの動物園とかだったら関係なくない?」
なんて思われるかもしれませんが…
いえいえとんでもない!大いに関係があります。
悲劇と喜劇はコインの表裏です。簡単にそれらは行き来しひっくり返ります。
ガラスの動物園では、マスク(キャラクター)を置き換えれば、ストーリー(起こる出来事)はそのままに、コメディにもなるしそのままの悲劇にもなります。
これを理解することは劇の構造を学ぶことであり、その中でのマスク(キャラクター)の役割を体感することができます。それを知っていることは俳優がアーティストとして作品に関わる上で必須であり、作品をさらに豊かにするための選択肢が増えるでしょう。
そのためにコメディア デラルテを学ぶことは重要だと考えています。わたしは悲劇の中にある喜劇の方が、喜劇だけよりも魅力的だと思います。
映画Life is Beautiful のように。
マルセロ マルソーのパントマイムのように。
悲しいから、笑えるんです。笑うことは悲しいんです。
それでも笑っていくんです。それが生きることだから。
コメディアデラルテのキャラクターたちは生きるのに必死です。
金、情事のもつれ、空腹、見栄。どれをとっても悲劇の香りしかしないけど。
そこには必ず笑いがあり、わたしたちの命があるのです。
…でコメディアデラルテってなによ?
ヒューマンコメディとして名高いコメディア デラルテ(Commedia dell’arte)はスラップスティック コメディ(ドタバタ劇)で、登場人物が物事を解決しようとしてどんどん話が複雑になり、しかし最後にはすべての絡まった糸が解け大団円、という構成がほとんどです。
その起源はやはりギリシャ演劇に遡ります。
古代ギリシャではさまざま種類の演劇が開発されていきましたが、その中にミモス(mimos)劇というのがあります。これはあまり言葉に頼らず、身体をより使う喜劇であったとされ、言語に依存しないため、広く伝播していきました。
それがローマへと輸入され、その後広くヨーロッパで広がった喜劇がコメディア デラルテです。舞台で演じられることもありましたが、その多くはストリートパフォーマンス(野外劇)であったとされています。
客寄せにも使われ、市場(マーケット)で人目につくように高く積まれた(おおよそ立席で観ている人の目線の高さくらいの)舞台上で演じられることもありました。
また似たような名前でコメディア エルディタ(Commedia Erudita)というものもありました。これはデラルテとは違い、脚本のある朗誦劇であったとされます。
コメディア デラルテにはストックキャラクター(常套的類型人物というらしいです)と呼ばれる「どの物語でも基本的に同じ(固定された)人格=キャラクター」が数多く登場します。
コメディア デラルテのストックキャラクターは、本当に多くの舞台作品で活用されています。
日本の狂言とも共通点が多いので、日本人にも馴染みのある形式だなと思います。
ストックキャラクターには様々な人格があります。
例えば印象的な長い鼻のカピターノというキャラクターは、いつも戦争での武勇伝を大仰に語りますが、とても小心者で少しのことでもビクビクしてしまいます。
ドットーレは博識でよく喋り、異性との会話が上手ですが、その言葉はあまり意味をなさず、よくわからない困った系おじいちゃんです。
中でも有名なアルレッキーノ(イギリスではハーレクインとも)は曲芸が多く、極悪非道ではないが残忍さも持ち合わせる無邪気な子どものような存在で、ハムレット俳優ならぬアルレッキーノ俳優という呼び方が生まれるくらい特殊かつ技術の求められる、とても魅力的なキャラクターです。
コメディア デラルテのストーリーは、その日の全体の構成が箇条書きで幕中に貼られ、それを基に俳優が演じていました。演目はあえて脚本化を避け口伝で伝え、同業者に盗まれないように工夫されていました。
上演中に観客が飽きてきた時や何か変化をつけたい時、あるいは舞台的に時間が必要な時にはLazzi(単数系ではLazzo)という、形式の決まった小芝居を挟み、またストーリーに戻る、という即興性の強い形態をとっていました。
後にフランスへと輸入され、モリエールがデラルテに触発されて脚本化したころから、デラルテの脚本化が広がっていきました。
「職業俳優集団」として最初期の形態とも言われます。演技だけでなく曲芸をし、即興でシーンを作り、踊りあり歌ありと、それに関わるパフォーマーたちは非常に技能が高かったと考えられています。足技も多くバレエの素養も必要でした。その技能の高さも相まってとても人気の劇形式でした。宮廷公演でも常連でしたし、何より300年もその形態を維持し、上記のような多くの演劇人に影響を与えたことからも、いかに人気の大衆的パフォーマスであったかがうかがえます。
コメディア デラルテでは前述の通りマスクを用います。
このマスクを使ったワークをうまく機能させる為には様々な形式の俳優技法に取り組む必要がありますし、劇構造をきちんと理解して演じる必要があるため現代では俳優トレーニングとしてもとても重要な位置づけをされています。
終わりに
この学術的にも興味深いジャンルに取り組むことは、第四の壁によって一旦離れてしまった「観客」と「俳優」、そして「ストーリー」の三つ巴の関係性を見直し、その更なる可能性を追求することだと考えています。
最近はイマーシブシアターなど、ここ百年くらいで当たり前とされたパフォーマンスと観客の関係を積極的に見直し、別の形で再構築する動きが盛んになってきました。だからこそ、このワークに取り組むことでジャンルに捉われず舞台そのものの可能性を更に見出すことができると思います。
現代の海外演劇学校では当たり前にカリキュラムに組み込まれているのも、そういった理由によるものでしょう。
賛否両論あると思いますが、わたしはコメディア デラルテをただの古典として扱ったのでは、その潜在する可能性を否定してしまうと感じています。
そしてコメディア デラルテで舞台と観客の関係性について学ぶのであれば、登場人物は現代に存在するべきであり、古典として過去に存在してしまうとその関係性を構築することは最早不可能となり、その存在理由すら見失ってしまって、それは芝居の死に繋がります。
今回のワークショップではこの魅力的なキャラクターたちを現代に甦されられ、とても達成感がありました。
それによって気づきも多く生まれたのではないかと考えています。
最後までお読みいただきありがとうございます。
下に今回のワークショップのアルバムのリンクも貼っていますので、そちらもよければご覧ください。
いつも長くなってしまってアレなんですが…
また懲りずに読んでくださいね。
2022 7/8-11に行ったCommedia Dell'Arteワークショップのアルバムです。
こちらもぜひご覧ください。
Posted by 安本達也/ Tatsuya Yasumoto on Tuesday, July 19, 2022
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