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【小説】出航した手紙

 
 照れくさい本音も嘘であれば言える。
 そう考える私にとって、小説とは、本音を伝える数少ない手段の一つです。虚構の物語に本音を、或いは事実を、どう織り込むかは、無論作品によって異なります。物語の主題、主人公の造形、時には脇役の些細な台詞・・・
 この作品においても、何が真であるかを伏せ、私とは、私ではない誰かです。架空の私が紡ぐ、或る先生に宛てた手紙です。
 細長い瓶を舟にして、大海原へ投げ入れるとすれば、漂流の末、いつか先生に届くでしょうか。
 私は手紙なぞ書いたことがありません。やはり照れくさいのです。このような形式にならざるを得ないというか、小説を書くしかないのです。書く必要があるのです。才能があるか否かに関わらず。

 先生、私は小説を書きたい。必要を超えて。書き続けたいと願っています。
 きっと先生はこう仰るでしょう。書くと言え、書き続けると表明せよ。
 
 私は二十代の頃、自分に才能があると強く信じていました。今思えば、井の中の蛙です。執筆を生業に出来ると、正直疑いもせず、駄文に自己陶酔の日々でしたが、書けば書くほど、書けないことを知らされました。これくらい自分でも書ける、すぐに超えられると思った、或る世界的な名作は、読み返した際、仰ぎ見る高さに聳え立っていました。以前は駆け出しの遠景に過ぎず、さながら蜃気楼のように、その距離感すら分からなかったのです。近づいて尚、足元にも及ばず、怖気づき、たかが数年で、やり抜く気力を失いました。好きなことに自信と、それなりの覚悟を持ち、自分の意志で取り組んだ結果・・・
 いえ、結果にもなっていません。不戦敗に等しい挫折を覚えました。意気揚々と戦いに赴き、敵の姿を見た途端、逃げ帰ってきたような、ひどい気分でした。自己嫌悪と安堵感。もう書かなくて良いという思いです。こんなにも書けないと、筆が滞るようになってからは、辛くて仕方がありませんでした。好きなことを生業にするつもりが、その遥か手前で、もはや苦行に変わっていたのです。日がな一日取り組んでも、たったこれだけ、このようなものと、精神的に追い込まれていました。仮に一冊の本を書き上げるとしたら、命を削る感覚でした。

 凡人が命を削って書いたところで何になるでしょうか。明らかな天才が書いた小説ですら、大して売れない時代です。

 それらしい理屈を拵えながら、私は惨めな遁走をひた隠しました。小説家を目指していたなぞと、今日に至るまで、一度も口にしたことはありません。見方を変えれば、資格はありませんから、あの苦悩の日々でさえ、売れない小説家として活動したと言えますが、やはり口には出来ないのです。胸を張れるような作品も、技量も残らず、心身共に健康な二十代の若者が、ただひたすら惰眠を貪っていたと言う他にありません。

 かくも情けない三十間近の男を、幼い頃からご存じとはいえ、先生はご自身の経営する会社に拾ってくださいました。当初はアルバイトとして、時給八百円だったと記憶しています。初日は八年前の、一月十一日です。四月から専門学校に通う心づもりの弟も、先生は共に受け入れてくださり、兄弟二人、同じ職場で働きました。凡そ三ヶ月間、先輩方も良くしてくださいました。弟が去り難くなるほどに。
 厳しい仕事を辞め、すでに二十代半ばの彼は、学校に通う歳ではありませんでしたから、迷いが生じたはずです。こんな素晴らしい会社を去って良いのかと。
 先生は引き止めてくださいました。人の決意を尊重して、翻意を促すようなことを決して言わない方が、君には合わない、絶対に行くべきではないと、強い言葉を使われました。弟が納めた入学金を、自分が肩代わりするとまで言われ、私も心を打たれましたが・・・
 弟は初志を貫き、会社を去りました。無論その胸の奥には、先生や先輩方への、感謝の思いがあったはずです。彼も私に似て、大分口が足りないのです。

 そんな社会性の欠如した、風変わりな兄弟を、なぜ先生は重宝してくださったのか。今でも謎です。先輩方もそう感じていたようです。それでも引き続き、私に良くしてくださったのですから、当時を思い返すと、涙が出てきます。
 逆の立場であれば、私は嫌味の一つや二つ言ったことでしょう。パソコンもろくに使えず、車の運転も出来ず、おまけに顔つきからして気難しく、ここに来るまで何をしていたか訊けば、寝ていたとしか言わないのですから。
 実際、大して役に立たなかったはずです。非常に扱いづらかったはずです。覇気すらないように見えたでしょうか。それでも私なりに、実は必死でした。働く喜びがありました。いつか先生に、あの日拾った石ころはダイヤの原石だったと・・・
 いえ、きっと先生は、初めから分かっていたと仰るでしょう。心底嬉しそうな笑顔で。
 ですから私は、先生の見立てが正しかったことを証明したいのです。あの頃も。そして今も。

 お世話になってから、もう二十年ほど経っている気がします。八年半とは信じがたいです。皆様と濃密な時間を過ごしてきました。傍を楽にする為に、即ち他人を楽にする為に働くのだと、或る先輩から教わり、先生の理念とも通ずるそれを、共に実践してきました。年々増える後輩にも、不器用ながら伝えてきました。

 立派な肩書付きの、正社員にして頂いた頃、力不足なぞと、もう怖気づいている場合ではないという意識になりました。また小説を書きたいと思うようになりました。生業としてではなく、名誉の為でもなく、才能がないと思い知らされた上で、無様になろうとも、あまり上達しない文章を・・・
 何か書く機会、例えば業務報告にも、文学的な蛇足をちらりと添え始めました。無意識と言えば大袈裟ですが、沸々と込み上げる思いが現れました。社内風景を描写したり、関連する文豪の一文を引用したり、先生に宛てた内容も同様でした。個性として受け入れてくださいました。大事な報告が読みづらく、通常であれば、簡潔に書けと怒られるはずです。
 仮に怒られていたら、また書く気力を失ったかもしれません。ただそれは、きっとしばらくの間です。

 結局、私はどう転んでも、小説を書くのです。くだんの理由、或いは拘りから、小説家を名乗ることはありませんが、頭の中にぼんやりとした物語がいくつも浮かんでいて、それを形にせざるを得ないのです。読んでもらう当てがあろうと、なかろうと。

 五年前でしょうか。私は先生に初めてのお願いをしました。恐れ多くも、新規採用に関することです。
 当時、今より小さな会社でしたから、雇う人数を最小限にしていました。一人ひとりの役割が大きく、私も多忙な日々でした。いわゆる新卒の若者をまだ雇わず、やってくる後輩は、才気煥発な即戦力ばかりでした。
 私のような者は、一人で十分に思われました。私だけで十分迷惑をかけてきました。ですが、数日間悩んだ末、恥を忍び、無理を承知で、先生にこうお願いしたのです。
 もう一度、弟を雇って頂けませんか。

 やはり先生の仰ったことが正しかったのです。弟の志した道は、彼に著しく不向きでした。それでも中退せず、卒業後の進路を模索していました。彼の口から、先生の下でまた働きたいとは聞いていません。ただ、あの三ヶ月間を懐かしんでいましたから、戻りたいことは明らかでした。戻る以外に、希望はないように思われました。

 先生、覚えていらっしゃるでしょうか。私が弟のことをお願いした際、こう即答されたのです。
 おっ、約束したじゃないか。彼は三年で戻ってくる約束だ。

 私のこれまでの人生において、最も感動した瞬間です。生涯忘れ得ない言葉です。他に即答できる人がいるでしょうか。当然のような顔で笑える人がいるでしょうか。約束なぞしていません。先生は引き止めたのです。弟はそれを押し切り去ったのです。
 私たち兄弟は、先生に返し切れない恩があります。どう返すべきか教えてくださったのも先生です。公に貢献せよと。即ち、世の中に返せと。
 本気で見返りを求めない先生は、人としても、男としても、最高に格好いいです。
 私は先生のみならず、両親や祖父母からも、無償の愛を受けて育ちました。今は亡き祖父母には、その恩を返せず仕舞いでしたが、先生の教えを自分なりに解釈して、公に返そうと思っています。返せなかった後悔に、もう項垂れることはありません。先生の教えが、確かな救いになっています。

 先生の生き様をそっくり真似できない私ですが、真似られる部分を日々探しています。
 最近、自分の小説を広く公開し始めました。その場所を海に準え、航海と字を充てています。あまり気取らず、短い作品ばかりです。質はさておき、まず大事なのは、公にすることでしょう。かつての自分に欠けていた部分です。密かは、私かとも書きます。私かにしている限り、私事でしかありません。
 書き上げてすぐ、公にしていますから、今の私が行間から匂い立っています。読み返すと、無意識に気付かされます。例えば、最近良く使っている題材は、妻と妊娠です。次に書こうと思っている作品は、結婚が主題になりそうです。
 妻子のいない私がなぜだろうと考えました。悲しい願望とも読み取れますが、これはきっと、昨年弟が結婚したからです。私にとっても、無論大きな出来事でした。

 もしかすると先生は、弟が会社に戻ってくる前から、すべて分かっていたのかも知れません。私たち兄弟は、共に歩むべきだということ。そして、先生の娘さんと弟が結婚するということ。
 これは奇跡です。いえ、運命でしょうか。先生は神様が決めたことと仰いました。私もそう思います。弟夫婦は、光り輝く尊い良縁で結ばれたのです。

 あの結婚式の前日、私は原稿用紙十枚ほどの小説を書きました。神様が手を取り合う結びの物語。初挑戦のファンタジーでした。神話をイメージしました。なぜか先生にお見せしようと思い立ち・・・
 後日、絶賛してくださったのです。面映いほどに。

 自信を得た私は、その後も幾つか小説をお見せしています。
 うん、良かったよ。
 いいんじゃないかな。
 毎回褒めてくださいましたが、無理に言わせているような、気まずさを感じて、次第にお見せしなくなりました。そして、直接お会いする機会も。

 先生、お元気でしょうか。
 元気に決まっているだろうと、叱られてしまいそうです。私の思い違いをお許しください。お手すきの際に、また読んで頂きたいと願っています。
 いつか先生の志を傑作にして、よくぞ書いてくれたと、あの時のように絶賛して頂けたなら、私はこう即答いたします。
 お約束しましたから。

 今ここに、その誓いを立てました。まだ石ころに過ぎない私が、即ち、ダイヤの原石たる先生の教え子が、結びの一文として、必ず実現させる意志を表明いたします。


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