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『シェーン』:1953、アメリカ

 1890年初夏、ワイオミング。開拓民であるジョー・スターレットの息子、ジョーイは、ライフルを構えて鹿に狙いを定めていた。すると、向こうから馬に乗った流れ者がやって来るのが見えた。
 ジョーイは囲いの中で薪割りをしている父のジョーに、「誰か来るよ」と報告した。男は牧場までやって来ると、「庭先を通らせてもらうよ。北へ行くんだ」とジョーに告げた。

 家の窓からジョーの妻のマリアンが顔を覗かせ、ジョーイに「ライフルを人に向けてはいけない」と注意した。ジョーイは「僕のライフルを見てほしかったんだ。撃てるんでしょ」と男に尋ねた。
 男が「少しね」と答えると、途端にジョーの顔付きが険しくなった。彼は「お前もライカーの仲間か」と男にライフルを構え、「ここから早く出て行け」と鋭く睨み付けた。

 男は「俺には何の関係も無い」と淡々と告げ、スターレット家を去ろうとした。そこへ牧畜業者のライカーが手下を引き連れて現れ、「これからはインディアン向けの肉は俺たちが仕切るぞ。雪が溶けるまでに、この土地から出て行け。他のゴミも連れて行け」と告げる。
 ジョーは「ゴミとは何だ。開拓者だ」と怒鳴り、「いいかライカー。銃を振りかざして人を追い払う時代はもう終わったんだ。そういう時代遅れの奴らを入れる刑務所を政府は作っている」と述べた。

 ジョーの後ろから男が顔を覗かせ、ライカーたちに「スターレットの友達だ」と告げた。一味は立ち去った。ジョーは男に詫びを入れ、ライフルに弾が入っていないことを明かした。夕食に誘われた男は、シェーンと名乗った。ジョーイは笑顔で彼と握手した。一家の好意で、シェーンは泊めてもらうことになった。
 翌日、シェーンはジョーの仕事を手伝った。次の朝、ジョーイは「家にいてくれないかな。撃ち方を教えてほしいんだ。父さんもいてほしいんだってさ。仕事を手伝ってほしいんだ」とシェーンに告げた。

 シェーンはジョーに頼まれ、町へ針金を貰いに出掛けた。ジョーイにソーダ水を買うため、彼はグラフトンの酒場に立ち寄った。そこにはライカーの手下たちがいて、シェーンは難癖を付けられた。
 手下の一人のクリスはシェーンに酒を浴びせ、「テメエらの来るところじゃねえ、とっとと帰れ」と言い放った。シェーンは挑発に乗らず、何も言わずに酒場から立ち去った。

 ジョーは開拓者仲間を集め、ライカーへの対策について会合を開いた。そこへシェーンが戻ったので、ジョーは仲間たちに紹介した。シェーンは「いない方が遠慮せずに喋れるだろ」と言い、すぐに席を外した。
 ジョーは仲間たちに「一人だと舐められる。土曜日にみんなで町へ買い出しに行ったらどうだろう」と提案した。マリアンはシェーンを慕うジョーイに、「お願いだから、シェーンをあまり好きにならないで」と告げた。

 シェーンが再び酒場に現れたとき、またクリスは彼に絡んだ。今度はシェーンも我慢せずに酒を浴びせ、クリスを殴り倒した。開拓者たちは酒場の外から、その様子を眺めている。
 ライカーに「ウチで働かないか。今の給料の倍を出すぞ」と誘われたシェーンは、即座に断った。ライカーは「貴様を町から叩き出してやるぞ」と凄味、一味がシェーンを取り囲んだ。

 ジョーイはシェーンに駆け寄り、「行こうよ、相手が多すぎる」と告げる。しかしシェーンは「だからって逃げろというのか。いいから、離れてろ」と彼に言った。シェーンは一味と戦うが、多勢に無勢で、捕まってパンチの嵐を浴びた。
 それまで傍観していたジョーは、「シェーンは仲間だ、見殺しには出来ない」と助けに入った。形勢は逆転し、シェーンとジョーは一味を叩きのめした。グラフトンが「もういい、そっちが勝ったんだ」と制止し、シェーンたちを立ち去らせた。

 ライカーは「もう容赦はしない。あのブタども、一人残らず撃ち殺す」と怒りを燃やし、シャイアンの殺し屋であるウィルソンを呼び寄せた。独立記念日のパーティーが催される日、シェーンはジョーイから「撃ち方を教えてくる約束でしょ」と求められ、ためらいながらも承知した。
 シェーンが銃の撃ち方をレクチャーしていると、マリアンが来て「あの子に銃なんて必要ありません」と告げた。シェーンが「銃は道具です。使い方次第で価値が変わってくるんです」と述べると、マリアンは「銃は嫌いよ」と口にした。

 開拓者たちがパーティーで盛り上がる中、ジョーは仲間の一人のアーニーがライカーに脅されて出て行ったことを知った。仲間のトーレイは「町に見慣れない奴がいた、きっとライカーに雇われた奴だ。二丁拳銃で黒い帽子を被っていた」と話した。それを聞いたシェーンは「ジャック・ウィルソンじゃないかな」と言う。
 開拓者たちは、早撃ちウィルソンの名前を知っていた。開拓者たちは音楽に合わせて踊り、シェーンはマリアンとペアになった。2人が踊る様子を、ジョーはじっと眺めていた。

 トーレイは仲間のシップステッドと共に、町へ買い物に出掛けた。酒場へ行こうとした向こう見ずなトーレイは、ウィルソンの挑発に乗って射殺された。シップステッドはジョーの元へ行き、そのことを知らせた。
 ジョーはライカーと話を付けるため、命を失う覚悟を決めて町へ行こうとする。シェーンは「俺に任せろ。アンタは残れ」と告げ、ジョーを殴って失神させた。シェーンは二度と戻らないことを決意し、マリアンに別れを告げて町へ向かった…。

 監督&製作はジョージ・スティーヴンス、原作はジャック・シェーファー、脚本はA・B・ガスリーJr.追加台詞はジャック・シャー、製作協力はイヴァン・モファット、撮影はロイヤル・グリッグス、編集はウィリアム・ホーンベック&トム・マッカドゥー、美術はハル・ペレイラ&ウォルター・タイラー、衣装はエディス・ヘッド、音楽はヴィクター・ヤング。

 出演はアラン・ラッド、ジーン・アーサー、ヴァン・ヘフリン、ブランドン・デ・ワイルド、ウォルター・ジャック・パランス、ベン・ジョンソン、エドガー・ブキャナン、エミール・メイヤー、エリシャ・クックJr.、ダグラス・スペンサー、ジョン・ディールケス、エレン・コルビー、ポール・マクヴェイ、ジョン・ミラー、エディス・エヴァンソン、レナード・ストロング他。

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 ジャック・シェーファーの小説を基にした西部劇映画。最後にジョーイが叫ぶ「シェーン、カムバック!」のセリフは、あまりにも有名だ。映画を見たことが無くても、そのセリフだけは知っているという人も多いだろう。
 シェーンをアラン・ラッド、マリアンをジーン・アーサー、ジョーをヴァン・ヘフリン、ジョーイをブランドン・デ・ワイルド、ウィルソンをジャック・パランス(当時はウォルター・ジャック・パランス名義)、クリスをベン・ジョンソン、ライカーをエミール・メイヤーが演じている。

 アラン・ラッドは、そんなに強そうに見えるタイプではない。むしろ柔和な優男という印象を与える。日本で言えば、若い頃の加山雄三や宇津井健が任侠映画で流れ者のヤクザを演じるような感じだろうか。
 普通の西部劇であれば、柔和な印象はマイナスでしかないのだが、この映画は「滅多に銃を抜かない、普段は穏やかな男」というキャラなので、上手くハマっている。彼が名演技を見せたというよりも、奇跡的にキャラとマッチしたということなんだろう。

 ちなみに本作品は、アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚色賞、助演男優賞にノミネートされ、撮影賞を受賞しており、英国アカデミー賞では作品賞と男優賞にノミネートされている。
 だが、アカデミー賞ではブランドン・デ・ワイルドとジャック・パランスが助演男優賞候補になり、英国アカデミー賞ではヴァン・ヘフリンが男優賞候補になったが、アラン・ラッドは全く賞にノミネートされていない。まあ、そういうことだ。
 なお、アラン・ラッドの代表作は本作品のみで、これ以降は全く活躍できなかった。

 当初、ジョージ・スティーヴンスはシェーンにモンゴメリー・クリフト、ジョーにウィリアム・ホールデン、マリアンにキャサリン・ヘップバーンを起用しようとしていた。しかしオファーを断られ、作品そのものが没になりそうな中で、数分で選んだのがアラン・ラッド、ヴァン・ヘフリン、ジーン・アーサーという面々だった。
 ジーン・アーサーは本作品に出演した際、映画界からはリタイアして舞台で活動していた。しかしジョージ・スティーヴンスと親しかったため、友情の証として出演を承諾した。彼女は撮影当時、なんと52歳で、アラン・ラッドやヴァン・ヘフリンより遥かに年上だった。

 西部劇の傑作と呼ばれる映画だが、あまり西部劇に慣れていない人にはオススメできない。なぜなら、この映画は「それまでの西部劇の流れの中では異色を放つ作品」という位置付けにあるからだ。
 何しろ西部劇なのに、ほとんどガンアクションをやらないのだ。それに主人公が戦う相手はインディアンでもなく、お尋ね者でもなく、山賊でもなく、放牧をしている牧畜業者だ。
 この映画は「良くある西部劇とは違う」という位置付けだからこそ魅力的なのであって、最初の西部劇として本作品を見ると、あまり西部劇らしくないので、退屈に感じるかもしれない。

 シェーンはジョーイから、無敵のヒーローとして崇められる。ガンマンに憧れを抱くジョーイは、まだ良く知りもしない内から、シェーンに「おじさんは、ここが怖いからって逃げ出したりしないよね」と告げる。
 彼はシェーンのことを、正義の味方で、とても強くて、絶対に悪党なんかに負けず、いつも自分たちを助けてくれるスーパーヒーローだと信じている。その期待に、シェーンも応えようとする。終盤の決闘で深手を負っても、ジョーイの前では何ともないような素振りを示す。

 前述のように、ガンアクションは少ない。シェーンが銃を撃つのは、ジョーイにせがまれてレクチャーする時と、終盤の決闘の2回だけだ。無駄に勿体を付けているわけではなくて、これには大きな意味がある。
 この映画において、発砲するという行為は恐怖と強く結び付いている。そもそもケンカのシーンの暴力描写もシェーンの顔が血まみれになるという、当時としてはかなり過激なものになっているのだが、銃を扱う行為では、さらに「暴力の恐ろしさ」が強調される。

 この映画における発砲は、単に「正義のヒーローが悪党をやっつけるためのスカッとする行動」ではない。とても重い行為であり、安易に行使すべきではないのだという主張、そういうシェーンの気持ちが垣間見える。
 そして、そこでの発砲音は、異様なほど激しくて大きい。拳銃を発砲するのは、それだけ覚悟が必要な行為、重みのある行為だということを示しているのだ。

 日本の股旅映画や仁侠映画にも似たテイストを感じさせる作品だ。しかし大きな違いは、日本の仁侠映画であれば昔気質で古くからの格式や秩序を守ろうとする人物が善玉に配置されるのに対し、この映画ではそういう人物が悪玉で、新しいことを取り入れようとする側が善玉になっていることだ。フロンティア・スピリッツが称賛されるアメリカと、伝統を重んじる日本の違いということだろうか。

 ただし、ライカーは単純な「悪事を働く卑劣な男」というキャラ造形ではない。ライカーの一味が開拓者を「土地泥棒」と称するのは、分からないでもない。
 開拓者からすれば「その土地がライカーの所有物だと誰が決めたのか」ということなんだが、ライカーが「ずっとインディアンから土地を守り続けてきたのは俺たちだ。その苦労をしていない奴らが後から入ってきて、勝手に土地を開拓するのか」と怒るのも理解できる。
 ライカーが暴力的な行為、卑劣な行為に出てくれるので、「奴らは悪いことをしたから、こっちもやり返す」という風に、開拓者サイドが正当性を主張できるようになる。それが無かったら、「簡単に両者の善悪を色分けすることは出来ない」という状態が続いていただろう。

 ジョーはライカーに「銃を振りかざして人を追い払う時代はもう終わったんだ。そういう時代遅れの奴らを入れる刑務所を政府は作っている」と告げ、シェーンに「野原で牛を追い回す時代は終わりだよ。肉を取るための牛は囲いの中で計算してエサを与えるべきだ」と語る。
 「銃を振りかざして人を追い払う時代が終わった」というのは、つまりガンマンの時代の終わりを意味している。

 ライカーの一味だけでなく、シェーンもまた時代遅れの人間である。そして彼は、そのことを自覚している。
 終盤、シェーンはライカーに「お前は長生きしすぎた、お前の時代は、もう終わった」と告げ、「だったら、お前はどうなんだ」と訊かれると「俺は承知している」と答えている。
 もはやガンマンを雇って言うことを聞かせる時代も、ガンマンが活躍する時代も、終焉を迎えたことをシェーンは理解していた。だからこそ、彼はガンマンとしての生活を捨てたのだ。

 酒場での決闘の後、家に戻ってほしいと懇願するジョーイに、シェーンは「人間は一生、変われないものなんだ。俺には出来なかった。人殺しをした人間に、戻る家は無いんだ。彷徨うだけだ」と告げる。
 ガンマンから足を洗い、穏やかな生活を手に入れたかったシェーンだが、また銃を手にしてしまった。彼は、自分が滅び行く人間だと悟ったのだ。
 ラスト、馬にまたがって町を去るシェーンは、墓標を通っている。「それは彼が既に死んでいることを示しているのだ」という意見もあるようだが、私はガンマンの時代の終焉を象徴しているモノとして受け取った。

(観賞日:2010年7月10日)

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