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将門を祀る?黒船神社(台東区)

 黒船神社へは東京メトロ銀座線田原町駅が近い。私は浅草通を上野方面から歩いた。浅草通は上野と浅草をつないでいて、沿道は仏壇、仏具や神具、お宮を扱う店が並ぶ。寛永寺、東本願寺、浅草寺他多くの寺社があるので、門前町としてこのような店が多いのだろう。
 田原町駅は浅草通の地下にある。

 寿四丁目の交差点で国際通りを蔵前方面(南)におれて、最初の信号の所で今度は左(東、隅田川方向)に折れる。
 静かな通りをしばらく進むと黒船神社が見えてくる。

 こじんまりとした神社だ。倉稲魂命を祀る稲荷神社である。

 天慶三年[940]、将門の乱平定後に平貞盛と藤原秀郷が黒船稲荷大明神として造営したという。二人が共同で創建した神社というのは珍しいのではないだろうか。

 中世の頃は一時衰廃したが、江戸初期の寛永の頃[1624~44]に釈妙円尼が泉住寺を別当寺として建立し、神社を再興した。
 当初は黒船町河岸にあったという。古地図で見ると浅草通の厩橋の傍が黒船町といった。(現、蔵前二丁目)

 享保十七年[1732]に火事で類焼し、近くの御蔵(幕府の米蔵。関東一円から集められた年貢米が貯蔵されている)の火よけ地として土地を召し上げられ、その代替地として現在地を賜り遷ったという。

 江戸時代には散穂稲荷と紅葉山稲荷を合わせて、黒船三社稲荷大明神と呼ばれていたようだ。散穂、紅葉山両稲荷とも、元は江戸城内にあった。

 黒船稲荷の由緒に寄れば、藤原秀郷が夢の中で青海原に浮かぶ黒船を見たという。船には財宝が岡のように積みあがっており、神人が乗っていた。神人の左右には白狐が並んでいた。
 神人は倉稲魂命と名乗り、秀郷の領地の入間川の岸に白狐がいる。そこが汝の縁地であると告げた。
 秀郷は目覚めてから入間川を探ると、岸辺の石の上に白狐がうずくまっていた。白狐は秀郷の姿を見ると、岡の上に走った。秀郷が堤の上に行くと、白狐は消えていた。
 秀郷は神託に違いないと、白狐のいた石をご神体とし、白狐の消えた岡の上に社を建てた。そして夢の中の容像を象って黒船大明神と称した。

 ここでいう入間川とは隅田川のことである。

稲荷だが狐ではなく狛犬だった

 神社の由緒からは平貞盛の名は出てこない。また、将門の乱平定を祈願したとか、将門の霊を鎮めるためなど、将門の関する話もない。だから将門とは関係ない神社と言えなくもないが、将門を討ちとった二人の武将が創建したとなると、やはり無関係ではないと感じたが、どうだろう。

 私としては、神仏の加護があって乱を無事平定できたという感謝のしるしとして、二人そろって稲荷神を勧請したと考えたい。

 ところで、こんな面白い来歴のある神社なのに、由緒を説明した看板一つないのはもったいない。歴史に興味のない人は由緒を解説した看板など目を止めないだろうが、関心を持たれるきっかけになることは間違いないと思うのだが・・・。

 誰もこの小さな社に千年以上の歴史があるとは、知らないのだろう。私が訪れたのは正月五日のことだが、初詣の賑わいは無かった。
 ただ、私が拝殿に拝礼しているのを見て、通りがかりの御婦人が一人、「私もお参りしよう」と入ってこられたのみだ。

 それでも、境内はきれいに掃き清められ、鳥居には注連縄と松飾りがあった。
 大切にされているのだ。



 

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