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高校生の君へ #2

当時高校生だった息子ユースケに宛てた片道書簡をここに載せようと思う。
たった一人に送った文章。あなたに響く言葉はあるだろうか?


1月15日(日)

なぜ書くのか?の続き。

シュンヤが持ち帰った塾の国語のプリントを何気なく読んでいて、ああこれだ!と思った。私が思っていたことがそこには書かれている。

長くなるけど引用する。河合雅雄「子どもと自然」より

(前略) 大学で新入生への講義の際にびっくりするのは、ノートも筆記用具も持たず、手ぶらの学生が多いことだ。ノートをとるように何度注意しても、なかなかなおらない。質問をすると、積極的に答える学生はまずいない。一様に、あてられては困るといった態度が見える。指名して答えさせると、「知りません」とあっさり逃げてしまうか、答えてもじつに幼稚な表現に終ってしまう。

 わかっていないのかというと、そうでもない。ゆっくり聞きただしてみると、かなりの程度に「理解」はしている。だが、上記のような結果になるのは、どうやらニつの理由によるものらしい。一つは、間違うことを極端に回避していること、もう一つは自分の考えをきちっと表現する能力が低いことである。いったいどうしたことかと考えてみて、はたと気がついたのは、彼らはテレビを視聴するごとく講義に対応しているのだ、ということである。その場で、ああわかった、面白い、つまらない、といった評価をしつつ講義は流れていく。講義の終了は、テレビのスイッチを切るのと同じことなのだ。理解力はかなりよいのだが、それを再生する装置が不十分なのである。ましてや、講義によって自分自身の関心を一層深めるとか、疑問を持つとかいうこともなく、講義はテレビの画面として彼らの頭の中を流れていくにすぎない。(後略)


ここに書かれている「講義はテレビを視聴しているのと同じ感覚」という主張には賛同しかねるが、それ以外は鋭い指摘だと思う。

私が引用したいのは2か所。

一つは、間違うことを極端に回避していること、もう一つは自分の考えをきちっと表現する能力が低いこと
理解力はかなりよいのだが、それを再生する装置が不十分

私がユースケのことを思うとき、頭をよぎるのはまさにこのことだ。

なかなか自分の考えていることを主張しない。間違うことを極端に嫌がっているのではないか?

間違っても全然構わないし、トライせずに終わっては何も始まらない。実人生においては、学校の勉強のように正解は一つではないし、むしろ正解を求めて作り上げていくほうが多い。いくつもの選択肢の中で、より良いと思えるものを求めていく姿勢が必要になる。

ひとりで出来ることなどたかが知れている。きっと仲間が必要になる。そのときに自分の考えをきちっと表現する能力は、これから先の人生に必ず役に立つ。頭の中のものをアウトプットしろ!と何度も繰り返して言う理由はここにある。

そんな才能はないと思うかもしれないけど、才能は関係ない。

訓練すれば誰にでも出来ること。物は試し。まずはやってみること!いまやらなくていつやる?遅くなんかない。いまがベストタイミング!



※片道書簡が生まれた経緯はこちらをどうぞ※


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