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中学で生徒会役員をしたとき、それはどこか「ごっこ」めいていたと思う。何かしら事務の手続きを覚えるための練習の場のようなものだった。事務レベルで何をするか、それを総会という建前の中でどう営むか。いろいろ教えてもらった。
 
それでも、生徒総会で、靴下のライン数についての校則を変更するに至ったのは、ひとつの成果であったかもしれない。規則を変えるにはどういう手続きが必要なのか、学んだ。
 
ブラック校則などと、マスコミが、時に真面目に、時に面白おかしく紹介することがある。それを世の中の正義だとか人権だとかの俎の上で大人たちが料理しようとするから、話がどこかずれていくことがある。ひとつの教育の場での営みを、大人の横槍で大人の正義の色に塗りつぶそうとするからだ。
 
それは逆に言えば、もし校長や教諭などの大人の側の言い分に理屈に合うものがあるという判断をしたときには、マスコミや輿論が、一斉に子どもたちを圧政的に潰すという動きにもなりうる動きになるだろう。それはまた、「お国のために」一色に染めていった、あのマスコミと軍部や政治家たちとが社会をつくっていった歴史の再現ということにもなりかねない。とにかく「正しい」ことは、何よりも優先することができるのだ。
 
校則は、世の中の法律のモデルである。法律を変える必要はあるだろう。そのために国民(生徒)は、どういう声の出し方をし、考えをまとめ、どのようにそれを主張し、また決定へ向かうのか、そういう公民的手続きを、子どもたちが覚えていく場がある、それが教育現場である。何も、下着の色が白だという規則が普遍的かどうかを決める正義論に従うべきだなどという話ではないのである。
 
アナーキズムも起こりうる。昔から不良などと言われる者たちは、法を破ることで自己主張をしていた。そういう者がいるときには、法に則る生徒会というものが頼もしく見えることも多いだろう。しかしまた、法に従っている生徒たちが、果たして良い子として教育の目的であるのかどうか、は分からない。なぜならば、その法が最善であるという保証がないままに、法には、とりあえず無条件で従っておくのが、世を生きるには「得」だからだ。
 
功利的に聞こえるかもしれないが、法に従っているかぎり、人は責任を問われない。たとえ倫理的に疑念をもたれても、法に違反していない限り、罰されることはない。また、法に従って行ったことについては、何か失敗をもたらしてしまっても、「過失」という扱いにしかならない。「犯罪」の要件を満たさないからだ。法に従っておくほうが、何かと「得」なのである。
 
そこへいくと、わざわざ法を犯すと、その犯したことの故に起きた事態には、全責任を負わなければならなくなる。酒酔い運転をした者が、その事故に対して重い責任を負うのは、それが法を犯しているからだ。これが難しい判断となるのは、高齢による判断ミスの故に自己を起こした場合である。人間の知能や判断能力については、責任を負えるかどうかという判定が伴うが、大変難しい扱いがそこに伴うことになる。こうして、法そのものも、その時代や環境に応じて変化していく運命にある。だったら、その時の法が唯一の正義であるかのように扱う必要もないのだが、人はその都度自分が正しければ安心するし、その都度正しくない者を非難する権利をもつと考えているらしい。
 
カントの説の中で、悪名高いものがある。人殺しに追われ、友人が助けを求めて逃げ込んできた。そして家の中にかくまったのだが、続いてその人殺しがやってきた。カントは、嘘をつくことは道徳に反するとして、友人は外に逃げたと嘘をつくことは道徳的ではない、と説明したのである。さすがにこれは多くの人の反発を買った。だが、カントの言い分はこうである。友人がこっそり家を出たために人殺しと会わずに済むかもしれない。他方、もしここから逃げたぞと教えた場合、こっそり家を出た友人がその人殺しと出くわして殺される可能性もある。その場合、嘘を言った自分が全責任を負わねばならなくなる。嘘をついてはならないという義務に反したことにより最悪の事態が起きてしまったら、自分の責任になるではないか、というのだ。
 
どうもそれも違うような気がする、という皆さまの声が聞こえてきそうである。それが健全な見方だろうと思う。カントはカントで、現実の倫理というよりは、道徳の原則とはどういうものたるべきかを例示しようとしたのである。つまり、法に従わないならば、そのことにより起こった事態の責任を負うことになる、ということを言おうとしただけなのであろう。
 
法が気に入らないから破ってよい。これを正当化するような教育はよろしくない。悪法もまた法なり、と死刑を受け容れたソクラテスに倣えという意味ではない。私たちが、その法が悪法であるということを、どうやって知るのであろうか。つまり自分にとり悪法でも、ある人には非常によい法律であるかもしれない。それを、自分から見れば悪法だから破ってよいし、それが正義なのだ、と思い込むことは、非常に危険なことである。
 
だから、法を制定するということは、非常に難しい。多くの人の目に良い法律のように思えても、それは一部の人を苦しめるものであるかもしれない。ナチスもそのようにして、国民の支持を得た手続きの上で、法的にユダヤ人を殺害したのだ。これを歴史から学ばなければならない。しかもアンナ・ハーレントによれば、それを成し遂げた実行犯は、きわめて凡庸な人間なのであった。つまりこれは、私たちの誰もが、そのようなことをなしうるということである。
 
しかも法というものが成立するとなると、明確に適用できる対象や要件が決められねばならない。法を決めたものの、ある場合には有罪で、ある場合には無罪だというような判断が、曖昧な形でまかり通るようであってはならない。
 
日本語には、とても拙い言い回しがある。「原則」という言葉である。日本語でこの語が使われるときは、通常間違いなく、「例外」が想定されている。「原則ではそうだが、しかし……」とくる。この使い方は撲滅してほしい。西欧語で「原則」という意味の語はいろいろあるだろうが、共通している理解は、「原則とは例外をもたないものである」ということだ。例外をもつものは、「原則」とは決して呼ばれないのだ。「原理」も同様である。「原理」は理屈であり、「原則」は規則である。法は、この適切な意味での「原則」に基づいている。少なくとも、基づいているという理念がある。だから、法律の制定には十分な検討が必要である。そのため、立法というのは、実に責任の大きな、そして慎重な検討を要する営みであるのだ。「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関」(憲法第41条)とは何であったか。「国会」である。「立法府」である。国会会期中は毎日のように、新しい法律が決められている。大変な仕事だ。そのどれもが、例外を抱えない、適用にあたり原則通りに運べるように検討されているのである。
 
西欧語では、「法律」と「法則」とに差がない場合が多い。「法則」にはごろごろ例外があってはいけないだろうことは日本人にも理解できると思う。だったら、「法律」にも例外がつきまとうようであっては、役立つことがないということもお分かり戴けるだろうと思う。
 
コロナ禍の下、酒を提供する店は営業するな、というような法は非常に不条理なものに見えて仕方がないし、当事者にとっては死活問題である。だが、適用については曖昧さがない。ある店は営業できてある店はだめ、というような不公平を生じさせないために努めている。
 
ワクチン接種の順序ひとつで、不公平だという声がブーブー聞こえてくるのがこの社会である。それは、きっぱりと基準が決められていなかったことによる。ワクチンは生物であるために、現場で融通を利かせた接種運営を必要とする。四角四面の法てきな判断ではすべて実行はできないのだ。すると、不公平のシュプレヒコールが一斉に出てくるのである。
 
店への要請なり強制なりに、情緒的な判断を下すとなると、同じ不公平の不満の声が起こる。政治家は、これを避けようとする。そ知らを優先するために、つれない素振りをするのかもしれない。誤解して戴きたくないが、この休業要請などが最善だという意見を私が述べている訳ではない。法というものが何であるかを考えているだけである。その意味では、カント風に聞こえるかもしれないけれども。事実、感染予防に努めている飲食店を閉店させ、外で無防備な会食なり飲食なりをはびこらせることが、却って感染を拡大しているとなると、何のための法なのか、甚だ疑問であることは、明らかであろうと思われる。
 
では、酒屋や飲食店はもうどうしようもないのか。私たち傍観者ですら、彼らに同情したくなるではないか。しかし、この傍観者が一番質が悪い。自分は正義を唱えているつもりである。なんとかならないかという意見の中にも、この人は政府を批判し、辛い立場の人に寄り添う正義の味方なのだと見られたいという思惑が現れている。けれどもこの人は、具体的に、飲食店の救済のために運動をしたのだろうか。声を挙げたのだろうか。飲食店が潰れようが自分には影響しないというような立場で、義侠心だけを理解してもらおうとしている魂胆はないだろうか。当事者の実際の苦難からは自ら距離を十分保ちつつ、政府を批判することで自分が正しいとしているだけなのではないだろうか。
 
いじめられている人は辛いだろう、いじめはだめだ。こういう意見を強く言う人がいる。果たしてこの人は、自分が誰かをいじめているという可能性を、少しも考えないのだろうか。それは本当にないのだろうか。いじめの本当の拙いところは、自分がいじめているという意識を、いじめている側がもたないことである。「いじめはだめだ」それはいい。だがそれは、「自分はだめだ」から始めなければ、ただの危険な武器にしかならない。
 
ではどうしたらよいのか。「こうすればよい」というようなものが私の口から出てくるくらい、簡単なことであるのなら、誰も苦労はしない。経済的に困っている人たちがなんとかならないか、という、いわば惻隠の情は、決して悪いものではない。だが、女性が広い範囲で苦難に陥っていることや、学生がどんなに苦しい思いでいるのか、そうしたことに気づかないままに、思いつきで飲食店だけのために義憤を掲げても、あまり良いことにはならないだろう。住む家のない方々の置かれた状況も、コロナ禍の中で酷いものに違いないし、何よりも医療従事者(に限らずいろいろな職種や立場の方のことを含むつもりで申し上げるとご理解戴きたい)は、その家族までが差別を受けて、いったい誰のために外も歩けぬ情況に陥らせられており、誰のために献身的に危険な仕事を続けているのか、全く不条理そのものである。キリスト教会関係の人の中には、マスクもなしに楽しそうに遊んだり会食をしたりしている最近の様子をSNSで宣伝している人もいる。それを見た医療従事者がどのような気持ちを抱くか、そこへの想像力も欠落していると見るほかない状態である。その口で「愛」を説き、飲食店に同情するのだとしたら、なんとも空しいものである。
 
私は何もできない。教会も、このコロナ禍ではほぼ何もできないでいる。一部の教会では、このときにこそ、と援助に懸命であるようだ。頭が下がる。そしてこのような教会では、決して安易に、自分の正義を褒めてもらいたいような態度をとることがない。大いに見習いたい。私は何もできない。できないから、どんなに非難されても仕方がない。きっと誰かを苦しめもしている。それでもまた、「こんな見方もあるのだ」という視野の体験を、どなたにもして戴きたいと思っている。多くの場合、誰かを非難しているのではない。気づいて、考えて戴きたいのだ。さらにまた、自分の気づかないことを、教えてもらいたいのである。不愉快にお思いの方には申し訳ないと言うばかりである。その上で、考えて戴きたい。自分を知り、神に問い、上からの知恵を受けて戴きたいと切に願っている。

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