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【小説】初めての留守番

 七月某日、雨宮は留守番を任された。新社屋の一階である。その都会的なオフィスはまだ稼働していない。引っ越しではなく、第二第三のオフィスとして、会社が二階建てのビルを買い上げた。内装のリフォームはまず一階、そして今は二階の工事中である。留守番を兼ねて常駐している社員が、その日は休みを取った為、初めて雨宮の出番になった。ワイシャツの袖をまくりあげて、おかしいと思いながらもサッカーのキーパーグローブを持参したのは、上司からのメールで“明日のGKは頼んだぞ”と言われたからだ。
「君は一体、何を守るつもりなのかね?」
 GKとは、無論ゲートキーパーの略である。そうかと気づいた雨宮は、シュートに身構えるゴールキーパーを真似た。冗談で持参したふりである。
「まあ、無失点で頼むよ」
 背中をぽんと叩かれた雨宮は、押忍!と一言返事をした。留守番に際して、ポケットワイファイの使い方を教わり、とりあえずインターネットに接続された。そもそも会社から支給されたノートパソコンも使いこなせていない。なにせ彼は生粋の体育会系。まだ入社して三ヶ月ほどだ。打たれ強さと体力には自信がある。縦社会の原則は大学時代の柔道部で、理解するよりも前に叩き込まれている。上から少々理不尽な指示を出されても、ごたごたと文句を垂れない。どんな組織でも、そういう従順さが求められがちだ。彼は古い体質の厳しい部活動を四年間やり遂げた実績を評価されて雇われた。要するに、将来性を買われた。いわゆるテレワークも出来ない彼の場合、留守番はまさに留守番でしかない。
 ただし、留守番としては見栄えがする。短髪の色黒で、鍛え上げられた大きな体は、いかにも強そうだ。上背もある。顔立ちは優しいのだが、番犬たる役割はこなせそうである。あとは、会社の窓口として、仮に訪問客があった際にどう対応するかである。誰か来るとしても、飛び込みの営業か、工事関係の業者だろうと上司から言われていたが、雨宮は舐められてはいけないと思った。出来る男を装うつもりだった。その為に、先の尖ったつるぴかの黒い靴を履いてきた。髪の毛をつんつんと立ててきた。加えて、ワイシャツの襟元を大きく開けた。黒いサングラスを掛けてみた。鏡に映る姿はチンピラである。さすがにやりすぎだと思い、サングラスは外したが、足を組んで椅子に座り、時折でたらめな文章をパソコンで打った。高速でそれっぽく打つ練習をした。固定電話の受話器をパソコンの左に置いて、あたかも忙しそうに通話する練習もした。イメージはGKを頼むと言った直属の上司である。

 その男は、良く電話をしながら職場に現れる。ちょろちょろと外を動き回り、帰ってくる際は高確率でスマートフォンを耳に当てている。大きめの声で話す内容から、取引先に電話しているのは間違いない為、雨宮はとても忙しそうだと思っていたが、別の先輩に、あれは小賢しいアピールで、職場に入ってくる直前にわざわざ自分から電話しているのだと教えられた。
「俺来たよ、俺忙しいよって、そういうことだよ」
 たしかに職場で座っている際はあまり電話をしていないと気づいた。なるほど騙されたと学習した。

 雨宮は素直な分、誠に単純な男である。自分が騙す側であれば、これは使えると思っていた。様になった自分の姿を想像してにんまりした。朝から晩まで運動ばかりしてきたせいか、どこかインテリに憧れがある。パソコンをちゃかちゃか扱う姿はかっこいいと思っている。調子に乗って、片手で打ち始めた。もう片方の手で受話器を取ってみた。これはいい!・・・と勘違いして、来客者を待ちわびた。白いレースのカーテンの向こう側を、玄関に向かって誰か歩いて来ないか眺めた。二階の工事人たちは裏口の階段を使っている為そこを通らない。来る人が美しい女性であればこの上ない。手が離せないと装い、少し待たせるつもりだ。お嬢さん何かご用ですか?と低い声で上品に訊くつもりだ。忙しい中でも余裕を纏う感じである。この真新しいオフィスに若き起業家が一人という感じである。
 しばらくして、ついに人影がカーテンに現れた。慌ててパソコンに向き直り、練習の成果を発揮した。軽やかに動く右手はピアノを弾くようだ。とっさに閃いて肩で受話器を挟むと、すぐに左手も加わった。適当なことを偉そうに喋った。だが、玄関から聞こえてきたのは男の、しかもお呼びでない声である。そちらを見た瞬間、例の上司と目が合った。相変わらず電話をしながら入ってきた。にやっと笑ったのは、お互いである。雨宮はばれないように、それでは失礼しますと言って受話器を置いた。上司がまだ電話している隙に、パソコンの画面を会社のホームページに切り替えて、うーんと唸った。何か考えているふりである。上司は電話を切ると、優しく声を掛けてきた。
「誰と電話していたんだい?」
「営業の電話でしたね。味噌を買わないかと言っていたので、断っておきました」
「味噌ね。それは断って正解だ。しかし君、自分で味噌を付けとるぞ」
「きゅうりですか?」
「ああ、そうね。その電話はきゅうりでも良いかもしれないね。まだ電話線に繋がっていないから」
「な、なんですって!?」
 そして、上司は訓戒を垂れた。人を騙すようなことをしてはならないと。

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