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『目的への抵抗』(國分功一郎・新潮新書)

中動態の話からこの著者の本に触れ、その見るアングルが楽しく、また説き聞かせる口調が読みやすいせいもあり、何冊か拝読してきた。その中動態が責任とつながるという切り口は、とてもフレッシュであり、かつ考えさせられた。この著者により、新たにまた新書という手軽に入手できる本が発行されたので、すぐに読みたいと思った。
 
よく見ると「シリーズ哲学講話」とあるので、また続きが出てくることを期待しているが、さしあたりこれは、東京大学での講話を収録したものであるという。東大であれどこであれ、大学生相手に話しているので、より分かりやすく話していると思う。講演というのは、一回きりの時間の中で流れて消えていく声に基づいている。読書ならば読み返すところを、語るほうは先読みして、語り返すことをしなければならない。それは、語るということを、一種の対話のように捉えている人には常識である。これが分からず、用意した作文を棒読みする礼拝説教者がいるが、全く分かっていないと言わざるをえない。
 
さて、本書は新書である。普通200頁程度で、用件をまとめなければならない。多くのことを伝えようと欲張らないほうがよい。だから、タイトルの「目的への抵抗」は、正にそれ、というところを示している。帯には、「自由は、目的を超える。」と大きく書かれている。ここまで説明してくれると、もう本書の要点は尽くしていると言える。
 
2020年に緊急事態宣言が発令され、社会は類い希な情況に陥った。「自粛」という律法が社会と人間を束縛するという、論理的に納得できないことが、当たり前の現実となった。それは、一部の人の反感を買うことにはなるのだが、大義名分の前に、刃向かえない戒厳令の如き威力を発揮した。ヘーゲルが指摘したような、「私」と「私たち」とが互いを形成する様子がよく分かるようだった。
 
このコロナ禍、あるいは著者はもう「コロナ危機」と呼ぶが、それを背景に語り始める。もちろん、その大学生たちも、コロナウィルス感染症の影響を多々受けてきた面々である。痛いほど、その功罪を感じている。否、功などないのかもしれない。
 
話は、哲学者アガンべンの考えを軸に展開する。生きることだけが至上目的であってよいのかどうか。特に、「自由の制限」の特殊さという指摘は、帯の言葉にも関するからだが、非常に重要であるように感じた。そもそも感染症というものは、人間の移動により猛威を振るってきた。そのため、感染症を食い止めるには、人間の移動を止めるというのは、確かに方法なのである。しかし、考えてみれば、犯罪者を牢に入れるというのは、移動の自由を禁ずることであり、それが重罰になると考えられるからであった。その辺りの背景も、フーコーを説明しながら著者は、説得力ある議論を展開する。
 
しかしまた、議論のポイントは、三権分立とは言いながら、事実上「行政」が権力を単独で振るう政治の実情でもある。これは著者自身政治的に体験があるそうなのだが、それは後に記される。私たちもまた、「閣議決定」で事が次々となされることについて、なんとも思わないで許してきた観がある。そこを、やはり追及しなければならなかったのだ。否、これからしなけれはならないのである。それも、説得力ある論理を用いてとなるから、たんに政治的弁論に対して退いているわけにはゆかない。とはいえ、政治も政治で、多様な人々を視野に入れなければならないから、それなりに努力はしているのだ。それを、一部の利益のために、船全体の舵を切り間違ってもらっては困る。
 
課題は山積する。本書は、一定の結論をもち、展望を示すこともしているけれども、それでもある意味で何一つ解決してはいない。後援会らしく、「質疑応答」をとっていて、それもよく掲載されているのだが、著者自身が気づかせられることや、今後のテーマとすべきことなど、生々しい応答が残されている。だから「シリーズ」なのだろうが、ここからまた次の議論が始まるというような印象を与えていると思った。
 
後半のテーマは、とくに「不要不急」という言葉の周りを巡るように語られた。目的がまず定められ、それに応じて手段が決まる。それを当たり前のように認めている私たちは危険ではないか。こちらでは、より「目的」の設置の危険性を暴く話が続く。今度はベンヤミンが多く用いられるが、アーレントも鍵になる。講演であるので、あまりにも多くの人を登場させると散漫になるのだろう。このくらいの人数に絞っていれば、伝わりやすいし、話の筋道もつけやすくなると思われる。
 
目的の設定が認められたとたん、手段が簡単に正当化されやすくなる。その意味では、目的が原因となっており、目的というものが根拠や原理として働くことになる。前提が正しければ、そこから発生する論理的に適当である事柄もまた、正しいと認められなければならない。それで、人類は大きな過ちをいくらでもやってきた。いまなお、それは留まるところがない。
 
その目的は、私たちの思想や行動を規定し、決定するだろう。それは、私たちに自由がなくなるということである。そのため、その講演の存在自体を、ここでの主張の実現とするオチがあるのだが、それは本書を辿ってからのお楽しみとしなければなるまい。
 
要するに、堅苦しく考えるのは危ない、という辺りで私なりにまとめておきたいが、それは信仰も同じである。堅苦しく思いこみから定められた教義が、人の生活を破壊し、命さえ奪っている現実が、いま問題にされているのである。そういう特殊な組織においてだけではないと私は思う。本書は専ら政治を舞台に語られているが、宗教の世界にも、当てはまるものがあると私は確信している。
 
これは余談であるが、本書発売後、あるラジオ番組でゲストとして呼ばれた著者は、気さくな雰囲気で楽しく本書について語っていた。その曜日出演の三田寛子さんが最後に、親としては子育てに目的をもちがちだが、自分の親、つまり子どもからすれば祖父母というのは、目的への抵抗をしているのだと思った、というような発言をした。これには著者も絶句していた。いや、そのように哲学を生活の中で噛みしめてくれるというのは、実にうれしいことだったはずである。私も、その発言には、思わず拍手を送った次第である。

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