『アルファヴィル』:1965、フランス&イタリア
諜報員のレミー・コーションは星雲都市のアルファヴィルに到着し、新人記者のイワン・ジョソンンを詐称してホテルにチェックインした。部屋まで案内した女はレミーが入浴すると聞き、いきなり下着姿になった。
「一緒に入りましょう」と彼女が言うので、レミーは「女は自分で見つける」と断った。すると浴室に現れた男が「彼女を嫌いかね?」と尋ねて来たので、レミーは「アンタの妹か」と言葉を返した。男は襲い掛かってくるが、レミーが発砲すると逃走した。
レミーは女に平手打ちを浴びせ、「この騒ぎは何だ」と詰問した。女は平然とした態度で、「これが正常よ」と告げた。彼女はベアトリスと名乗り、第三級誘惑婦だと自己紹介した。
レミーがベアトリスを追い出した直後、ナターシャ・フォン・ブラウンが面会に来たという連絡が入った。レミーは持参した写真を取り出し、レオナルド・フォン・ブラウン教授とアンリ・ディクソンの顔を確認した。ナターシャが部屋に来ると、レミーはフォン・ブラウンの娘であることを確かめた。
ナターシャは「滞在中のお世話をするよう当局から命令されたんです」と言い、「祭典を見に来られたの?」と質問する。レミーが祭典について訊くと、彼女は「外部の国から来る人は普通、祭典が目的なの。でも遅すぎたわ。今年の祭典は、もう終わりなの」と告げた。
彼女は「でも今夜、官庁で大きなショーが行われます」と言い、一緒に行かないかと誘った。レミーはエンリコ・フェルミ街の友人に会う用事があることを話し、後で合流することにした。
ナターシャがエンリコ・フェルミ街まで送ることを申し出たので、レミーは彼女が用意した車に乗り込んだ。第二級プログラマーの彼女は、アルファヴィルへ来た目的を尋ねた。
レミーが「フォン・ブラウン教授のルポを書きたい。会わせてくれるか」と言うと、ナターシャは「会ったことが無いの。でも聞いてみるわ」と述べた。途中で車を降りたレミーは通信局に立ち寄り、都市圏まで遠隔通信しようとする。しかしナイフを持った男が襲って来たので、撃退して立ち去った。
エンリコ・フェルミ街の赤い星ホテルに到着したレミーは、諜報員のアンリと会った。アンリはホテルにいた男から、「自殺するなら早く頼むよ」と言われる。レミーが「なぜ自殺を催促されたんだ?」と訊くと、アンリは「そんな連中が多い。ここには適応できずにね」と答える。
「自殺も適応も出来ない人間はどうなる?」とレミーが質問すると、彼は「当局に処刑される。だが、少数は地下に潜る」と言う。「アルファ60とは?」というレミーの問い掛けに、アンリは「昔の社会にあった巨大コンピュータだ」と述べた。
アンリはレミーに、「アルファヴィルの理想は階級的理想社会だ。昔は芸術家がいたはずだが、今は全くいない」と話す。「この都市を作ったのがフォン・ブラウンか」とレミーが訊くと、アンリは「奴は論理に従っているだけだ」と述べた。
「以前はフォン・ブラウンじゃなかったはずだ」とレミーは言い、かつての名前を聞き出そうとする。しかしアンリは誘惑婦を抱こうとして体調が急激に悪化し、レミーに「アルファ60を破壊しろ。愛情で涙を流す者を救え」と言い残して息を引き取った。レミーはアンリが持っていたポール・エリュアールの詩集『苦悩の首都』を持ち、その場を後にした。
レミーはナターシャと合流するため、彼女が働く施設へ赴いた。そこではアルファ60の記憶中枢はが言葉を語り、プログラマーたちが作業していた。レミーがナターシャに案内されて官庁へ行くと、プールの周囲に当局上層部の面々が並んでいた。
女性たちがプールで泳ぐ中、人々は静粛に見学していた。そこへ男たちが入って来たので、レミーは何者なのかと当局の人間に尋ねた。すると当局の人間は、死刑囚だと告げる。レミーが罪状を訊くと、非論理的な行動だという答えが返って来た。
ある死刑囚の男が入って来ると、ナターシャは「知ってる人だわ。奥さんが死んだ時に泣いたのよ」とレミーに教えた。レミーが「それで死刑に?」と言うと、彼女は「当然だわ」と告げた。男が銃殺されてプールに落ちると、女たちが飛び込んで泳ぎ、乾いた拍手が起きた。
レミーはレオナルドを追い掛けてエレベーターで2人になり、2人での対話を申し込んだ。レオナルドは断り、「ノスフェラトゥー博士」とレミーが呼び掛けると「その男は死んだ」と告げた。
レミーは駆け付けた当局の人間たちに暴行されて意識を失った。当局の面々はレミー彼を車に乗せ、政府施設へ連行した。レミーが目を覚ますと、アルファ5が尋問した。アルファ5はレミーが何か隠していると確信したが、「何か分からないので自由とする」と告げた。アルファ5は関連施設を見学するよう促し、レミーは主任技師の部屋へ連れて行かれた。
「ここはどこだ?」とレミーが訊くと、主任技師は「アルファヴィルの中心、アルファ60の内部です」と答えた。彼はレミーに、「外部の国々が1964年にフォン・ブラウン教授を追放した。諸外国は今になって後悔し、奪還するため絶えずスパイが出入りする」と述べた。
主任技師から「貴方もスパイでは?」と問われたレミーは、それを否定した。技師のヘッケルとジャッケルが主任室へ姿を現し、マイナス大型オメガの故障を伝えた。
レミーがオメガについて質問すると、技師たちは「第17次電力計画が失敗したので、外部の国々が我々に宣戦布告するでしょう。ですから教授の指導の下、オメガで反物質戦を先に仕掛けて勝利する」と説明した。技師たちはレミーに、外部の情報を知るための協力を要請した。
レミーは技師たちに案内され、アルファ60が自問する中央統合ステーションに足を踏み入れた。アルファ60が戦争を決定したのを確認した後、レミーは密かに施設から抜け出した。
ホテルに戻った彼は、「アルファ60は電子頭脳の発達に従って驚異的な速度で発達している電子頭脳自体も発達し、人間の想像力が及びも付かない問題を自問自答していた」「外部から来た人を吸収し、吸収できない者は劇場で処刑される。吸収可能とみなされた人は、郊外にある団地という名の長期洗脳病院に収容される」といったレポートを作成した。
ナターシャが部屋へ訪ねて来ると、レミーは『苦悩の首都』の文章を読ませた。しかしナターシャは、「意識」という言葉の意味が理解できなかった。彼女はホテルの部屋に必ず置いてあるという聖書を手に取り、その意味を調べるが掲載されていなかった。
それは聖書ではなく辞書であり、ナターシャは言葉がどんどん消されていくこと、新しい思想に合う言葉が補充されることを語る。消された言葉の中には、「愛情」も含まれていた。彼女はレミーに、「貴方に会うなとアルファ60の技師に言われた」と教えた…。
脚本&監督はジャン=リュック・ゴダール、製作はアンドレ・ミシュラン、撮影はラウール・クタール、編集はアニエス・ギュモ、音楽はポール・ミスラキ。
出演はエディー・コンスタンティーヌ、アンナ・カリーナ、エイキム・タミロフ他。
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『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』のジャン=リュック・ゴダールが脚本&監督を務めた作品。リバイバル公開の時は『アルファビル』という表記だった。ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞している。クレジットは無いが、劇中でも取り上げられるポール・エリュアールの詩から着想を得ている。
レミーをエディー・コンスタンティーヌ、ナターシャをアンナ・カリーナ、アンリをエイキム・タミロフが演じている。既にカラーが当たり前の時代だったが、白黒映画として製作されている。
主人公のレミー・コーションは、エディー・コンスタンティーヌが『レミー・コーション/毒の影』や『そこを動くな!』、『左利きのレミー』などで演じて来たキャラクターだ。ただし、それらの作品はSFではなく普通の私立探偵物だった。
っていうか本作品にしても、ジャンル的にはSFになるのかもしれないが、SFとしてのセンス・オブ・ワンダーは全く無い。SFとしての意匠は適当だし、そこにツッコミを入れ始めたらキリが無いが、あまり気にしちゃいけない。
そもそもジャン=リュック・ゴダールはSFに対する思い入れなんて持ち合わせちゃいないし、本格SFを作ろうとしているわけでもない。自分の描きたいテーマ、訴えたいメッセージを表現する上で、架空の世界観が欲しかったというだけだ。
そして、そのために最も都合がいいのは、「近未来の外国」というSFの舞台設定だったということだ。なので表面的にはSFだが、実質的には寓話だ。冷徹でシニカルな要素を含んだファンタジーだ。
いざ映画が始まってみると、ほぼハードボイルド探偵物だ。レミーは諜報員の設定だが、やってることは私立探偵とまるで変わらない。遠隔通信や発光放射線、一般意味論研究所など、未来のテクノロジーを感じさせる用語が幾つか登場するが、具体的な描写は何も無い。
例えば遠隔通信にしても、普通に電話ボックスから電話を掛けようとする様子が描かれるだけ。一般意味論研究所は、ただの無機質な建物に過ぎない。
未来的な建物や道具も、何一つとして用意されていない。真正面からSFとして作っているなら、オープニングはそれを観客にアピールすべきなので、街やホテルは「いかも未来都市」といった仕掛けを用意するだろう。しかし実際のところは、1965年のヨーロッパにおける、ごく当たり前の街やホテルが写し出されるだけだ。
ホテルのテレビやベッド、クローゼットなど、あらゆる調度品は凡庸そのものだ。ホテルの部屋にジュークボックスがあるのは少し珍しいかもしれないが、それも近未来を表現するアイテムではない。
アルファヴィルという都市での物語を通じてゴダールが描こうとしているのは、全体主義だ。アンリがいる「赤い星ホテル」という名称が分かりやすくて、ようするに当時のソ連を批判し、全体主義に対する警鐘を鳴らしているのだ。
ちなみに劇中では明示されていないが、どうやら時代設定は1984年らしい。ってことは、まさにジョージ・オーウェルの小説『1984』と同じだよね。『1984』は全体主義国家の恐怖を描いたディストピア小説であり、この映画と同じテーマだ。
レミーがアルファヴィルに到着すると、「沈黙、論理、安全、慎重」という文字が記されている。アルファヴィルにいる人間は、外部から来ても必ず居住登録を求められる。ナターシャはレミーに、外部の国へ行った経験が無いと話す。レミーが「君に恋する男もいるだろう」と告げると、「恋する」の意味が分からないと言う。
アルファヴィルの住人はアルファ60というコンピュータに統制され、感情を持つことが認められていない。それに反した者は、非論理的な行動を取ったということで公開処刑される。
身内が死んで泣いただけでも「感情は罪」ということで銃殺刑になるのだが、それを人々は当たり前だと捉えている。アルファ60によって洗脳教育されているので、感情を持たないことが正しいという価値観になっているのだ。
しかしコンピュータによって全ての市民を完全に制御することは不可能なので、稀に感情を抱く人間は現れる。それは反体制的な危険分子なので、すぐに捕まって粛清される。結局のところ、人間をコントロールしようとするのはコンピュータではなく、恐怖政治を敷く人間なのだ。
やたらと難解で取っ付きにくい映画を撮りたがるゴダールだが、これは分かりやすい部類に入るんじゃないだろうか。やたらと哲学チックで難解な講釈も、色々と用意されている。だが、そういうのは分からなければ聞き流しておけばいい。
例えば、「過去に生きた者はいない。未来に生きる者もいないだろう。現在だけが、あらゆる生活の形態である。いかなる悪も奪い去ることの出来ない一つの財産である」「苦悩の傍らで普通に生きる人間が、苦悩を感じずに生きる人間と異なる種の宗教を必要とするのは当然だ」「単語と表現の意味は、もはや知覚されない。デッサンに描かれる個別の細部は理解されうるが、全体の意味は掴めない」などなど。
ただ、「資本主義社会であれ、共産主義社会であれ、思想教育や金銭によって人間を服従させようとする悪意は存在しない。あるのは自らの行為を計画・遂行しようという、あらゆる組織に自然な執念があるだけだ」という言葉だけは、ちょっと気にしておいた方がいいかな。それは簡単に言うと、市民を統制しようとする人間が、全体主義を正当化するための言葉なので。
ザックリ言うと「洗脳によって感情を奪われていたナターシャがレミーと出会って愛情を取り戻し、2人で脱出する」という内容であり、全体主義批判という目的だけを考えると甘い結末かもしれない。でもファンタジーとしては、そういうハッピーエンドも悪くないんじゃないかな。
(観賞日:2017年11月8日)
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