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大和岩雄遺稿『日神信仰論』(1)

 2021年6月20日に亡くなられた大和おおわ岩雄さんの遺稿『日神信仰論』が大和書房から2024年1月に出版されました。
 大和さんは1928年2月15日長野県生まれ。大和書房や青春出版社を創業され、編集者、経営者を務める傍ら、古代史を研究されて、多くの著書を残されました。
 大和さんの研究は日本にとどまらず、ヨーロッパなどにもひろがり、多くの資料や文献を渉猟し引用しながら、自在に展開される説に筆者はとても刺激を受け、古代史がますます好きになりました。

 その大和さんの最後の著書『日神信仰論』とは、どんな本でしょうか。


 日神とは日本の太陽神という意味です。日本神話の太陽神といえば「アマテラスオオミカミ(天照大神、天照大御神)ですが、大和氏によれば、これは『古事記』で創作された神であり、持統天皇以降に作られたというのです。
 そして、「タカマガハラ(高天原)」も、天平時代に創作されたというのです。
 一体どういうことでしょう。

 天照大御神は太陽神であると同時に天皇家の祖先神でもあるはずですね。それが、『古事記』で創作されたって…。それでは皇室の始祖神は?

 それは神魯岐カムロキ神魯美カムロミという男女二神です。
「誰それ。聞いたことないよ」
 『記』『紀』神話に出てきませんからね。無理もないです。

 聖武天皇が即位したとき(神亀元年[724])の宣命は、
「高天原に神留り坐す皇親神魯貴岐・神魯美命の、吾孫の知らさむ食国天下と…」(『続日本紀』記載)
 皇親はカムロキ・カムロミノミコトの男女神とはっきり書かれています。

 聖武天皇の即位宣命は『日本書紀』の成立した養老四年[720]よりもあとです。

 孝謙天皇の天平勝宝元年[749]の即位宣命でも、
「高天原に神積り坐す皇親神魯棄・神魯美命以て、吾孫の命の知らさむ食国天下と…」
 淳仁天皇の天平宝字二年[758]の即位宣命も、
「高天原に神積り坐す皇親神魯弃・神魯美命の吾孫の知らさむ食国天下と…」
 と、漢字は微妙に違うけれど、やはりカムロキ・カムロミノミコトが高天原の皇親神としています。

 大和さんはこのカムロキこそ日神(男神)であり、カムロミが日女のことといいます。『日本書紀』の書く「大日孁貴おおひるめのむち」とは、「日女」を日神化した神名なのです。
 カムロキ・カムロミは固有名詞というよりは、男神・女神という意味とも取れますが、ともかく皇室の始祖を天照大神ひと柱とはしていないということが無視できない点です。
 文字なき時代にこのクニに暮らした人々が信仰していたのは、この男女二神だったのです。
 太陽を象徴しているのは日神のほうで、日女はその妻(あるいは巫女)です。

 神話において、太陽神はどのように誕生したのでしょうか。『日本書紀』神代上・第五段の本文によると…
「伊弉諾尊・伊弉冉尊、共にはかりてのたまはく。『吾すでに大八洲国と山川草木を生めり。いかにぞ天下の主者を生まざらむ』とのたまふ。是に共に日神を生みたまふ
 とあり、伊弉諾と伊弉冉が日神を生んだと書いてあります。

 また、伊弉諾が黄泉の国から帰還して、筑紫の日向の小戸の橘の檍原で禊を行ったときのことです。(第五段、一書の第六)
「左の眼を洗ひたまふ。因りて神を生みたまひ、号けて天照大神と曰す。復右の眼を洗ひたまふ。因りて神を生みたまひ、号けて月読尊と曰す。復鼻を洗ひたまふ。因りて神を生みたまひ、号けて素戔嗚尊と曰す。(略)『天照大神は以て高天原を治らすべし。(略)』
 ここでは、伊弉諾が左目を洗ったときに天照大神が生まれたとあります。

 この二つのエピソードは全然ルーツが違うものです。そして本来、伊弉諾・伊弉冉の二神が日神を生んだという本文(正文)が重視されるのが筋なのに、なぜか一書の第六の記事を取り上げる論考がほとんどであると大和氏はいいます。
 これは一書の第六に天照大神の神名が出てくるせいでしょうか。

 実は第五段の本文の記事では
「日神を生みたまふ。」の文に続けて「大日孁貴おほひるめのむちまをす」とあり、そのあと小さな字で「一書に云はく、天照大神といふ。一書に云はく、天照大日孁尊といふ」と書かれています。
 
 「一書に云はく」は「参考」の話であって、『紀』の本文は日神(大日孁貴)が太陽神の神名です。

 それにしても、混乱しますね。どうしてこんなことになったのか…。

 『日本書紀』では、日神が多く出てきます。そして日神の治めるのは「天原」と明記されています。「高天原」ではありません。天照大神や高天原の出てくる文章もありますが「一書」であり、記述は少ないのです。
 大和氏はこれは「天照大神」と「高天原」が後から創作されて、『日本書紀』の編纂の途中で、追加されたためだというのです。

 本来日神は男神で、大日孁貴は日神の別名ではなく、日神とペアになる日女の事なのです。それを、太陽神を女神に変える必要から、大日孁貴を日神と同じ神とし、「一書に云はく、天照大神といふ」という記事を小さく書き加えたのです。

 また天原と高天原ではその言葉の持つイメージが違います。どういうことかというと、天原は「横イメージ」の天なのだといいます。それに対し、高天原は「縦イメージ」の天です。どういうことか説明しましょう。

 『紀』『記』編纂時期と重なる歌集といえば『万葉集』ですね。実は『万葉集』には、「天原」は出てきても「高天原」は一つも出てこないのです。このことからも、「高天原」は当時の人々にはなじみのない語とわかります。
 この「天原」は「あまの原振りけ見れば」とか「天の原振り放け見つつ」のように、「振り放け見る」とセットになって詠まれることが多いのです。このことから天原(天の原)は真上にあるのではなく地上や海上との境目━━横イメージの天であるとわかります。

 ところが「高天原」はどうでしょう。どこにあると思いますか。雲の上の天界のイメージ━━縦イメージの天と思いませんか。

 でも、万葉人…いや、それ以前の文字なき時代のこのクニの人々は、天原は地平、山並み、水平線のかなたにあると考えた。そこから昇る(あるいは沈む)太陽が放つ光に神の姿を見ていたのです。
 それは現代でも、元日の初日の出や、富士山頂のご来光、また人によっては毎朝日の出を拝する習慣に残っています。真上に昇った太陽を拝む習慣はないのです。

 それではなぜ太陽神が女神アマテラスになり、天原に「高」をつけた「高天原」が創作されたのか。次回へ続きます。

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