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【小説】一番好きな人


 残暑は天高く遠ざかり、金木犀の香りが散歩道にこぼれている。髪を二つ結びにした幼い娘が、父親の優しい顔つきを見上げた。
「パパが一番好きな人はだぁれ?」
 親子の手はぎゅっと握られている。
「それはママだよ」
 きょとんとしながらも、娘のつぶらな瞳は僅かに陰った。
「でもね、ママはみゅーちゃんが一番だよ」
 娘はこくんと頷いた。
「パパはね、ママが一番だから結婚したの。これは何があっても変わらないんだよ」
「二番はあたし?」
「もちろん。ほとんど一番の二番だよ。ママとみゅーちゃんが、パパのかけがえのない宝物」
「じゃあ、私の一番はパパね」
 父親は言葉に詰まり、微笑みを返した。
「パパはママ、ママはあたし、あたしはパパ」
「そっか。素敵な家族だ。パパは嬉しいなぁ」
 娘は弾けるように笑い、ぴょんぴょん飛び跳ねた。散歩中の老婦人が目を細め、お父さんと一緒でいいね、と声をかけた。
「うん。パパが一番!」
 手をぐいぐい引っ張られながら、はにかむ父親は小さく頭を下げた。


 やがて、娘の美羽は小学生になると、自分の家がクラスメイトのそれと比較して、貧しいことに気づいた。父親は薄給の保育士、母親は専業主婦である。いかに貧しくとも、美羽は両親を自慢に思っていたが、住んでいる県営住宅だけは、幽霊団地だと噂するクラスメイトに知られたくなかった。幸いにも、学区内で最も遠い場所の上、登校班に同じ学年の子がいなかった。一つ年上の女の子も、その県営住宅から通っていることを隠したがった。
「絶対にばれちゃいけないんだよ。いじめられちゃうから」
 いじめる方がおかしいと思いながらも、美羽はそれを口にしなかった。学校はもちろん、家の中でも。幽霊団地などと呼ばれていることを決して両親に知らせず、今度友達を連れておいでと母親に言われれば、ここは遠いからと言い訳をした。子供ながらに、大好きな両親を傷つけまいとしていた。
 友達の家に招かれると、何やら居心地が悪かった。出されたお菓子類もあまり手を付けず、伏し目がちに大人しくしていた。庭付きの大きな一軒家であっても、羨ましいとは思わなかったが、両親に話をする際は、友達の母親に関することを話題にして、家の様子には触れようとしなかった。


「昨日まさやんと幽霊団地に行ってみたらさ・・・」
 クラスメイトのその言葉に、美羽はどきっとした。小学五年生の秋である。
「出たのよ」
「まじで?」
「雨の日は出るって聞いていた通り。女の幽霊だった」
 肌寒い放課後に残っていたのは、男女三人ずつである。美羽は嫌な気持ちになり、口をつぐんで聞いていた。そんな彼女を気にかけず、幽霊の話はどんどん盛り上がり、男の子たちは悪ふざけを始めた。窓の外では、昨日から降り続く雨が音を立てていた。
「今から肝試しに行こうぜ」
 美羽は他の女の子も気後れした為、止めようよ、と声を発した。
「大丈夫だよ。俺は幽霊を退治する呪文を知っているんだぜ」
「俺も俺も。あとね、ニンニク投げればいいんだよ」
「それってドラキュラだぞ」
「何か違うの?」
「まあ、とにかく大丈夫だよ」
 結局、男の子たちに押し切られ、六人で傘を色とりどりに差して向かうことになった。

 商店街の八百屋に立ち寄ると、男の子たちがポケットから僅かな小遣いを出し合い、白網に入った中国産のニンニクを買った。何に使うんだい?と訊かれ、幽霊退治、と無邪気に答える様子を、女の子たちは遠くから見ていた。
 三十分程で敷地の北側に到着した。五階建ての四角い県営住宅は、列を乱さず、整然と六棟立ち並んでいる。外壁の灰色がそぼ濡れ、なおさら黒ずんだようになり、美羽の目にも見すぼらしく陰気に映った。加えて、彼女たちの周りには奇しくも人影がない。幽霊のせいではないが、長雨の冷気に覆われている。
「奥まで行ってみようぜ」
 その一番南側の棟に、美羽の家がある。
「もう疲れた。ここでいいよ」
「うん。ここまでにしよう」
 もう一人の女の子も弱々しく頷き・・・
 彼女たち三人は、最寄りの棟の登り口で男の子たちを待つことにした。座ろうとした薄暗い階段は泥で汚れている。
 美羽は畳んだ傘の雫を払い、ため息をついた。男の子たちに対するそれと、ここなら知っている人にまず出くわさないという安堵である。以降は口数が多くなった。怯えている子を元気づけようとした。幽霊など絶対にいないと。
「だって、ここには人が住んでいるんだよ。幽霊が出るとか言っちゃいけないと思う」
「そうだよね」
「幽霊なんて失礼だよね」
 しばらくすると、上の階で扉が閉まり、足音がぱたぱたと降りてきた。三人は口を閉ざして、そちらを警戒するように見上げた。
「こんにちは」
「あら?」
 親子は一瞬目が合った。美羽は咄嗟に顔を伏せたが、もう誤魔化しようがなかった。母親が身に付けていた赤いエプロンは、彼女が家庭科で作ったものである。
「ごめんね。通らせて」
 美羽が顔を上げる寸前に、母親は他人のふりをしてさっと通り過ぎた。大きな雨垂れに肩を濡らして、歩きながら傘を開いた。
「ちょっと奇麗な人だったね」
 純粋な褒め言葉だったが、美羽は呼び止めることが出来ず、去りゆく後ろ姿を呆然と見送った。目を閉じた。そんな自分を恥ずかしく思うまでに、あまり時間はかからなかった。
「ねえ、今からあたしの家に行こうよ」 
「どこにあるの?」
「ずっと秘密にしていたけど、この団地の中だよ」
 そう打ち明け歩き出した美羽に、二人の女の子は顔を見合わせ、躊躇いがちに付いてきた。雨脚は少し弱まっている。
「おーい!どこ行くんだよ!」
 男の子たちが遠くから声をかけてきた。美羽は駆け足で合流した彼らにも、これから行く場所がどこにあるか隠さず伝えた。
「なんか、ごめん」
 一人が謝ると、他の男の子も俯いた。そして、六人全員で美羽の家に行くことになった。

「わあ!沢山のお友達。来てくれて有難う。さっきはごめんね。秘密のお話をしているのかなって思ったから、何も言わないで通り過ぎちゃった」
 六畳間が二つだけの家である。きちんと片付き、クレヨンで描かれた家族の絵が高いところに飾られている。よちよちとした描写は数年前を示しているが、家族の有り様は何一つ変わっていない。
 母親の目一杯の歓迎に、美羽は泣きそうになっていた。紅茶を淹れてくれただけでなく、ホットケーキまで焼いてくれた。そして、大事なお客さんに出すと聞いていた栗羊羹である。惜しみなく切られたその一片の半分を口に入れ・・・
 涙があふれ出た。とても堪えきれなかった。
「え!喉につまったの?」
 母親の心配に首を小さく横に振り、美味しい、と絞り出すように言った。目が合った斜向かいに座る男の子は、ぽろぽろと貰い泣きをしていた。


 それから十三年後、彼は美羽の母親から初めて手紙を受け取った。すっかり新しく建て替えられた県営住宅の一室である。小春の淡い陽光が窓辺に差している。かつて飾られていたクレヨンの絵は、水彩の美しい風景画に取り替わり、その右下の控えめなサインはMIUである。
「帰ってから読んでね」
 青年は大事なことが書いてあると察した。
「秘密の手紙かい?」
「きっとあたしたちに言えないことね」
 そう冗談を言う二人は、穏やかに笑っていた。


 涼太さんへ
 初めて我が家に来た時のことを覚えていますか? つまらないものですが、と言って、ニンニクを差し出されたので、私は笑ってしまいました。けれど、本当に嬉しかった。沢山のお友達が来てくれて。
 涼太くんは第一印象から優しい子でした。美羽の気持ちに寄り添い、あの時流してくれた涙は、今でも私の胸の中にあります。真珠のような輝きのまま。
 あれからずっと、くん付けで呼んでいましたね。だからこの手紙の宛先に、きっと驚かれたと思います。
 涼太さん。まだ照れ臭いですね。けれど、娘の主人になるのですから、さん付けでお呼びすると決めました。私の両親がそうしたように。

 私は三姉妹の末っ子として生まれ、両親から、そして二人の姉から、愛情をたっぷりに受けて育ちました。もともと子供好きの両親に似て、長女と私は保育士の道を志しました。当時は保母さんと言いました。私の中学一年生の文集では、すでに将来の夢をそう記してあります。
 私が短大生だった頃、夢を叶え保育士になっていた姉は、その仕事を離れました。結婚をして、出産をして、子育てと主婦業に専念するようになったのです。とても幸せそうでした。まもなく三姉妹の、真ん中の姉もお嫁に行きまして、私もそうなることを疑いもしませんでした。
 私には同級生の恋人がいました。出会いは短大の入学式です。幼児教育科の列に彼が間違えて並んでいると思った私は、後ろからひっそり教えてあげたんです。そうしたら、はい、宜しくお願いしますって、礼儀正しく挨拶されました。男性の保育士の先駆けと言いますか、彼は珍しい存在でした。
 交際して一年程で、彼も結婚を意識していたと思います。けれど、私は夢を叶えてみたかったのです。姉のように数年働いてから、結婚したいと思っていました。だから卒業後も、彼を待たせてしまいました。一年、二年、いつの間にか五年・・・。彼しかいないと決めていたのに、忙しいことを言い訳にしていた部分もあります。

 そんな矢先、私は病に倒れたのです。退院する頃に知らされたのは、私にとって絶望でした。家族みんなが泣いてくれました。特に父は、泣いている姿なんて見たことがないのに、悔しいとだけ言って、私以上に悲しみを背負ってくれました。
 退院後も人生が続いてゆくことを、私は残酷に感じていました。けれど、生きなければならない以上、明るく振る舞おうと決めました。
 保育園の子供たちが、私の子供だから。
 そう笑顔で父に伝えた時、さすが俺の娘だと言って頭を撫でてくれました。父もその時は笑っていましたけれど、後に聞いた母の話によると、私が帰った後にまた泣いていたそうです。

 経済的にも精神的にも、私は家族に支えられていました。それを恋人に求めるわけにはいきませんでしたから、私はきっぱり別れを伝えるつもりでした。彼は保育士になるほど子供が好きなのです。子供を授かれない体になった私が、今後を求めてはいけませんでした。
 当初は、自分の体の事情を伏せ、ただ別れてほしいと言うつもりでした。けれど、それは不誠実だと思い直して、ありのままを伝えました。絶対に泣かないと決めてあったので、からっと明るく、お互い別れた方が良いという、前向きな提案になりました。すると、彼は私の手を握りこう言いました。
 僕が好きなのは、生まれてくる子供じゃないよ。これからもずっとね。

 書いていて恥ずかしくなったので、この辺にしておきましょう。あとは以前、涼太さんにもお話した通りです。美羽が養子だと理解した上で、そんなことは関係ないと言ってくださり、親として心から感謝しています。涼太さんのご両親にも。皆さんから愛される娘のことを誇りに思います。手塩にかけて育てた以上に、彼女は立派になりました。少し寂しい気持ちもありますけれど。
 これまで、私の一番は娘でした。そう出来ないのなら、親になる資格はないと覚悟を決め、自分のことよりも大切に考えてきたつもりです。
 これからは違います。涼太さんが娘を一番好きでいてくれるから、私は主人のことを一番に考えたい。長い間私の二番になっていた主人を、これからはずっと一番好きでありたい。
 いい歳してって言われちゃうかもしれませんね。けれど、涼太さんだからこそ、心置きなくもう一度、主人を一番好きでいられる時が来ました。

 大切な娘をどうぞ宜しくお願いいたします。二人の幸せを主人と共に祈っております。
 未来の義母より

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