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『砂の器』:1974、日本

 秋田県・羽後亀田駅に、警視庁の今西栄太郎刑事と西蒲田署の吉村正刑事が降り立った。2人は東京で発生した殺人事件を捜査しており、その手掛かりは手掛かりは東北弁の「亀田」という言葉だけだった。最初は人物名だと推測して捜査したが全く該当者が無く、次に土地名と考えたのだ。
 亀田警察署で情報を得た後、2人は不審な男が泊まったという朝日屋へ向かう。周辺でも、男に関する幾つかの目撃証言が得られた。地元の刑事によると、男は消えてしまい、二度と現れないという。宿帳に書かれていたの住所はデタラメだった。今西は男を発見するのが困難だと考え、土地の警察に任せることにした。

 事件の発生は、昭和46年6月24日早朝だった。東京国鉄蒲田操車場構内で、頭部と顔面を殴打された男性の死体が発見されたのだ。被害者の年齢は60~65歳だが、所持品は無く、その身許は不明だった。事件前夜、蒲田駅前のトリス・バー「ロン」で、被害者と若い男が飲んでいたという情報が出て来た。
 バーの女給の証言で、2人の会話に強い東北訛りの「亀田」という言葉が出てきたことが判明した。血痕が付着していると思われる容疑者のスポーツシャツは、発見することが出来なかった。東北各県から64名の亀田姓が洗い出されたが、該当者は無かった。捜査が難航する中、今西は秋田県に亀田という地名があることを知り、吉村と共に出張したのだ。

 亀田に2泊した今西と吉村は、何の手掛かりも得られないまま、東京へ戻ることになった。羽後本荘で急行「鳥海」に乗り換えた2人は、食堂車へ行ってビールを飲む。そこで2人は、サインを求められている男性を見掛けた。著名な音楽家で指揮者の和賀英良だった。
 今西と吉村は上野駅に到着し、後は警視庁の継続捜査に移った。一方、山梨県塩山付近で、一人の女が夜行列車から白い紙吹雪を窓外に散らした。それを目撃した毎朝新聞の記者は、「紙吹雪の女」と題して紀行文を書いた。

 記事を読んだ吉村は、散らしていたのは紙切れではなく布切れではと考え、新聞社に電話を掛けた。すると新聞記者の松崎は、数日前に銀座のクラブで彼女を見たことを告げる。吉村は、その女性・高木理恵子に会うため、クラブ「ボヌール」を訪れた。
 女給の明子が接待を担当する中、理恵子がやって来た。吉村は記事のことを尋ねるが、理恵子は「それは私じゃありませんわ」と微笑んだ。ハンドバッグを取りに行くと言って理恵子が控え室へ去った直後、和賀が客として現われた。和賀は現在、「宿命」という交響楽の創作に取り組んでいる。彼は婚約者である前大蔵大臣の令嬢・田所佐知子と一緒だった。控え室に戻った理恵子は、そのまま姿を消した。

 8月9日。被害者が父に似ているという男・三木彰吉が、岡山から上京して警視庁を訪れた。彼の出現により、被害者が三木謙一という男だと判明した。彰吉によれば、三木は伊勢参りに行くと言ったまま帰らなかったらしい。
 三木は雑貨商で、彰吉は養子だった。1年ほど前から、三木は彰吉夫婦に店を任せて隠居していたという。家を出たのは6月10日で、旅に出た後、琴平と伊勢から手紙が届いたという。そこには「真っ直ぐ戻る」と綴られており、彰吉には東京へ行った理由が全く分からなかった。

 彰吉によれば、三木の知り合いに亀田という人物はおらず、現住所である岡山県英田郡江見町の周辺に亀田という地名は無い。三木は生まれも江見町で、東北とは何の関係も無い。
 以前は島根県で巡査をしていて、退職してからは江見町で商売を始めたため、東北へ行ったことは一度も無い。彰吉は、「父は面倒見が良くて、立派な人なので、恨みを持たれることも無いはずです」と証言した。

 今西は、まだ亀田という言葉に未練があった。国立国語研究所へ赴いた彼は、所員の桑原から、出雲地方の訛りが東北弁に類似していることを聞かされた。
 今西は出雲地方に「亀嵩(カメダケ)」という地名を発見した。桑原に確認すると、それが出雲弁では「カメダ」に聞こえるという。三木は亀嵩の近くで20年近くも巡査をしていた。今西は吉村と会い、そのことを嬉しそうに話した。吉村は、理恵子の行方が分からないことを告げた。

 今西は出雲へ飛び、亀嵩の手前にある三森警察署へ赴いた。三木を知っている者は警察署に残っておらず、署長は昔の同僚を集めた。彼らによれば、三木の在勤中、1件の窃盗以外に大きな事件は無かった。しかも、その窃盗犯は仕事を世話してもらい、今でも三木に感謝しているという。
 彼らは口を揃えて、「三木は正義感に熱く、真面目で良い人柄だった」と証言する。三木が警官だった時代からは、怨恨の線が全く見えてこない。

 亀嵩へ向かった今西は、三木と親しかった老人・桐原小十郎の家を訪れた。桐原は「腰の低い、人柄の穏やかな人だった。村人たちは彼の世話になっており、村で恨みを持つような人は誰もいない。子連れの乞食がやって来たので父親を病院に送り、息子の世話をしたこともあった」と証言する。他にも今西は十数名の村人に会ったが、殺人の動機に繋がるようなものは全く見つからなかった。

 何の手掛かりも得られず東京へ戻った今西は、捜査一係長から吉村のことを聞く、吉村は中央線塩山付近の線路添いを調べ回り、布切れを発見していた。
 吉村が科研の鑑識課に布切れを持ち込んだと知り、慌てて今西は赴いた。布切れには血痕が付着しており、その血液は三木と同じO型だった。元の捜査員全員が召集され、理恵子の行方を追い始めた。

 安アパートの若葉荘に、和賀と理恵子の姿があった。妊娠している理恵子は、子供を生ませて欲しいと頼むが、和賀は「絶対にダメだ」と拒否した。今西は亀嵩村から持ち帰った村史を読んだ後、吉村と居酒屋で会う。吉村は、なかなか理恵子が見つからないことへの苛立ちを示した。
 和賀は佐知子を車で送り、後援会長でもある田所と料亭で会った。田所は党の文化部に指示し、和賀のコンサートの段取りを進めている。田所は和賀に、「宿命」の初演となるコンサートのポスターを見せた。

 今西は休暇を利用し、自費で伊勢へ赴いた。彼は三木が泊まった旅館「扇屋」を訪れ、主人と女中の澄江に話を聞く。三木は宿泊2日目、朝には出発する予定だったが、急に変更して急に夕方まで滞在していた。そして彼は、2日連続で映画館「ひかり座」を訪れていた。
 今西はひかり座を訪れ、上映されている映画の出演者表を支配人に貰った。三木が、出演者の誰かを見て滞在予定を変更したのではないかと推測したのだ。しかし、ふと気になって映画館に戻った今西は、ある物を発見した。

 本庁に戻った今西に、桐原からの手紙が届いていた。今西は彼に、親子の乞食について尋ねる手紙を出しており、その返信だった。乞食の父は本浦千代吉、息子は秀夫という名前だった。
 今西は千代吉の本籍地・石川県江沼郡大畑村へ行き、彼の縁者である山下お妙と会った。お妙によれば、千代吉は妻と離婚しており、昭和17年の夏に親子は村を出て行った。それ以来、二度と戻っていないという。

 和賀は理恵子から電話を受け、中絶手術を受けられなかったことを聞かされる。和賀が会いに行くと、彼女は「一緒になれなくてもいいから子供だけは産ませてほしい。一人で育てます」と懇願する。
 和賀は「子供だけは絶対に産むな」と鋭く告げるが、理恵子は「父親がいなくても、貴方よりは幸せだわ」と告げ、車を降りた。彼女は流産して出血し、通り掛かったタクシー運転手によって病院へ運ばれるが、そのまま息を引き取った。

 今西は和賀英良の戸籍調査のため、大阪へ向かう。彼は浪花区役所へ行き、戸籍原本で和賀の本籍地が大阪市浪速区恵比寿町にあることを確認した。和賀の両親は空襲で死亡していた。
 今西は係員に質問し、空襲で当初の戸籍原本が焼けたため、そこにあるのは本人の申し立てで作られた原本だと知った。今西は飲食店組合の老人を訪れ、和賀夫妻が自転車店を営んでいたこと、子供などいなかったこと、しかし子供のように可愛がっていた小僧がいたことを知った。

 10月2日、警視庁で合同捜査会議が開かれた。今西は重要容疑者として、和賀に対して逮捕状を請求することを告げる。そして彼は、和賀や三木を巡る詳しい事情について説明を始める。和賀の正体は、千代吉の息子・秀夫だった。
 らい病を患っていた千代吉は村を追われ、秀夫を連れて放浪の旅に出た。やがて亀嵩に辿り着いた親子は、三木と出会った。そんなことを今西が語っている頃、和賀はホールでコンサートの準備を進めていた。やがて開演時間となり、彼はオーケストラを従えて演奏を開始した…。

 監督は野村芳太郎、原作は松本清張、脚本は橋本忍&山田洋次、製作は橋本忍&佐藤正之&三嶋与四治、製作補は杉崎重美、企画は川鍋兼男、撮影は川又昂、美術は森田郷平、録音は山本忠彦、照明は小林松太郎、編集は太田和夫、音楽監督は芥川也寸志、作曲・ピアノ演奏は菅野光亮、指揮は熊谷弘、演奏 特別出演は東京交響楽団。

 出演は丹波哲郎、加藤剛、森田健作、島田陽子、山口果林、渥美清、佐分利信、緒形拳、加藤嘉、春日和秀、笠智衆、夏純子、松山省二、内藤武敏、春川ますみ、稲葉義男、花沢徳衛、殿山泰司、信欣三、松本克平、浜村純、穂積隆信、山谷初男、ふじたあさや、菅井きん、野村昭子、今井和子、猪俣光世、後藤陽吉、森三平太、今橋恒、加藤健一、櫻片達雄、瀬良明、久保晶、吉田純子、中林美津三、松田明、丹古母鬼馬二、田畑孝、別所立木、高瀬ゆり、西島悌四郎ら。

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 松本清張の同名推理小説を基にした作品。脚本家の橋本忍が立ち上げた橋本プロダクションの第一回作品で、松竹株式会社と提携して製作している。
 今西を丹波哲郎、和賀を加藤剛、吉村を森田健作、理恵子を島田陽子、佐知子を山口果林、ひかり座の支配人を渥美清、田所を佐分利信、三木を緒形拳、千代吉を加藤嘉、秀夫を春日和秀、桐原を笠智衆、明子を夏純子、影吉を松山省二、捜査一課長を内藤武敏、澄江を春川ますみ、捜査一係長を稲葉義男が演じている。

 私は随分と昔、2度か3度、この作品を観賞している。その時には、スケールの大きさや、今西が犯人の生い立ちや殺人の動機に関して語り始めるところから始まる長い回想シーンの放つパワーに、圧倒されたという記憶がある(何しろ随分と昔なので、薄い記憶なのだが)。
 で、今回、改めて見直してみると、ミステリーとしては穴の多い、かなり粗い作品だなあという印象を持った。

 この映画は、不可解な行動が多い。なぜ和賀は三木を殺した後、目立つ場所に遺体を放置したのか。なぜ彼は、血痕が付着したシャツの処分を自分でやらず、理恵子に頼んだのか。なぜ理恵子は、わざわざシャツを細かく裁断し、山梨県まで行って列車から撒くという奇妙な処分方法を取ったのか。
 三木は幼い頃の和賀と短い間暮らしただけなのに、なぜ大人になってからの写真を見ただけで彼だと分かったのか。三木が接触して来た時、なぜ和賀は「自分は本浦秀夫ではない。人違いではないか」と言わなかったのか。

 また、御都合主義も多い。今西と吉村が東京へ戻る途中、和賀を見掛ける偶然。理恵子が布切れを撒いた時、同じ列車に新聞記者が乗っていて記事にする偶然。その記事を吉村が読む偶然。
 記事には「紙吹雪」と書いてあるのに、「それは犯人の血痕が付着したシャツでは」と吉村が考える御都合主義。記者がバーで理恵子を見掛ける偶然。吉村がバーへ赴くと、そこに和賀が訪れる偶然。

 今西は和賀を犯人だと断定し、生い立ちや殺人の動機を語るが、実は推測に過ぎない。和賀を犯人とする決定的な証拠は、実は発見できていないのだ。理恵子が撒いたシャツに三木の血液が付着していても、和賀が「そんな物は知らない」と言えば、それまでだ。
 伊勢の映画館の写真に和賀が写っていても、だから彼が犯人だという証拠にはならない。「それを見た三木が和賀だと気付き、余命わずかな父に会うよう要求した。それで和賀は三木を殺した」というのは、今西の推測なのだ。まあ実際、その推測は的中しているんだけどさ。

 ただし、色々な粗は見えたけど、やはりクライマックスは素晴らしい。そこは再観賞したことで、改めて素晴らしさを体感できた。犯人を特定して終わりではなく、「なぜ彼が犯行に至ったのか」を説明することで、社会派ドラマとしての色を濃くしている。
 重厚なタンバ節による解説を受けて、演奏とのカットバックで、ほとんどセリフの無い回想が描かれる。セリフが無いにも関わらず、いや、むしろセリフが無いからこそ、過酷な宿命に打ちのめされる親子の放浪と別れのシーンに、深い悲哀を感じ取り、涙腺が緩んだ。

 三木から父との面会を半ば強要された和賀が、彼を殺害する心情は理解できる。三木としては、それは正義感による親切だったのだろう。しかし、もし父親がハンセン病(当時は「らい病」)だと分かれば、家族である和賀も調べられる
 。発表の疑いがあれば、隔離所に送致される。それに発病の疑いが無かったとしても、父がハンセン病だということが、もし明るみに出れば、和賀も迫害を受けることは確実だ。当然、音楽家としての栄光も、結婚も、全てオジャンになるだろう。

 潔白すぎた三木は、彼が全く知らないような過酷な人生を歩んできた和賀の心に対して、あまりにも無理解だった。「余命いくばくも無い父親に会うのは当然であり、拒否するのであれば首に縄を付けてでも引っ張って行くぞ」というのは、デリカシーの無い言動だったのだ。
 それは思いやりの無い行為であった。そこに配慮があれば、殺人は発生しなかっただろう。きっと三木は、ハンセン氏病患者と家族が直面してきた厳しい迫害に対して、当事者である和賀ほど、分かっていなかったのだろう。

 和賀だって、父親に会いたい気持ちが無かったわけではない。しかし、会うわけにはいかない事情というものがあるのだ。父親の方も、会いたい気持ちはあるけれど、一方で和賀の写真を今西に見せられても「知らない」と言い張る。息子に迷惑を掛けることは避けたいのだ。
 西野カナの歌ではないが、「会いたいけど会えない」という関係の、哀れな親子なのだ。それが彼らの「宿命」なのだ。

(観賞日:2011年2月19日)

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