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ドラキュラとゼノフォービア━6

 コレラは元々インドの主に下ベンガル地域の風土病エンデミックだったそうだ。それが1817年、インド全土に拡大する地域流行病エピデミックになった。そして急速に感染域は広がり、1818年8月にはボンベイ(現ムンバイ)に達し、ついに国外へと広がった。コレラはアジア・コレラという名で世界的流行病パンデミックとなったのだ。(日本には1822年に到達)

 これ以降、19世紀の間に5回のパンデミックが起きた。第1次1817~23年、第2次1826~37年、第3次1840~60年、第4次1863~75、第5次1881~96年である。19世紀は殆んどずっとコレラが流行っていた、といってよいかもしれない。結核と共に19世紀を特徴づける疫病だったと言える。

 もちろん、イギリスも例外なくコレラの感染が広がった。

 丹治愛氏の著作『ドラキュラの世紀末~ヴィクトリア朝外国恐怖症ゼノフォービアの文化研究』から、19世紀末のイギリス人がコレラをどのようにとらえていたかをみてみよう。

コレラ恐怖

 19世紀にコレラが地域限定の風土病からパンデミックになったのは、いくつか要因があった。
 一つはインドにおけるイギリスの植民地支配によって、それまで小さな国に分断され、紛争が絶えなかったインドが、ほぼ全域が一つにまとまり、相互交流が盛んになったこと。
 イギリス帝国の世界的展開と交通網の整備が、疫病を世界に広げやすくしてしまったことなどである。

 コレラは非常に恐れられた疫病だった。致死率が高く、二人に一人は確実に死んでしまう。病気の進行も早く、日本では三日でころりと死ぬので「三日ころり」と呼ばれたほどだ。
 そして、病状が激烈で、激しい下痢に脱水症状により皮膚が死人のように冷たくなり、唇は紫に変色し、目は陥没してどぎつく獰猛な表情に変わってしまう。全身が青ざめてしまうことから「青い恐怖」と呼ばれていた。

 イギリス本土に上陸したのは第2次のとき。中東、ロシア、ヨーロッパを経て到達した。1831年10月、イギリス北東岸のサンダーランドで最初の犠牲者が出た。そこから32年いっぱいまでで、ブリテン島で3万人の死亡者数を記録。「恐ろしい侵略(dreadful invasion)」といわれたという。


 コレラはアイルランドにも上陸し、太平洋に達した。そして、アイルランド移民と共に北米大陸へ広がっていく。また、ポルトガルから南米大陸にも広がった。

 1832年にアイルランドで広がったコレラ感染の様子を、当時24歳のシャーロットという女性が、1872年になって『コレラ恐怖』というタイトルで記録している。

その歩みは規則的だったので、人々はそれがつぎにあらわれる場所、そしてそれらがあらわれそうな日付をも、ほとんど知ることができたほどでした。
(中略)
人々は云いました。「フランスに達した」、「ドイツに達した」、そして「イギリスに達した」と。
それからわたしたちは、取り乱した恐怖のうちに、「アイルランドに達した!」という囁きを耳にしはじめたのでした」(丹治愛 訳)

 このシャーロットこそブラム・ストーカーの母で、『コレラ恐怖』は息子の依頼で書かれたものだったとう。
 ストーカーはこの母の記録をベースに「ぞっとする小説(grim novel)」を書きたいと考えていた。そして最初に形にしたのが『目に見えぬ巨人』という子供向けの短編だった。

『目に見えぬ巨人』1881
Wikipediaより
孤児の少女ザーヤにしか見えない巨人が街を覆いつくす。
巨人は疫病の暗喩である。
「人々の泣き声はどんどん大きくなっていった。巨人━━疫病━━が我々の中に、我々の周りにいる。逃れることはできない。逃るには遅すぎる」

 この母の記憶を通して語られたコレラ流行が、作家ストーカーの出発点であるならば、「ぞっとする小説」の『ドラキュラ』にも、その影を認めるのは容易だろうと丹治氏は書く。

 ドラキュラに血を吸われたミナに、ヴァン・ヘルシングは「あいつはあなたを汚した(infect)」と言うが、infectは元は「(疫病を)うつす」「感染させる」という意味だった。

 「青い恐怖=コレラ」は感染者を中心に、水に広がる波紋のように国から国へ移動していく。これは犠牲者を「不死者」に変えて、被害者を順に加害者としながら波紋のように広がっていく、吸血鬼の感染力のイメージの原型たる十分な資格があるというのだ。


 ドラキュラとコレラを結ぶ重要な要素は、どちらも外国から「侵入/侵略する恐怖(dreadful invasion)」ということ。
 19世紀は天然痘の方が死者が多かったのに、なぜコレラの方が強烈に記憶に残ったか。

 それは、非ヨーロッパ起源とは言い難い天然痘に比べ、コレラは外来起原、しかも発生源を特定でき、それは非ヨーロッパであること。その感染経過を時系列的に観察できるからだろう。
 非ヨーロッパ━━すなわち後進地域からの病の侵略である。

コレラ王の宮廷
『ロンドンの労働とロンドンの貧民』ヘンリー・メイヒュー
ロンドンのイースト・エンドの路地
ゴミ収集場で暮らす人々
ヘンリー・メイヒューはジャーナリストで、ロンドンの市井に住む人々に取材、直接インタビューを行い、この貴重な名著を残した。
イラストのタイトルから、コレラはこのような場所で蔓延すると考えられていた。

 だがドラキュラの故郷はアジアでもアフリカでもない。トランシルヴァニアはオーストリア・ハンガリー帝国の一部だ。(現在はルーマニアの一地方)

 しかし、ドラキュラ城へ向かうジョナサン・ハーカーはブダペストについて日記に、「私の印象ではこの辺りで西洋を離れて東洋へ入りつつある。ダニューブ川にかかる最も西の橋を渡ると、いよいよトルコ支配の伝統の中にはいっていく」と記す。
 ブダペストより東にあるトランシルヴァニア(森の彼方の国)は、もはや「東洋」の範囲だというのだ。

 そしてそこは西洋とは正反対の非効率な世界なのだ。
 「東に進むほど汽車の時間は不正確になるようだ。中国ではいったいどういうことになるだろう」と、ジョナサンは記す。

 ドラキュラの故郷が「東洋」であるならば、最初の犠牲者の名前がルーシー・ウェステンラ(Lucy Westenra)」なのは、かなり重要なのではと、丹治氏は云う。なぜなら、ルーシーは「光」を、ウェステンラは「西」を含んでいるからだ。
 「西の光」を怪奇な力によって餌食にしたドラキュラは、「反転した植民地化の不安」の象徴的表現に他ならないというのだ。

 つまるところ、西洋基督教文明は光の世界であり、それ以外は闇の世界ということだ。だから「ヨーロッパは特権的な文化の場であるという何世紀来の思い込みの一翼を担うのが、そこは、他の土地から来る死の病に植民される場であるという発想」(スーザン・ソンダーク)になる。

 コレラ恐怖とは西洋の外部(=東洋)からの侵入/侵略してくる異質な力に対する恐怖ということ。そして、『ドラキュラ』はコレラのような侵略する怪物の物語なのだ。


 

 

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