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「わかりあえなさ」の絶望と希望――あるいは「音楽の力」について

 大学マンドリン部の演奏会プログラムを開くと、ここ数年は冒頭に必ずと言っていいほどコロナ禍への言及があります。日々の練習から定期演奏会までに渡る活動の制限、対面でのコミュニケーションが叶わない中での運営の苦悩、一筋縄にはいかない新歓活動、「当たり前」の喪失とモチベーションの減退、クラブの伝統を継承することの重みと困難…… withコロナという「終わりなき非日常」の中で、本来は危機的なはずのこれらの言葉が一種の常套句になってしまうほど、そしてその事実に無関心になってしまうほど、無関心でいられるほど、件の感染症は私たちを存在の奥深くから規定してしまっています。

 新型コロナウイルスの流行は日常の制限だけでなく、これまで埋もれていた利害対立・世代間対立、人種差別そして国家間の対立をも助長し、私たちの住む世界を一段と息苦しくしてしまいました。否、このウイルスが図らずも暴いてしまったのは、人間は根本的に対立と偏見を抱え込んだ生き物である、ということかもしれません。我々は皆(たとえ家族であっても)究極的には相異なっていて、互いに偏見と不信を抱き、利害の対立を抱えている――コロナは私たちがつい目を逸らしがちなのっぴきならない現実を、ただそのままの姿で顕在化させているに過ぎないのではないか――

 流行当初、クラシックのコンサートをはじめ音楽関係の活動が「不要不急」として自粛を要請されました。私自身音楽を「不要不急」と見做す論調に違和感を抱きつつも、音楽業界の側から盛んに唱えられた「音楽の力」という言葉にも、どこか空々しいものを感じていました。一見力強く勇ましいけれども、言葉を繰り返すほど「力」はその内実を曖昧にしていきます。「音楽の力」なんてものはあるのだろうか、もしあるとすれば、それはどんな力なのだろうか――

 亡霊のようにいつも頭について回る2つの疑問。考えても結論が出ず苦しんでいた折、ふとしたきっかけから佐渡裕さんのある言葉に出会いました。

「さまざまな人生を送っている人間が、たまたま集まって一緒に何かを共有できる……そのことに音楽が本質的なかたちで関わっている」

(佐渡裕『棒を振る人生』 p. 168)


 本意からであれ不本意ながらであれ、私たちは他者と関係を取り結ばずには生きていけません。そして他者は無限に多様であり、そのために「私」にとって異質な存在です。近頃喧伝されている「多様性」という言葉は耳触りこそ良いものの、その内実は他者が「私」にとってどこまでいっても理解できないという絶望であって、他者がどこまでいっても「私」を理解してくれない絶望なのです。先に述べた「人間は本質的に対立する存在である」ということも、元をただせば他者というものの異質性に行き着きます。

 無限の多様性の中で対立することを宿命づけられた私たち。その絶望は一方で、多様性の持つ豊饒さと表裏一体でもあります。そして音楽とはまさしく、この絶望と希望との間に架かった橋に他なりません。

 コンサートホールで見知らぬ人と隣り合わせに座っている時間、舞台上の演奏に耳を傾けている瞬間、奏者を讃える拍手を送っているまさにその時、他者との共通体験に基礎づけられた「社会」が現出しています。たまたまそこに集まった、全く異なる人生経験、気質を持つ人々、どれだけ対話を重ねてもわかりあえないかもしれない人同士が、音楽を介して知らず知らずのうちに緩くつながっていく。同じ音楽を聞く・演奏するという経験が、相互の異質性を乗り越えて共生していく可能性を示唆する。つながりの喜びは、我々が互いにわかりあえないからこそ大きい――


 私たちの社会は数えきれないほどの対立と、汲み尽くせないほどの豊かさで溢れている。そして「音楽の力」がもしあるのだとすれば、それは「わかりあえなさ」の絶望を希望へと転化する、音楽の持つ根源的な力のことなのです。

(東京大学マンドリンクラブ第14回定期演奏会 指揮者挨拶より)

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