目標達成と社会批判 ハヤオキたすく管理note-Nov. 2020

目標達成と社会批判 6:09:38 11/29 (日)

今の個人のタスク管理というものは、ビジネスのタスク管理を個人に輸入したものだ。

ビジネスのタスク管理の目的は何か?

目標を置き、それ達成することだ。

つまり、個人のタスク管理がうまくなっても、目標を達成することがうまくなるだけだ。

問題は、目標を達成したところで幸せになるとは限らないことをほとんどの人は知らない。というか、考えたことがないということだ。

これが、「東大に行ける人は努力で合格したと言うが、その努力ができる環境が重要なのだ。環境のせいで、努力しても東大に合格できない人もいる。」という話題が定期的に湧く原因の一端だと思う。

別に東大に行ったからと言って幸せになるわけではないのだ。環境のせいで、努力しても東大に合格できなかった人が不幸せになるわけでもないのだ。

目標を達成すれば幸せになると思っている人は、上記のような話題に乗っかるであろうが、そうとは思わない人は、「だからなんなのだ?」と思う。

大体は、発言者のコンプレックスがそのような発言を発言者にさせているのだろうが、中には不平等な社会を真に変えるために、その欠点を指摘している人もいるだろう。

そういう方にはぜひ、無血革命を成し遂げて貰いたい。

私は、社会というものはそもそも不完全だと思っている。その不完全性を指摘するのは、漫画家がネームをそのままマンガ雑誌に掲載したものに対して「絵が汚い」と読者が言うようなものであり、全く意味を為さないと思う。

社会というものはもっと大きな流れの中で変わっていくものであり、一個人があーだこーだ言ったところで変わらないと思っているからだ。

逆に言えば、社会の構成員は一個人であり、個人の意思による市民革命は成し得る=目標達成すれば幸せになれると本気で信じている人じゃなければ、社会批判はできないだろう。

自分はそんなことはとても信じられない小市民なので、狭隘に自分や人が幸せになる為にはどうすれば良いかを考えたい。

今のところは、現在の社会的価値観に依っている限り、幸せになるのは難しいとは思う。

タスク管理とコペルニクス的転回 4:34:28 11/28 (土)

最近、哲学史の本を読んでいる。

元々哲学は好きで、大学で哲学の短期ゼミに好んで入ったぐらいだ。

社会陣になって、タスク管理で生産性を追い続けていたこれまでも、変わらずに哲学は好きだったが、生産性に繋がらないので、優先順位が低く、本を読めていなかった。生産性を求めなくなった今、やっと読めるようになった。

タスク管理を研究した後に、哲学を学び直すからこそ、新たな発見がある。

今、カントについて読んでいて、ちょうどコペルニクス的転回のところだ。

われわれの認識が対象に依存しているのではなく、対象がわれわれの認識に依存しているという転回をし、カントのおかげでまさに世界がひっくり返った。

この転回は18世紀に起こったことだが、21世紀に生きるわれわれはこの転回を知った上でタスク管理できているのか?

タスク管理に、「カエルを食べてしまえ」というアドバイスがある。

重たいタスクは朝一でやれ、という話だ。

ここにコペルニクス的転回を加えると、こうなる。

アナタはそれをカエルと言うが、それは本当にカエルなのか?

緑色っぽいからカエルと決めつけているだけではないか?

姿は良く見えないが、けろけろけろっぴみたいなシルエットをしているから、カエルと判断しているだけではないか?

「そんな話はどうでもいい。本人がそれをカエルだと思ったら、それはカエルなのだ。そのカエルをどう料理するかを論じるのがタスク管理だ。」と言う人もいるだろう。

本人が良ければそれでも別に構わないのだが、私からすると、こんな話までも射程に入れ、その上で、最適なタスク管理方法を考えた方が、より洗練されたタスク管理であると思える。

たとえば、それがカエルでなかったとしたら、朝一にやる必要がなくなる分、自由になる。

カエルを食べる場合、多かれ少なかれ、「エイヤ!」と気を張る必要があるが、それも不要になるので疲れなくなる。

正しい認識をもって対象を見据えることが、より良いタスク管理に繋がる。

4:03:43 11/27 (金)

「目覚ましなしで自然に起きることの方が、目覚ましありで起きることよりも良いこと」というような考えがあるが、どちらでもいいので気にしなくていいと思う。

目覚ましなしで自然に起きるということは、身体が起床時間を意識して緊張し、眠りが浅くなっているのかも知れない。

目覚ましなしで自然に起きることが良いことか悪いことかなんて、本当のところはわからないのだ。

目覚ましなしで自然に起きることを良いとする研究データ等あるが、それは所詮、他人に関するデータだ。自分には関係ない。他人が「良い」としたから、それは自分にとっても「良い」のか?

逆に目覚ましありで起きることに、「なんて身体によくないことをしているんだ!目覚ましなしで起きるにはどうすればいいんだ!自分のバカチンめ!」と自分を責めるのはよくない。

起きたい時間に起きられているのだから、それ以上何を望む?

目覚ましなしで起きることが完成された状態であり、それを目指し続けるという完璧主義が見え隠れている。

この自分を責めるという行為が目覚ましありで起きることを、"自分で"よくないことにしている。

目覚ましなしで起きようが、ありで起きようが、そのことの良し悪しを決めるのは自分なのだ。

そうであれば、少なくとも、目覚ましありで起きたことに自分で負い目を感じることはやめた方がいい。

どっちでも良い。どっちも良いでいいのだ。

どんな方法であれ早起きしているんだから、そんな細かいこと気にしてもしょーもない。

一方、「目覚ましなしで自然に起きること」を絶対善としていると、自分が目覚ましなしで起きられているうちはいいが、起きられなくなると、「目覚ましなしで自然起きられていた時より、今の自分は劣っている」という考えに囚われ、自らで自らの不調を作り出すことに繋がるだろう。

3:59:36 11/26 (木)

計画と実行を分ける。

これは思考と行動を分けるという話。

行動する段になって色々考えると、その考えることが行動を妨げることになる。

それがまさに、私が目が覚めてから布団の中で色々考えると起きられなくなる状態。

行動するという観点で考えたら、何も考えない方が良い。

一方、走りながら考えることも重要。

行動しているときに何も考えなければ、その場その場の状況に対して適切な行動を取り続けられるとは到底思えない。

つまるところ、行動する際は、有害な思考はしないことにしつつ、有益な思考はすることが必要ということだ。

これは、「行動と思考は分ける」と「走りながら考える」のどちらか一つを一神教の神様のように信奉するのではなく、(字面乗では)相反する考え方を自分の中に同居させ、場合に応じて信仰対象を変えるようなものであり、その人自身の判断力が試される。

判断を誤ると、私のように朝、布団から出られずに二度寝することになる。

論理的には二つの考え方を使い分けた方が良いことは自明だが、実行面での難しさが伴う。

難しい話だ。

4:30:02 11/25 (水)

昨日は、これを書く余裕もないほど寝坊してしまった。

原因は二度寝。

起きられない理由は、人それぞれ色々あるだろうが、自分は考えてしまうことに理由があるらしい。

「誰かの為にこのnoteを書く」という起きる理由はできたものの、その為に起きる以前に、目が覚めて、布団の中で色々考えている内に、二度寝してしまう。

それでは困るので、「健康のために何も考えずに起きる」ということにした。

実際、寝過ぎは長生きに悪いという研究結果があるらしい。その研究結果だと8時間以上寝ていると7時間寝ている人より、長生きできない。

そのデータの信憑性含め、疑うことはいくらでもあるが、今回は自分が寝過ぎない為の方便として使うだけだから、それが嘘か真かはどうでもいい。

自分がそれをなんとなく信じていることが重要なのだ。下手にその研究結果を深掘りしてしまって、信じられなくなったらおまじないの効果が消えてしまう。

とういことで、私は健康のために睡眠時間は6~7時間に収めたい。

そして空いた時間でこのnoteを書く。非常に有意義である。

6:26:54 11/23 (月)

今日は4時には目が覚めたが、寝てしまった。

「筋肉痛で背中が痛い。なんでか」と思ってたら寝てしまった。

やはり、何か考えごとをするとダメなようだ。

何か考えごとをする前に、布団から出ないといけない。

心と身体、具体と抽象というマトリクスを作るとすると、心と具体が交わる部分だけが己である。

「目が覚めた」と認識したら、そのまま起きる。

「なぜ?」とか「どうなる?」とか抽象的なことを考え出すとダメ。その原因になる身体の状態も、意識を向けてしまうと抽象的な思考に続いてしまい、よくない。

4:02:26 11/22 (日)

TaskFreaksというタスク管理の勉強会を4年前から毎年開催している。

そろそろ5回目を開こうと、共同開催者のひばち氏と話しているので、最近、思い付いたことをネタ集めしているのだが、なかなか面白い。

一度タスク管理をガッツリやって、今はそこから離れてみた身だからこそ、感じることが多くある。

たとえば、第二領域。

タスク管理にハマっていた頃は、第二領域に時間を使えていれば使えているほど善い、という考えだった。

しかし第二領域とは何なのか?

何に備えるのか?

天使がラッパ吹いたりする終末の日でも来るのか?

思い返せば、第二領域とは何か?と真剣に考えず、ライフハッカーよろしく、劇場のイドラに囚われ、誰かが良いと言ったものを無思考で生活に取り込んでいただけだった。

タスク管理というものは、このような迷信に溢れている。

前提条件を語らず、その前提条件は言うまでも無く善である、というものが多い。

一般的教育や社会通念にもまれ、現代社会の構成員としての必要最低限の、最大公約数の考え方を、自ら自然と育む現代人にとっては、それらは言うまでも無く善なので仕方のないことだが、それはタスク管理の目的である幸せに繋がるのか?

そのような現代人によって構成された現代社会がユートピアであれば、「幸せに繋がる」と、自信を持って言えよう。だが実際はそんなことはない。

ならば、その社会を構成する考え方が個人の幸せに繋がる考え方とは考えにくい。

そんな話がたくさんできそうで楽しみ。

7:03:11 11/21 (土)

昨日はいつも通り21時過ぎに寝たのに、起きるのが遅くなってしまった。

いつもと違うのは、中途覚醒がなかった点だ。

気温が高かったからか、筋トレで身体が疲れてたせいか。

あ、そういえば、昨晩は家に残ってた日本酒を少し多めに飲んだ。そのせいか?

わからないが、ひとまずよく寝たということだ。

重要なのは再現性が低いことに対して、思い詰めたり、自分を責めたりせず、おおらかであることである。

そうしないと、たぶん、他人にも厳しい=他人がやることにストレスを感じる人間になるだろう。

6:25:23 11/20 (金)

昨日、会食で飲酒して、寝る時間が遅くなったので早起きできなかった。

飲酒による影響は人によって違うので、一概には言えないが、早起きしたいなら飲酒しない方がよい、というのが私の結論だ。

飲酒すると起きた時の倦怠感がある。まずこれが起床を妨げる。また、目が覚めて、布団から出ようか出まいか迷っている時、「飲酒した」という事実が布団から出なくてもいい理由になってしまう。これがいけない。

早起きするなら、できるだけ早起き"しなくてもいい"理由を潰しておくことが重要だ。

私は日本酒がおいしい地域に引っ越してきたので、しばらく地酒での晩酌を愉しんでいたが、上記を理由に、晩酌をやめた。

しかし昨日は会食での飲酒だったので、気にしていない。早起きできなかったからと言って、自分を責めることはない。飲酒すると早起きしにくくなることはわかってたことだし、「やっぱりそうなったか。ま、いんじゃない」と思うぐらいである。

昔はこんな状態になった時、「また早起きできなかった」と悔いて、「お酒はカンパイの一杯まで」とか対策を立てていた。

同じ状態がいつか再現されると信じていたからだ。

しかし、昨日と同じメンツ、全メンツが同じ精神状態、同じ話題、同じ料理、同じお酒での会食は二度とやってこない。一期一会だ。

再現性がないものに対して、対策を立てるのはムダだし、酒を飲みたいから飲む。一期一会を最大限愉しむために。

そうやって愉しい人生を生きていきたい。

お酒を二杯以上飲んだって、死ぬわけじゃないんだ。あまり思い詰めない方が良い。思い詰めるということは、何かが怖いということだ。

4:38:22 11/19 (木)

4時に目覚ましで目が覚めたが、イマイチ眠気が取れないので、「何でだろう?」と考えてたら、何度かめ寝落ちしてしまって、この時間になった。

原因として考えられるのは、夜中に中途覚醒した際、今、何時だろうと、スマホをチラ見してしまったこと。

時間を見て、起床時間に近かったらそのまま起きてしまおうという魂胆だったが、これからは、素直に目覚ましに従って起きることとしよう。

あとは筋トレ再開による身体の疲労だが、こちらは、筋トレをやめるつもりはないので、仕方が無い。

30分間での何度かの寝落ちは、身体に良い影響を及ぼしたのか?本当のところはわからないが、眠りは浅いし、あまり意味無いような気がする。

身体が重かろうが、眠気があろうが、私の本体は身体ではなく、心である。

「何でだろう?」と考えるのは良いが、とりあえず布団を出てから考えるようにしよう。

4:08:05 11/18 (水)

なんやかんやこのnoteを始めてから三日連続で早起きできている。

もっと様子を見てみないとわからないが、仮説が当たったのかも知れない。

昔、つまり「生産性」を追い続けていた時は、自分のために早起きしていた。

資格勉強の為、自分がやること・やりたいことをやる為に、何の疑問も障害もなく、普通に起きられていた。

「生産性」から距離を置き始めた二ヶ月ほど前から、めっきり起きられなくなったのだ。

しかし一方で、私と同じく「生産性」から距離を置く考え方をしている、というかこの考え方に私が至ったきっかけとなる人は、普通に早起きしている。

なぜかと考えた時、閃いた仮説は、「誰かのために早起きしている(できている)」だ。

思い返せば、私が「生産性」を探求していた時、常に求めていたのは"私の"「生産性」だ。

意識のベクトルが常に自分に向かっていて、閉じた=クローズドな状態にあったと思う。(タスク管理というのはこの閉じる性質を持っていると思うのだが、これはまた別の機会に書くとする。)

自分の生産性を目的としなくなった時、それでも障害を乗り越えて何かを為す原動力となるのは、自分以外の人間だ。

閉じて一人で生きるのではなく、開いて二人以上の他者との関係性の中で生きていく。

他者が絶対に必要な生き方、世界観。

そっちの方向に明かりがあるのではないかと思った。

だから、誰へのこのnoteを書く事を思いついたわけだ。

4:05:41 11/17 (火)

早起きに限らず、起きるという行為には以下の二段階がある。

1. 目を覚ます
2. 寝床から出る

ここ最近起きられなかったと書いたが、1の目を覚ます事はできていた。

次の寝床から出ることが出来なかったワケだ。

寝床から出るには、寝床から出る何かしらの理由が必要になる。

なぜ早起きするのか?という部分を詰める必要がある。

話が変わるが、私は大学受験時代からズーッとタスク管理をしてきた。

「生産性」という言葉に憧れ(取り憑かれ)、タスク管理で「生産性」を高く保とうとしてきた。

その為に、早起きすることは必然だった。

しかし、ここ4週間は自由に、気の向くままに過ごしていた。

社会人になってから日課だった、RSSでの情報収集もせず、SNSもせず、Kindleの読み上げ機能による耳からのインプットもしなかった。

もちろん、一日の計画を立て、レビューをして...というタスク管理もしていない。

すると驚くべきことがわかった。

何も変わらないのだ。

今までは、「RSSで情報収集しなくちゃ」、「SNSしなくちゃ」(以下略、と思って、または思うこともなく習慣として、上記のことをやってきたわけだが、やらなくなったからって、何も変わらないのだ。

何も変わらず、子どもをくすぐって一緒にじゃれているだけで幸せなのだ。

「そんな怠惰な生活をしていたら、いつか不幸せになる」

本当にそうだろうか?

起こるかもわからないひらめきの為に、使うかもわからない情報のシャワーを浴びて、特にコレと言った目的もなく「生産性」の為に、計画を立てて振り返る。

これは幸せ関係するのだろうか?

わたしはこの4週間、特に情報を得なかったため、言説に心乱されることもなかったし、立てた計画が崩れることも、計画未達の為に自分を責めることもなかった。

非常に平和で穏やかな毎日だった。

情報化社会になる前、田舎に住んでいた人はこんな感じだったのだろうと思った。

新しい情報も入ってこず、自分の身の回りで完結する狭い世界。狭いからこそ、何の代わり映えもなく、何の代わり映えもないからこそ、平穏。

それで良いのではないかと思う。

それで良いと思っているから、私には早く起きる理由がなく、結果、早く起きられなかったワケだ。

4:19:04 11/16 (月)

朝、起きられなくって困ってるから、このnoteを始めてみる。

昔、タスク管理でぶいぶい言わせてた時は、苦も無く起きられたのだが、最近起きられない。

「起きられない」と言っても、昔取った杵柄で、手を尽くして起きることはできる。その後、二度寝するのだ。

目が覚めても、「別に今起きて何かやる必要なくね?」と思ってまた寝てしまうのだ。

これは、私が最近、時間に追われなくなったからだ。人生に不安を覚えるわけでもなく、タスク管理に没頭していた時に焦燥感のようなものがなくなったからであり、良いことである。

でもさすがに毎日、10時間以上寝て、出勤が遅くなり、その分遅くまで会社にいなければならないのは、何かもったいないような気がする。だから、タスク管理的手法の一つである、「活動を人と共有する」という手法を、このようにとってみる。

起きたら朝一で、早起きやらタスク管理やらについて考えたことを書いていこうと思う。その日のタイトルは、noteを開けた時のタイムスタンプにした。ハヤオキできたか否かがわかるからだ。

さっそく、今日はハヤオキできた。やったね。



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