将門を祀る?宝泉寺(新宿区)
東京メトロ東西線の早稲田駅で下車。早稲田通りを穴八幡の交差点方向へ歩き、そこから右へ折れて早大南門通りに入る。同じ方向へ歩く人々は早稲田大学の学生だろうか。
通りは緩やかな下り坂だ。行く手に大隈講堂の塔が見えてくるが、この塔に気を取られていると目的地を過ぎてしまう。
私は「お寺の鐘が見えたような気がする」と、見当違いな路地に入ってしまい、寺の横の本来の入り口をは違うところから中に入ってしまった。本当の入り口は南門通りにある。
天台宗宝泉寺の入り口は、あまり寺らしくない。境内に入っていくとコンクリート造りの本堂がある。屋根にある模様が独特。何かを表現しているのだろうか。
階段の両端に小さなかわいらしいお地蔵さんが置かれている。
寺域はそれほど広くはない。とはいっても、裏手には墓がぎっしりと建っている。背後には早稲田大学の建物が見える。というより、早稲田大学の敷地の一部に寺があるように見える。
実はそれは逆で、元々宝泉寺の寺域だった場所に大学ができたのである。
宝泉寺の創建は弘仁年間の810年頃、平安時代初期の嵯峨天皇の御代でかなり古い歴史がある。
一方で藤原秀郷が平将門の乱(承平の乱)の時に創建したという話もある。
本尊は薬師如来。元は伝教大師最澄の作と伝わる本尊があったが、空襲で焼失。現在の本尊は平成四年[1992]に造られた。
かつて境内に毘沙門堂があって、これは秀郷の念持仏を祀ったのだった。秀郷は戦勝祈願をして、この毘沙門天像を寺に安置したのだという。
秀郷は将門との戦いに勝利したことで、ここの毘沙門様は勝負ごとにご利益があるという評判になったということだ。
残念なことに、毘沙門天像は明治時代に火事で失われてしまった。
寺は南北朝の動乱期に荒廃したという。それを扇谷上杉朝義が文亀元年[1501]に復興した。
しかし、戦国時代にまたまた荒廃。
天文十九年[1550]、今度は牛込氏が復興したのだった。
勝負の神、毘沙門天のご利益ということか、江戸で最初の富くじはこの宝泉寺で行われたのだそうだ。そのため、寺は隆盛したという。一発当てる夢を見るのは昔も今も変わらない?
かつて、広い境内には守宮池もあり高田富士と呼ばれる富士塚もあり古墳もあり、次に訪れる予定の水稲荷神社の別当寺でもあった。
本堂は現在の場所ではなく、大隈重信の銅像が立つている辺りにあったそうだ。
大隈重信の銅像の横はかつて土地が高くなっていて、高田富士、水稲荷、そして大学の八号館の辺りには宝泉寺の墓地もあったという。
明治の廃仏毀釈令により、寺域は大幅に縮小された。そのほとんどは早稲田大学になる。そのため、現在でも大学との結びつきは強い。
宝泉寺では早大の大学生と共に「早稲田てらこや」を開催し、地域の子供たちと新宿御苑での自然観察や地域の清掃、てらこやお絵描きなどいろいろな活動をしているという。
次回は水稲荷神社の予定。
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