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何トチ狂ってる?(2)

(1)では慶大塾長の発言に(届きもしない)反論を述べ立ててしまったが、次は前静岡県知事の言。

2 県庁はシンクタンクであって、モノを作ったり動植物を育てて売るような仕事より知性の高い人が入ってくる。

第一次産業、第二次産業はお役所でPCを扱うより体を使うから「アタマを使わなくてよい」と決めつけるとは、いつの時代の人?という批判はもうされ尽くしたであろう。例えば自分が農家を営むと想像すれば、動植物の生態を知悉し、様々な機械を使いこなし、自営業者としての経営スキルも要るのだから、おそろしく多面的な能力を要する仕事だとすぐ分かる。

私がこの発言に発信者の下品さはさておき、ある意味「日本の将来への危惧(大げさすぎる?)」を感じるのは、(1)の塾長もであるが、今の自分と違う視点から物事を見ようとせず、他の視点からの意見を軽視する人々が世の中を動かしていくとどうなるか、である。特に「デジタル化」が急速に進んでいく時代では。

自分は職業上「デジタル化」推進の側に立っており、昨今のAI論議も主要な調査対象である。AI導入については、使用者とデータを提供する側との様々な権利交渉やフェイクの取り締まりなど社会秩序上の問題をクリアすれば、遠からずPC上でできる事務処理は全部任せられる、ということになるという。書類仕事だけではなく、窓口に来た人への制度説明やクレーム対応なども過去データを学習させればAIが回答をたたき出してくれるであろう。

ここで「では官庁の職員の仕事はもうないのか」という訳にはいかない。ここからが「シンクタンク」の仕事である。データそのものは機械的に放り込めるとしても、どのようなデータが見る価値のあるものか、個々の市民の質問に対してどういう回答が有効かの指示を与えるというたいへんに責任の重い業務が待っている。

今や大手のブラウザには簡略ではあれ生成AIアプリが内蔵されているから、ネット検索をしていると画面に勝手に調べる事柄についての解説が出てくる。こちらの求めている回答は一つなのに、キーワードや資料の指定方法により、解説の内容にかなりずれがあるという経験をされた方は多いと思う。怖いのは、指示の仕方によって容易にバイアスのかかった回答を導き出せることである。大学の中には、これを利用してAIとの「仮想ディベート」を課題にする講座もある。

ただし、現実の官庁では、学校のように「バイアス意見」とのバトルを楽しむわけにはいかない。回答は一回勝負で、しかも市民にとって最適なものでなければならない。

皮肉なことに見えるが、ここにキーを入れるのに必要なのは、リアルな世界で得た経験や知見なのでは?AIは資料探し、まとめ。書類作成といった煩雑な手続きを一瞬でやってくれるけれども、それが適切であるかの判断は少なくとも今はhumanの仕事である。「問い合わせ画面に出ているこの人を助けるには何をAIにやらせるのか」は、身体を持って生活しまた身体的存在としての隣人を意識しなければ考えられないような気がする。

「AIを使える/使われる」の差が職業上の優劣を決める、という論をネットで見ない日はないけれども、機能を扱うスキルであれば、多少時間をかければ身につくし、どんな業務に使うかもそこから自然と導き出されてくる。大切なのは、リアル世界での経験を生かして、AIに情報を「与える」側に立てるかどうかではないか?

AIがネット空間から外に出られない以上、AIから得た情報を「使う」だけではいけない。クローンで生まれた生物が代を重ねるごとに遺伝子エラーを蓄積して寿命を下げていくように、AIコンテンツの中身はいつしか堂々巡りを繰り返してその価値を下げていく。

人間の側は、AIを利用価値のあるツールとし続けるために、その糧となる「新しい血」を継続的に入れていかねばならない。そこで「血」となるコンテンツを作り出すのは、AIには(今のところない)creativityであろう。そしてcreativityの原点は、人間が身体を持ってこの世に生きている、ということにあると思われる。

さて、私が見るたびに暗澹とした気分になる塾のポスターがある。小学校高学年くらいの子供が林でピクニックをしていたり、野原に寝転んで蝶を眺めたり、公園でブランコに乗っていたりするのを眺める同級生の前に塾の先生と母親が怒り顔で立ちはだかる絵の下に、「さぼる生徒を見たら通報しよう」という趣旨のスローガンがついている。塾の名は「●●義塾」だけど、福澤先生が自伝*の中で、「人心よりまず獣身」と書いていたのを知らない?

あのさあ、ローティーンの子供にとって、あのポスターでの「問題行動」って何より大切なものじゃないの?外遊びの経験とか、自然とのふれあいとか、そういう陳腐なお題目じゃないよ。アウトドアでもインドアでもいいけれど、気に入った場所(お金が絡まない「健全」の範囲)での誰にも管理されない時間。何をするともなく、でもどこか浮き浮きと、自分がこの世に生きているということが悦ばしい。何かをcreateする力ってそういうところから生まれてくるように思うんだけど。

「創作に命を吹き込むのは体感で得た圧倒的なリアリティ」って岸辺露伴じゃありませんが(マンガは見ていないけれど、NHKのドラマシリーズは大好きです!)

だから私は息子たちに中学受験はさせなかった(ってホントはビンボーだからだろ!)

*岩波文庫青版「福翁自伝」


何の意味もありませんが近隣の公園の薔薇がきれいだったので

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