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短編152.153『地区の束縛、地の呪縛』(まとめ読み用)

 小五だった。春。二年に一度のクラス替えも終わり、馴染みのない顔にも馴染み始めていた一学期の初め頃。前の席に座った級友が(その時分はまだ友ではなかったが)振り返るなり言った。

「うちのハムスターに赤ちゃんが産まれたんだ。見に来いよ」
「僕、ネズミ苦手なんだよね」
「ネズミじゃねぇよ!ハムスターだよ」
 それが初めての会話だった。級友の押し出しの強さに押され、放課後彼の家に伺うことを半ば強引に約束させられた。ネズミは苦手だった。ハムスター、大差ない。

 彼の家は私の家と駅を挟んでの反対側にあった。一度ランドセルを置きに帰った私は「用事が出来た」という言い訳で来訪を断ろうと思った。連絡網で彼の家の電話番号を調べるも、そこには空白しかなかった。他の者たちの名前の下には03から始まる電話番号が記されているにも関わらず。時にまだ個人情報が重要視されていない時代のこと、携帯電話も普及してはいない。電話番号が無い、そんなことは万に一つもありはしなかった。

 子どもながらに約束を無断反故にするのはまずいと思い、嫌々ながら出掛けた。自由なはずの放課後に重い足枷が付いたような気分だった。それは足取りへと如実に反映された。五分の距離は十分に、直線は曲がりくねった。

 駅からどのくらい歩いただろうか。とはいえ、馴染みのある風景ではあった。小三の頃に引っ越してきて、一年と経たずに引っ越して行った友達が住んでいた地区だった。貧乏子沢山を地で行く家庭だった。子ども心に入るのを躊躇うほどのあばら屋に住んでいた。

 風景は様々なものを含んでいる。こうして大人になった今、もう足を踏み入れたくない場所が山とある。出来てしまった、とでも言うべきだろうか。
 歳を取る、とは行動範囲が狭まることを云うのかもしれない。例え、遠くまで足を伸ばせるようになったとしても、近場には”行けない場所”が網の目のように張り巡らされている。

 それは私を縛り付ける。自由を求めて、好き勝手に生きた結果が、不自由。

 どうやら感傷に過ぎるようだ。

 子ども時代の話に戻ろう。

          *

 指定された魚屋の前に着くと、彼は既に待っていた。学校外で会うのは初めてだったが、小学生時分は私服登校だったので、別段の変化はなかった。彼は先程と同じ、裾のほつれたロンTを着ていた。ヨレた襟元から細い首が突き出している。

「こっちだよ」と案内されたアパートは二階建てのシンプルなものだった。今思えば多分、単身者向けのアパートだったのだろう。彼はそこに妹と母と住んでいる、とのことだった。父親は遮断機の故障した踏切に車で突っ込み、死んだらしい。随分と劇的な死に様だった。これも今思えば、離婚の偽装として吹き込まれた嘘だろう。詳しくは知らないが。

 独特の臭いがした。それは玄関が開けられると共に私の鼻腔を圧迫した。あらゆる生活臭を凝縮して発酵させたような匂い。部屋の中には膨らんだ黒ビニールのゴミ袋が山のようにあった。玄関から台所、居間へと続く壁に沿って、氾濫した川辺の土嚢のように積み上げられていた。

「おやつ食う?」と彼は言った。
「いらない」この部屋の中では、たとえ(その当時人気のあった)ビックリマンチョコだって食べる気はしなかったろう。
「そうか。じゃあ俺だけ食お」
 彼は冷蔵庫から食パンを取り出し、その上にハムを一枚載せてケチャップをかけた。それを半分に折り曲げ、口に入れた。冷蔵庫から取り出された食パンはどう贔屓目に見ても冷えて固まっていた。
「焼かないの?」
「焼くの?」と彼は言った。ケチャップの付いた指を舐めた。

 彼の母親や妹はいなかった。代わりに台所の隅のカゴの中にハムスターの家族がいた。
「これだよ」と彼は言った。
 五匹いた。正確には毛並みの整った一匹とピンク色の肉塊が四つ。それは私にいつか買い物について行った折、スーパーで見た鳥もも肉を連想させた。
「可愛いだろ」彼はピンク色の肉塊を持ち上げ、鼻先を近づけた。「桃みたいな匂いがする」

 私の鼻は部屋の匂いのせいで飽和状態にあった。もし仮に鼻が正常でも、ハムスターの匂いを嗅ぐ気にはならないだろうけど。しきりに匂いを嗅がそうとする彼を遮る為に「これ、毛のあるやつは一匹しかいないの?」と尋ねた。
 子どもながらに、赤ん坊が産まれる為には一対のオスとメスが必要なことは知っていた。今、このカゴの中には成人(?)したハムスターは一匹しかいなかった。

「逃げちゃった」と彼は言った。「赤ちゃんが生まれた朝、そっちに気を取られてるうちにいなくなってたんだ」

 なんだかとても大人びた言い方のように思えた。


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