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普天間で『国境』を走る “ 旅先で『日常』を走る 〜episode46〜 沖縄編 ”





前回のあらすじ

〜 境港で『妖怪』を走る 〜

“ 表裏一体のものをつなぐ僅かなすき間から滲み出る存在が『妖怪』だという。その土地土地の地政や、連綿と流れる歴史や風習、畏れや祈りが彼我のすき間から質量を持って現れるのだ。つまり、妖怪はドラえもんやサザエさんのような『キャラクター(虚構)』ではないので、異物感なく我々と共存できるのではないか? ”


普天間で『国境』を走る


「日本全国の47都道府県すべてを訪れて、その地で走り、後日記事にする」というコンセプトで始まったこの連載。前回でepisode45を数え、今回を含めあと2回でこの連載は完結することになる。しかし、ここで重大な問題がひとつ明らかになった。
私は旅先で走る趣味を続けて3年目になるが、じつは沖縄県だけではいまだに走ったことがなかったのだ。

私が前回沖縄県に行ったのは今から9年前だが、当時はまだランニングを趣味にしておらず、もっと不健康な生活だった。9年前は、石垣島と小浜島でリゾート三昧で過ごしていた。マングローブの密林の中を流れる川をカヤックでスイスイと下っていったことが、楽しい思い出として記憶に焼き付いている。
また、沖縄本島へ前回足を踏み入れたのは、なんと37年も前の夏休みのことだった。当時、私は小学5年生。元号はまだ昭和で、ちょうどロサンゼルスオリンピックが開催されていた時期だった。

そろそろ沖縄に行って走らないと、この連載を完結できない。もはや、目的と手段が入れ替わっているような気がしないでもないが 笑。しかし、さすがに一人で沖縄まで行くのは躊躇がある。「なにか口実が必要だな。」と思案していたところで、4月16日に私は48回目の誕生日を迎えた。年男だ!おめでとう自分!!

ということで無理やり感は否めないが、自分への誕生日プレゼントを口実にして沖縄に旅立つことにした。土日の休日を利用して、一泊二日の旅にすることにしよう。

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2021年4月17日、土曜日。天気は曇り。沖縄行きの計画をさっそく実行した。

早朝に家を出て、まずは東京駅に向かった。そこから成田空港行きのバスに乗るのだ。スムーズに東京駅に到着し、八重洲口を出ると横断歩道を渡っていつものバス乗り場に行く。ムダのない動きだ。さすが、旅慣れている私。
「あれ?」、なにかいつもとバス停の雰囲気が違う。バスを待つ人もいない。ふと、バス停にくくり付けられている真新しい看板に気づき、視線を落とす。すると、そこには「成田空港行きのバス乗り場は駅前に移動した」という内容の案内が出ていた。まじか?

乗り込む予定のバスは5分後に発車する予定だ。時間に余裕を持って行動しない私の悪いクセが、初っ端からこの旅のスケジュールをガタガタに崩してしまうのか?それだけは避けなければ。
私は、バスが待つ駅前のバスターミナルへと急いだ。よかった。まだバスは発車していなかった。私が息を切らせながら乗り込むとほどなくして、定刻通りにバスは成田空港に向けて発車した。

バスは1時間ほどで、成田空港第3ターミナルに到着した。ここからピーチエアーの飛行機で那覇空港までひとっ飛びするのだ。ピーチエアーには何回か乗ったことがある。ここで降りて、第3ターミナルでチェックインするのだ。

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ターミナルに続く階段を上ろうとしたところで、大きな立て看板に気づいた。その内容に目を通してみる。なんと、看板には「ピーチエアーは第1ターミナルに移った」と案内が出ていた。
なんだかコロナ禍でしばらく空港を利用していない間に、いろいろな事が変わっていたようだった… 

目のまえの道路標識には「第1ターミナルまで1.7km」と表示されている。スーツケースを引きずりながら歩くにはちょっと厳しそうな距離だ。どうしたものか? と、ちょうど目の前にタクシーが一台客待ちをしていた。迷うことなく、私はそのタクシーに乗り込んだ。
第1ターミナルと行き先を告げると、運ちゃんは開口一番「ピーチ?」と聞いてきた。私と同じ過ちをする人たちが、世の中には多数存在するらしい。

第1ターミナルに着いてからは順調で、定刻通りに成田空港を飛び立った飛行機は、10分遅れで那覇空港に到着した。荷物を降ろして降りる準備を進めていると、斜め後の席からなにか異音がする。
振り返ると白人男性と日本人人女性のカップルが、「ブチュブチュ」と大音量を放ちながら濃厚接触していた。思わず、心の中に「鬼畜英米」という単語が浮かんだ。いつの時代の人間だよ、俺… 

飛行機を降りてあらかじめ調べておいたバス停に直行する。バス停が視界に入ったタイミングで、ちょうどお目当てのバスが発車して行った。次のバスは25分後とのことだ。まあ、そんなに急ぐ旅でもないので、適当に時間を潰しつつ過ごそう。

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空港内に、出張版の『美ら海水族館』があった。巨大アクアリウムといった趣きで、ボーっと時間を潰すにはちょうど良い。しかし、水槽内で繰り広げられる美しい光景を眺めながらも、私は思わず「美味そう」という感想を覚えてしまった。

「これは腹が減っているということだな。」
それならば、ここでランチを摂って行こう。空港内を飲食店を探しながらブラついていると、『沖縄そば』の看板が出ている店を発見した。ここにしよう。

入口で食券を買い、店員さんに渡してからカウンター席に着席する。すぐに、席まで沖縄そばが運ばれてきた。

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じつは沖縄料理がけっこう好きで、普段から『やんばる食堂』などで沖縄そばやタコライスは好んで食べている。日常的に食べていると、逆に「沖縄に来てまでわざわざ食べなくてもよくないか?」という境地になる。なので沖縄そばにさして期待はしていなかったのだが、その味はなかなか本格的なものだった。
ちなみに沖縄そばを「ソーキそば」と呼ぶと、地元の人たちからすかさずチェックが入るから要注意だ。「ソーキ」とは豚のあばら肉のことを称すのだ。なので三枚肉など他の部位の肉が載っているそばは「沖縄そば」と呼ぶのがベターだ。

さあ、腹も満たされたところで、そろそろバスの出発時刻だ。バス停へと移動し、券売機であらかじめ切符を購入しておく。
すぐにバスは入線してきた。私はこの旅の行く末を想像しつつ、心躍らせながらバスに乗り込んだ。


バスは那覇空港前から県庁・国際通りを経由し国道58号線に出て、そのまままっすぐ進み続ける。進むにつれだんだん自動車が増え、道が混んでくる。沖縄県では最近になってようやく市内モノレールが通ったくらいで、その他の鉄道網が存在しないのだ。よって、必然的に車社会になる。
とはいえ、戦中までは今まさにバスで走っているルートにも鉄道が走っていたようだが…

1時間ちょっとバスに揺られ、予定より10分ほど遅れて目的地のバス停に到着した。
まずは宿に向かおう。今日は奮発してリゾートホテルのツインルームを取ったので、なにはさておき早々にチェックインしたいのだ。バス停からさらに国道58号線沿いに歩みを進めて行くと、遠くに観覧車が見えた。あのあたり一帯が『アメリカンビレッジ』だ。あの辺りに今日の宿があるのだ。

観覧車という目印を発見した私は今までにも増して心が逸り、早足で目的地に向かって進んで行く。進んで行くと、視線の先右斜め前方にアイスクリームの看板を発見した。

ブルーシール』だ。

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4月とはいえけっこうな暑さの中を進み、疲れとのどの渇きを感じていたところだ。
ちょっと買い食いして行こう。

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ココナッツ&塩ちんすこうのダブルを手に入れ、店内のカウンター席に腰掛け、しばしの休息を取る。いかにもOKINAWAといった雰囲気の、昭和アメリカンテイストな内装だ。

休憩を終え、さらにしばらく進む。特に塀やらゲートやらといったものもなく、進んでいるうちにいつの間にかアメリカンビレッジの中に入っていた。

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この一帯が、ひとつの町を構成している。観覧車の少し手前にイオンもあった。

中心地まで進む。道の両端に椰子の木が林立している。トロピカルな空間に風景が変貌していった。

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とりあえず、中心地を一周してみる。低層のショッピングモールが軒を連ねていて、飲食店や雑貨屋などが所狭しとひしめき合っている。

一周して元の地点に戻ったところで、海岸沿いの高台に遊歩道があることに気づいた。
登ってみよう。

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きれいに整備された海岸沿いの遊歩道。海から吹き付けてくる浜風が心地よい。午後の時間帯特有の、低い位置から照り付けてくる陽差しも相まって、「今、俺は沖縄にいるんだ!」感がMAXまで醸成されたのであった。

そして、視線を右にスライドさせると飛び込んでくる、美しい海。

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特に海を見ることを楽しみに沖縄まで来たわけではないのだが、さすがに視界の隅々までまんべんなく広がる透明で穏やかな海面と、真っ青な青空を目の当たりにしてしまったら、ついつい目の前の光景に見入ってしまう。

このあたりは『サンセットビーチ』と呼ばれ、沈む夕日の美しさに定評があるようだ。

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ここで日没まで過ごすのも良さそうではあるが、今日はこの後に予定も入っているので、後ろ髪をひかれる思いで退散することにした。

ビーチから2〜3分歩いたところにあるホテルに到着した。ここが今日の宿だ。リゾートホテル。シーズンオフ&まん防の影響で、なんとおっさん一人がツインルーム宿泊で9,000円(税込)だったのだ。しかも、この一帯のお店で使える1,000円のクーポン付きだ。
頑張って生きていると、こんな神様がくれたご褒美のようなこともあるものだ。人生捨てたもんじゃない。

到着後、さっそくチェックインした。フロントの方の説明に耳を傾ける。このホテルには、大浴場はもとより、ジムやバー(有料)も付いているとのことだ。加えて、「まん防のため当館の施設も、アメリカンビレッジの店舗も20時に閉まります」と説明を受けた。
ついでに、「今日は19:30から5分間だけですが、花火が上がります」というお得情報もゲットした。

エレベーターで4階に登り、部屋に到着した。

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さすがにリゾートホテルにはシングルルームは存在していないようで、ツインルームをおひとり様用に格安で提供してもらったのだ。快適に過ごせそうな部屋でひと安心だ。

これから一旦外出する。用事を済ませて戻ってくるのが20時過ぎの予定なので、今日のディナーとしてルームサービスでタコライスを頼んでおいた。なにしろ20時でサービスが終了するとのことだから。

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次の目的地へはバスで向かうが、さきほどの道路状況を鑑み、早めに出発しよう。

バスは、案の定5分ほど遅れて来た。ここからさらに北に向かって、嘉手納に向かうのだ。
バスに揺られながら車窓を眺めていると、不意に米軍機に遭遇した。

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車中の私に向かって海の方から轟音とともに現れ、信じられないくらいほどの低さでバスに近づき、真上を通り過ぎて滑走路の方に吸い込まれるように去って行った。

最寄りの停留所には、待ち合わせ時間に少し余裕を持って到着した。準備万端な私。
そういえば、おとといの時点で天気予報は小雨だった。雨が降ると屋外でのアクティビティは困難になる。しかし、現在の空模様は快晴とは言えないが、なんとか雨は降らずに済みそうだ。

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私があらかじめ入れていた用事とは『サンセットカヤック』だ。9年前に石垣島で体験したマングローブカヤックが楽しすぎて、今回もマングローブ地帯をカヤックで進む算段なのだ。
指定された集合場所に到着すると、30代前半くらいのお兄さんが出迎えてくれた。彼が今日のインストラクターとのことだ。天気予報が悪かったのでキャンセルが続出したということで、今回のサンセットカヤックはマンツーマンで行われることとなった。

日没まではまだ時間があるので、まずはマングローブの川を遡り、キリのいいところで河口に下るという段取りで進んで行く。

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まずはインストラクター(以後「兄さん」)から、マングローブの植生についてレクチャーが入る。「マングローブカヤックは初めてですか?」と聞かれ、「石垣島でやったことがある」と答えると、詳しい説明は省略され、その代わりにこの場所の歴史の話になった。

兄さん曰く、「この森の中には薬莢がいっぱい落ちているんですよ」。
昭和20年4月1日、アメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍がまさにこの地から沖縄本島に上陸し、凄惨な沖縄戦が行われたのだ。
とはいえ、戦争の話ばかりしていたわけではない。

2年に一度の頻度で来る大型台風によってマングローブの苗木のほとんどがダメになってしまうので、この森も絶滅が危惧されていること。そのことと、悲惨な地上戦の戦場となった歴史的経緯により、この区域へのカヤックの乗入れがゆくゆくは禁止されるかもしれないということ。
その他にも、インストラクターの方が北海道網走の出身で、元々は酪農の仕事をしていたこと。沖縄でマリンスポーツ関連に従事している人の9割以上が県外出身者であること。地元の方々は主に第一次産業や旅館・お土産屋などに従事していること。

などなど話しながら漕いでいるうちに、日の入りの時刻が近づいてきた。ここから、河口に向かって進むことになった。
船舶の航行を邪魔しないように右側を進む。進むにつれ、海流が複雑になってきた。思う方向に進みにくくなっている。海に沈んでいく夕日を眺めるベストポジションに向かう。

その手前にふたご岩がある。

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兄さん曰く、「このふたご岩は昔の写真にも残っているんですよ。このあたりでは珍しく。」 
連合国軍が空爆でこのあたり一面を爆撃で平らにならしてから上陸したので、それ以前の形跡を残しているものがほとんど残ってないらしい。

一方目の前では、いよいよ日が沈みそうになっている。
幸いにも雲はとぎれとぎれになり、太陽の円形の8割ほどが目視できる状態だ。

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先ほどまでとは違って、日が沈むあたり一面は茜色に染まっている。
「少し雲があった方が、夕日に色が付くんですよ。」兄さんの説明が入る。天気予報を見ていて夕陽を拝むことは叶わないかと覚悟していたが、こんなにも美しい夕日を眺めることができた。
これも、私の普段の行いの賜物であろうか?きっとそうに違いない。

冗談はさておき、古来からこの地に生きた人たちは皆、この夕日とともに生きてきたのだろうか? 日々暮らしていく中で、夕暮れのこの時間帯だけは他のすべての作業を止めて、ただただ美しい夕陽を眺めていたのだろうか?
そうだとしたら、それだけでもこの地に暮らすことそれ自体が生きる糧になったのではないだろうか? と、通りすがりの旅人は安易に思ってしまうのだった。

そして76年前のあの日、この地に上陸してきた連合国軍の兵士たちも、今も米軍基地で従軍する兵士たちも同様にこの夕陽を「美しい」と感じながら眺めていた(いる)のだろうか?

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日が落ちると一転して周囲が真っ暗になるので、急ぎ気味に岸に戻る。
風がかなり強くなってきた。突風レベルだ。しかも岸に戻るには、海流に逆らって進むかたちになる。パドルを水面に対して鋭角に差し込み、全身にグッと力を込めてカヤックを進める。かなりの重労働だ。数100m漕いで、ようやく岸辺の近くまで戻った。
「カヤックを陸に上げる時に使うマットを用意するので、この辺りでしばらく浮かんでいてください。」と兄さんは言い残し、先に陸に上がった。

私は疲れもあって、カヤック上で横になった。自然と、視線の先は空一面になる。

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空には、下弦の月が浮かんでいる。
こうやって寝転んでいると、上下の感覚も、距離感すらもおぼろげになる。もしかしたら手を伸ばせば届くのではないだろうかと、思わず月に向かって手を伸ばした。
「こんな感覚で、李白は湖に落ちて亡くなったのかな?」と、ふと遠い昔に海の向こうで生きていた詩人のことが脳裏をよぎった。


サンセットカヤックを無事に終え、兄さんにバス停まで送ってもらった。あとは宿に戻るのみだ。この時間でもバスは20分に1本走っている。ちょっと待てばバスは来るのだが、この日はなんとなく走りたい気分だった。
陽はすっかり落ち、周囲の景色を楽しむことは叶わないが走って戻ることに決めて、国道沿いをまっすぐに進んだ。

右手には、国道58号線。2車線ずつ車道が走り、その奥には店舗や企業のビルが並んでいる。自動車のライトや建物の照明によって、私の行く先は明るく照らされている。
一方、左手は真っ暗だ。上部に鉄条網が張り巡らされた金網が歩道沿いに並び、その奥は在留米軍の飛行場がある。

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嘉手納飛行場、通称『嘉手納基地』。1945年4月1日、米軍は、沖縄本島に上陸したその日に帝国陸軍航空隊中飛行場だったこの地を占領し、嘉手納飛行場はその日のうちに米軍の不時着用飛行場となったのだ。

アップダウンのない国道を、ひたすらにまっすぐ進んでいく。

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気付けば、時刻は19時半を回っている。今ごろ海岸では花火が上がっているのだろうが、その音も光もここまでは届いていない。目の前は、ただの暗闇だ。
嘉手納基地の内部には、動きは見られない。今まさに私が走っているこの道から金網1枚隔てた向こうがアメリカの占有地だとは… 島国に生まれ育ち国境の感覚を持たない私には、なんとも居心地の悪い感覚だ。

金網に、立ち入り禁止の警告文が張り付けてある。

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勝手に侵入すると、軍用犬に追い回されるらしい。

米軍基地は日米地位協定第2条第1項 に基づき米国が管理する『在日米軍施設・区域(専用施設)』扱いである。ちなみに米軍基地内はアメリカ国内ではなく、日米安保条約・地位協定により使用権が認められているものであって、れっきとした日本領である。
この第17条により、治外法権に近い地位が米軍側に与えられている。たとえば、在日米軍の軍人が基地内部で起こした犯罪、または「公務中(であると彼らが主張する時)に基地の外で起こした犯罪」に対しては日本の法律が適用されず、アメリカ合衆国の連邦法が適用されるのだ。また犯罪を起こしても、米軍施設敷地内に逃げ込めば日本の警察が関与することは出来なくなり、不当に軽い処分で済まされる可能性がある。というか結構あるのだ。
たとえば1995年に起こった『沖縄米兵少女暴行事件』。この事件をきっかけに、沖縄県民の間でくすぶっていた反基地感情が遂に爆発し、沖縄が押し付けられている多数の米軍基地を整理・縮小する機運が高まったのだ。

などと、日米地位協定について皆さまに読んでいただいている間にも、私はひたすら国道を走り続けている。

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どうやら一時の気の迷いで私がこの金網を乗り越えて基地内に侵入しても、機関銃で蜂の巣にされることはなさそうだ。軍用犬に噛みつかれて米軍に身柄を確保され、日本の警察に突き出されるのが関の山だろう。
相変わらず左手の風景は真っ暗だが、もしかしたら金網の向こうを軍用犬が私を監視しながら伴走しているのかもしれない。

しばらく進むと、左手の金網がやや遠ざかり、その手前に鬱蒼と木々が生い茂っている。

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木々の枝葉が歩道にまで侵食しており、避けながら進んで行く。

このスポットを抜けたところで、ふたたび視界には金網が近づいてきた。

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その先に、基地の入り口的なスペースを発見した。
しれっとそのまま基地に一歩くらい入ってみようかとも思ったが、思いとどまってそのまままっすぐに進んで行った。

もう少し進んだ先で、大きな交差点にぶつかった。

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これまでの道のりとは違って、この先は視界の左手にもロードサイド型の飲食店が並んでいる。どうやら、嘉手納基地はここまでのようだ。左右からの照明をまとめて浴びて、視界が一気に明るくなった。
若干スピードを落としながらそのまま少し進んで行くと、人とすれ違った。走り始めてから30分ほど経つが、人の姿を見つけたのは初めてだ。

その人は、犬の散歩をしている中年男性だった。見るからに、アメリカ人っぽい風貌だ。米軍関連の人だろうか? 
などと考えながら少し進んだあたりで、行きの行程で利用したバス停をすでに通り過ぎたことに気づいた。今私は、宿まであと500mくらいの場所にいるということだ。

多くの人たちが暮らす地域の、こんなにすぐ近くに米軍基地があるのだ。なんだか、沖縄に暮らす人たちの暮らしの一端に触れたような気がした。
ランニングはここで終わりにして、バス停横にある地場のスーパーでディナーのおかずと酒を買って帰ろう。

スーパーから宿に戻る道すがら、アメリカンビレッジの中を突っ切っていく。

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すでに時刻は21時近かったが、アメリカンビレッジの店舗はまだ普通に開いていた。

じつは、この地域はまん防対象の9市に含まれていないのだ。なぜかは分からないが、私はフロントのお姉さんに偽の営業情報を教えられていたことになる。
実際にはテラス席を中心に、多くの若者たちが和やかに歓談している。そして、米軍関係者と思しき外国人の姿も目立つ。

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この一帯は、1981年返還された米軍ハンビー飛行場の跡地で、近隣には米軍関係者が住む高層アパートもあるらしい。後に調べたのだが、この地を開発するにあたり、

 ・沖縄県民のためのリゾート(それまでは観光客向けのリゾートしかなかった)
 ・在住アメリカ人と地元民の交流(米軍基地の存在を前向きに受け止める)
 ・観光バスに素通りされない(地域経済の活性化)

といった様々な思惑を具現化したのだという。

宿に戻り、遅めのディナーを摂った。あらかじめルームサービスで調達しておいたタコライスに、スーパーで購入してきたもずくの天ぷらとラフティに、近海産びんちょうマグロの中落ち。

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酒は、オリオンビールと泡盛にした。定番!

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本当なら沖縄料理の店で、『カラカラ』と呼ばれる泡盛専用の器を使ってしっぽりと飲みたかったのだが、なにしろまん防期間中だ。仕方ない。

飯の後は風呂に入って汗を流すことにする。このホテルは、最上階に温泉大浴場があるのだ。
タオルを持って大浴場に向かう。エレベーターで最上階に登ると、一面ガラス張りのロビーが視界に飛び込んできた。さすがの絶景だ。観覧車をはじめとして、アメリカンビレッジ一帯や海岸が一望できる。ネオンサインや照明が煌びやかで、しばし見入ってしまった。

その先の廊下を進み、男湯の暖簾をくぐる。広くはないが整理整頓された脱衣所に部屋着を置いて、いよいよ風呂に入る。
浴場内は10人以上でなかなか賑わっているが洗い場も10台くらいあり、不自由は感じない。浴槽は一つだけだが、広々と作られている。そして、特筆すべきはサウナだ。20人くらい入れそうな広さがあり、温度も常時90℃ほどを保っている。一方、水風呂も14℃台でひんやりする。交互浴には最高のラインナップだ。
私はすっかり気に入ってしまい、1時間ほどサウナと水風呂の往復運動を繰り返していた。

長風呂を済ませ、部屋に戻る。部屋にはベッドが2つ並んでいる。もちろん、私の体はひとつだ。なんだか申し訳ないので片方のベッドだけを使うことにした。
ビジネスホテル慣れした私にとっては、室内に寛ぐ用の椅子があったり、洗面所が広かったり、ベッドがフカフカだったりすることが、いちいち贅沢に感じられる。今日は誕生日を祝うために、めったにしない一泊9,000円の贅沢を満喫するのだ。

ハッピーバースデー、おめでとう自分!


翌朝は頑張って7時に起きた。まずは、ブレックファーストを摂る。ホテルの朝食バイキングに並んで、地場の食材をメインに作られた料理をトレイに盛り付けていった。品揃えはそんなに豪華ではなかったが、サラダ用の野菜が充実していた点が高ポイントだ。
部屋に戻ったらすぐにランニングウェアに着替え、朝のランニングをスタートしよう。

部屋で簡単に準備体操を済ませ、8:30にホテルを出発した。ホテルの周りはまだ閑散としている。まずは海岸沿いの高台に向かって進む。ビーチに出ている人はまだまばらだが、遊歩道にはベンチがかなり設置してあり、腰掛けて海を眺めながらのんびりしている人の姿が目立つ。

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まったりしている人たちを尻目に、ランナーの私はそのまま南に進んでいく。
視線の先、遊歩道が補修工事をしており立入禁止になっていた。内陸側に迂回して進んで行く。しばらく直進すると、立派な陸上競技場に着き当たった。外周に沿って進んで行く。向こう側から、中学生くらいの女の子たちがユニフォーム姿で連れだって走ってくる。今日、ここで競技会でもあるのだろうか?
さらに進むと、その先には野球場があった。すでに、少年野球チームが試合をしている。そういえば、沖縄は高校野球が強かったな、とかつての強豪校である興南・水産・尚学・八重山商工など思いつくままに脳内に列挙していく。

このあたりから、歩道の右手には木々が林立するようになり、その隙間からまた海が目に入ってくるようになった。その先で、一気に視界が開ける。
ここが『アハモビーチ』だ。

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本島中部で最大規模のビーチである。時刻は9時近くになり、人もぼちぼち出だしているようだ。犬の散歩をしている人も多く、ぱっと見半分くらいは米軍関係者なのではないか?と感じた。
地元民も外国人も、一様にリラックスした表情だ。

アハモビーチを抜け、国道58号に出る。道の向こうには米軍基地がある。ここは昨日通った嘉手納基地ではなく、『キャンプ・フォスター』だ。

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嘉手納基地は空軍基地だが、こちらは海兵隊の基地になる。横断歩道を渡り、金網越しに基地を覗きながら歩道を走っていく。

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まだ朝早いからか、日曜日だからか分からないが、基地内には人影はない。軍用犬らしき姿も見当たらない。

金網に括り付けられている警告文を見る。

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こちらには犬は放たれていないようだ。

しばらく直進したところで、交差点に行き当たった。このまま直進すればあの有名な『普天間基地』がある。「こんな市街地に本島最長の滑走路が作られているのか。」想像を絶するが、これが現実なのだ。しかし、普天間基地まで進んでも、どうせ中に入れるわけでもない。
キャンプ・フォスターと普天間基地の間に走る公道を左折し、上り坂を進むことにした。

交差点を曲がってすぐ、上り坂の端緒に、ある立て看板を見つけた。

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「歴史文化財が多く存在するこのあたりを散策しませんか?」といったどこにもあるような内容だ。しかし、ひとつだけ違和感がある。
この地図には、思いっきりキャンプ・フォスター内にある遺跡や古墳が書かれていることだ。場所が指示されているだけでそれ以上の言及がないところに、凄みを感じた。まるで、「米軍基地なんて最近になって作られた施設のことなんて知りませんよ。」というかのように。

坂をほぼ上りきった。振り返ると、眼下にキャンプ・フォスター内部の様子がうかがえる。

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その向こうにはアハマビーチ。以前はあのあたりまで、すべて米軍基地だったのだ。日常と非日常がこんなにも接近して存在している。緊張感があるのかないのかよく分からない佇まいで。
少し休憩したところで元の道を引き返すことにした。

坂を一気に下り、国道を引き返す。基地の中も国道も人気がほとんどない。その代わりに自動車の往来はやたらと激しい。南北に長いこの島を縦断する国道は2本しかなく、最近になってようやく3本目の道(高速道路)が開通したそうだ。

さっき通って来た脇道にそれて、アハモビーチに戻る。
時刻は9:30。先ほどよりも人が増えている。

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芝生でくつろいだり、浜辺で遊んでいる人たちが目立つ。歩道にはランナーも増えている。

日曜日だからか、米軍関係者らしき人の姿が目立つ。
そういえば、祖国を離れ、軍人として異国で任務につくストレスはどれほどのものなのであろうか? そんな、今まで考えてもみなかった疑問が、ふと脳裏をよぎった。

どうか、ここに暮らすすべての人たちがお互いの存在を尊重しあって、いつまでもこの平和な光景が続きますように。

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さあ、チェックアウトの時間が迫ってきたので、先を急ごう。

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(追記:帰路を急いでいる中で、往路には気づかなかった謎の山羊小屋を発見したので、ここに報告しておく。)

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ランのゴールは、宿の近くにあるファストフード店『A&W』にした。

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沖縄では有名なローカルチェーンだ。旅行者の口コミでいろいろと噂の『ルートビア』を注文し、水分を補給する。

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お味は、ひとことで表現すると「湿布テイスト」。このドリンクのみおかわり無料らしいが、遠慮しておこう 笑。

宿に戻りシャワーを浴びて、チェックアウトした。
近隣の一部店舗で使える1,000円引きチケットをまだ使っていなかった。このチケットを使って、ランチをここで済ませて行くことにする。遊歩道をぶらつきながらお店を物色し、テナントビル4階のステーキハウスに入った。

ここならビーチを見ながら食事できそうだ。

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4階のテラス席から雄大な海を眺めながら、アンガス牛のサーロインステーキを堪能した。満足。


路線バスに乗り、昨日来た道をそのまま戻り、沖縄県庁前で降車した。この先に県下随一の繁華街『国際通り』がある。

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まだ帰りの飛行機まではだいぶ時間があるので、ノルディックポールを使って市街地を散策することにした。

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交差点を渡り、国際通りに入っていく。
歩道と車道の間に椰子が植えられ、歩道はインターロッキングがされている。街歩きには最適な環境だ。

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通りの両側には、土産物屋や島唄演奏付きの沖縄料理屋、シティホテルなどが軒を並べ、その隙を縫ってブルーシールアイスの店舗が入り込んでいる。

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しかし、いかんせん観光客が少なく、日曜日の昼下がりだというのに人手は多くない。シャッターを下ろしている店舗すら、けっこうある始末。そもそも、国際通りの店舗構成が完全に観光客をターゲットにしているものなので、これなら地元の若者はイオンモールなどにたむろしそうだ。なんにせよ。このあたりの状況は今後も厳しそうだ。

閑散とした通りをある程度進むと、右手に『市場本通り』と書かれたアーケードを発見した。

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ちょっと、寄り道してみよう。

この通りは、国際通りのメインストリートよりも一層人気がない。準廃墟といった感じだ。
市場という割には、地場の特産物を並べている店舗はあまり多くない。

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シャッターが下りている店舗が目立つ一方で、催事スペースが多数営業している。

進んで行くと、右手に『嫁ニーの店』を発見した。

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誰だ、嫁ニーって? 地元のタレントか?沖縄版大泉洋みたいな。
(後日調べたところによると、『月曜から夜ふかし』によく出演している素人らしい。)TVはほとんど観ないので、わからなかった。

さらに、迷路のように入り組んだアーケードを進んで行く。

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進めば進むほど人気がなくなっていく。アーケードのどん詰まりまで来ると、右手に緩やかな上り坂があった。

進んでみると『壺屋やちむんの通り』と称する、焼き物(沖縄の方言で「やちむん」と呼ぶ)店街だった。

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路面は石畳で、寂れたアーケードとは一転して風流な一角だ。

通りを抜けると街道にぶつかった。ここを左に曲がり進む。しばらく直進すると、眼前にモノレールの軌道が現れた。頭上に安里駅がある。駅を通り抜けたすぐ先を右に曲がる。

今度は、『栄町市場』なるアーケードがあった。

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もちろん入ってみる。どうやら、この一帯は飲み屋街のようだ。15時くらいから開ける店がほとんどで、まだ準備中だった。

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そして、もはやアーケードとは呼べないレベルで天井の布がビリビリに破け、天空が顕になっている。

アーケードを通り抜けて、右手に向かう。
『栄町社交街』のアーチが見える。

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古くからの歓楽街なのだろうが、この界隈の店もまだ開いていないだろう。角を左に曲がり、なおも進んでいく。このまま直進して、首里城まで行く算段だ。

街道に出てひたすら前進する。すると、そこそこ急な上り坂に至った。ひたすら上る。標識によると「あと1.8km」。500mほど上る。上る。標識によると「あと1.7km」。なんで! 
めげずに上り続ける。ノルディックポールをはるばる沖縄まで持ってきて本当に良かったと、心の底から我が判断力を称賛する。

いい加減に歩き疲れたところでふと左手に視線を落とすと、那覇市内を一望できる眺望があった。

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知らないうちにずいぶんと上ってきたのだ。
最初よりもだいぶ緩やかになった上り坂をもう一踏ん張り進むと、ようやく首里城に到着した。

二千円札でお馴染みの守礼門をくぐる。

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続いて歓会門をくぐり、右手の石段を上る。

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石段の上にそびえる瑞泉の門を潜ったあたりから、本格的に城内に入った感がある。ここで入場料を払い、天守に入った。

しかし、ご存知の通り2019年に天守閣は失火により消失してしまったのだ。

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目の前に広がるは工事現場のみ。
でも、良いのです。入場料の400円は、天守閣再建の際の大工さんの煙草代の足しにでもなれば。

天守を出て、次の目的地に向かう。瑞泉の門を抜け、先ほど来た道とは逆方向の下り坂を進む。そして脇道を左に逸れる。
本当はこちらがお目当てだったのだ。

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旧日本軍 第32軍司令部塔

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“ 昭和20年5月末、アメリカ軍に首里を包囲された旧日本軍は、司令部壕を放棄して沖縄本島南部に撤退する際、機密情報が知られないよう内部を爆破したとされている。この撤退の決断が、住民の犠牲が膨らんでいく悲劇の1か月の始まりとなった。”

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本土決戦を避けるために持久戦を選び、この地を捨て南部に転進した陸軍の判断は、多くの市民の命を道連れにした。
沖縄戦の3ヶ月ほどの間に、沖縄県民の4人に1人の命が奪われたのだ
(毎年6月23日が、「沖縄慰霊の日]に指定されている。)

心の中でそっと手を合わせる。

旅の大きな目的を果たしたところで、モノレールの首里駅に向かい、空港の方に戻ることにした。
途中、小さい池があったので休息を取る。

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名も知らぬ鳥たちが羽ばたいている。のどかだ。この地でかつて幾多の戦闘があったとは、にわかには信じられない。

休憩を終え、駅に急ぐ。またもや上り坂を進んでいくと、ようやく駅に到着した。

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モノレールに乗り、国際通りに戻ってお土産を買うのだ。
しかし、このモノレールはジェットコースターかと見紛うほど、急勾配を下っていくな… 

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耳がキーンとするのではないかというほどの急降下で、市役所前駅まで戻った。国際通りでお土産を買う。主にちんすこうをチョイスする。なぜなら私の好物だからだ。特に塩ちんすこうが好物なのだ。ちなみに、昨日ホテルで飲んださんぴん茶(ジャスミンティ)も、かなり気に入った。

ここからはまたモノレールに乗って空港に戻るのだが、一駅だけ歩いて旭橋駅から乗車することにした。
なぜなら、旭橋駅の前に『那覇駅跡』が一部かたちを残しているからだ。

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かつては沖縄県営鉄道が存在し、那覇を起点として3路線が発着していたということだ。

“ 1945年3月には戦争の激化で完全に運行を停止し、その後の連合国軍上陸によって鉄道施設は破壊された。 ”

鉄道の痕跡はこれくらいしか残っていないが、今でもこの地にはモノレールの駅とバスターミナルが存在している。ここが交通の要衝であることには、変わりがないのだ。

土日を利用した強行軍の旅だったが、バラエティに富んだ体験ができて有意義だった。そしてなによりも、この地を走ったことで私が目標にしていた「日本全国47都道府県すべてで走る」ことを、ついに達成したのだ!
私は充実感を身体全体に感じながら、成田空港行きの飛行機に乗り込み、帰途に就いた。

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もちろん、明日もいつも通りの仕事が私を待ち構えている。

休日という日常と日常の間のちょっとした境目に、非日常である『旅』を差し込む。そこで旅先に『走る』という日常の行為で接続することによって、暮らすようにその地を感じ取り、非日常を「ちょっと変わったかたちの日常」に変換するのだ。

結果、私の日常は限りなく豊かになっていくのである。

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【追記】
この連載は、次回 ”episode47" で最終回となります。
中止になって参加が叶わなかった軽井沢マラソンを走る日が来るまで長野編は取っておいたのですが、どうやら間に合いませんでした。しかし、間に合わなかった状況そのものを、私なりに記述して終わりにしたいと考えております。


次回予告



~ 軽井沢で『マラソン』を走る ~

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