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【A乳児院⑦】両親は命をくれた。両親以外の人たちは幸せをくれた。

このnoteでは、女の子として生まれ、「ちいちゃん」と呼ばれて育ってきたかつての自分。男性として生き、「たっくん」と呼ばれ、福祉の専門家として働いている今の自分。LGBTQ当事者として、福祉の現場に立つ者として、「生」「性」そして「私らしさ」について思いを綴ります。(自己紹介もぜひご覧ください
前回に引き続き、今回も私の子育てが苦手な両親の話、そして、そんな環境で育ってきた私についてお話しさせてください。

子育てが苦手で子どもに愛情を注げない両親に育てられた私は、社会人として自立するまでは、自分の存在価値を見つけることも、そして自分の性への違和感にも向き合うことができませんでした。

それでも人生に絶望することなく、生き続けることができたのは、親に代わって愛情を注いでくれるおとながいたからです。

祖父母は私にとって親代わりでしたし、近所のおばちゃんは、食事も与えられず外に放り出された私を家に入れてご飯食べさせてくれました。うどん屋のおっちゃんはいつも私の味方で、いつも母親に「もっと子どもに愛情をかけてやれ! 大切にしてやれ」と言ってくれました。

祖父母や近所の人たち以外にも、親戚のおばちゃん、いとこのおにいちゃん……親ではないけれど、愛情を注いでくれる人が確かにいたのです。自分のことをちゃんと見てくれている人の存在が生きる支えでした。

この人は自分のことを最大に認めてくれる。そう信じられる人が親以外にいたことで、私は今も生きていられるのだと思います。

私には親から愛情を注いでもらった経験がありませんでした。自分から親の愛情を期待することもなくなりました。

私は26歳の時に母親に自身の性についてカミングアウトしました。しかし、それから4年間、母親からそのことについて触れることはありませんでした。母親が話したくないことは明らかだったので、私からも話題にすることはありませんでした。治療の進捗状況など、必要最小限のことは伝えていましたが、母親は聞きたくなさそうでした。

そして、家族を顧みず、暴君として自分勝手に振る舞う父親に対しては「早く死ねばいいのに」とまで思ったこともあります。

それでも私は、乳児院でさまざまな親子と出会ったこと、自分の生と性に向き合ったこと、そして結婚したこと、そうした経験を通じて、私は今、「自分の親にも、あの人たちなりの愛情があったのではないか」と考えるようになりました。

それは、今、私が生きているからです。父と母がいたから、私はこの世に生まれることができました。虐待で命を落とす子どももいる中、私は殺されませんでした。「幸せ」という実感は、親以外のさまざまな人との出会いのおかげですが、今生きているという「ありがたさ」はあの人たちのおかげだと思います。

もちろん、そんなことは今だから言えることです。ただ、親であっても「人」なんです。得意もあれば、苦手もある。だから、子育てができない親に怒りをぶつけるのではなく、そういう親に対しての支援が十分ではない社会を変えようとした方がよいのではないかと思うのです。

子どもを育て、命を守るのは、親の役割だけど、社会の役割でもある。祖父母や親族、近所の人たちに育てられた私はそう思います。親ができないのなら、ほかのだれかがやればいいという考えは、そうした自分の育ちを背景にしたものでもあるのです。

ずっと音信不通だった父親から最近、連絡がくることがあります。私をひどい目にあわせ、「早く死ねばいいのに」と思うほど憎んだ父親ですが、ごくたまに、会うことがあります。

妻から「なぜ会うのか?」と問われると私は「会って済ませなければいけない用があるからしかたないんだよ」と答えます。それはウソではありません。ただ、もしかすると、父親が今、自分と会うことを望んでくれていることを、私は喜びに感じているのかもしれません。

乳児院の子どもたちが、全く子育てができない親に対して、それでも「お母さんと一緒にいたい」と泣いた理由、抱えていたであろう葛藤が今は痛いほどわかります。私の両親は子育てが下手だったし、子どもに対して愛情を注げませんでした。だけど、親は自分を愛してくれているのだと信じたい気持ちが自分の中に確かにあることを、今ははっきりと自覚しています。

26歳のとき、A乳児院から障害のある児童の療育を行う通所施設B園への異動を命じられます。そして、母親へのカミングアウト、GID(ジェンダーアイデンティティディスオーダー:性同一性障害)外来の受診と、自分の性に向き合い始めます。次回からは、2つ目の職場、B園でのことを中心にお話しします。

【A乳児院での物語、ぜひ1話目からご覧ください】

【これまでの私のキャリアをまとめています】


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