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下関で『海峡』を走る " 旅先で『日常』を走る ~episode43~ 山口編 "


前回のあらすじ

太田で『足跡』を走る

" 今朝の出来事のように、テーマを決めて世界中で同時多発的に繋がることによって、我々は『オンライン』と『オフライン』の中間的な体験をしているのだ。"


下関で『海峡』を走る



2019年10月8日。九州を旅行中だった私は、熊本から長崎・佐賀を経由して前夜は福岡に宿泊した。元々はラグビーW杯の試合を熊本で観戦するために、半年以上前から計画を立てていた。そこに、たまたまこのタイミングで転職することになったので、有休を使って4泊5日を掛け九州北部から山陰地方まで上る旅程を組んだ。

旅行3日目の今日は、前泊地の福岡市内から大分を経由して、深夜に下関に到着した。

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博多→下関間は新幹線を使えば1時間も掛からないし、最短距離で各駅停車を乗り継いでも2時間足らずなのに、なぜそんな遠回りをしたのか? なぜなら、大分に暮らす友人(H氏)と一緒に走る用事があったからだ。ちなみに当時は互いの存在は知っていたが特に面識といえるほどのものはなく、いきなり私が前日に連絡して大分まで押し掛けたのだった。

詳しくは、こちらのnoteを参照されたい。

H氏にはずいぶん不躾なお願いをしてしまったのだが、前日になってそんなことをしてしまったのには、じつは理由がある。
本当は、この日は大分ではなく小倉に寄るつもりだったのだ。10年来の旧友『ラビ』に会うために。

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2009年の4月10日くらいのことだったと思う。私は、休日の夕方にPCでニコニコ動画を観ていた。
皆さまから見れば、特に変わった過ごし方ではないと思われるだろう。 しかし当時の私からすれば、休日のその時間帯に起きて活動していること自体が、とても久しぶりのことだったのだ。

当時は新卒で入社した会社に勤めており、5年ほど前から地区マネージャーを担当していた。仕事は激務だったが、とてもやりがいを感じて仕事に励んでいた。しかし代償として、前年は公休を年間で20日を切るほどしか取れず、ここ3〜4年は貴重な公休日にひたすら28時間くらい寝だめをすることが常だった。

そんな生活を繰り返してるうちに、さすがに心身ともに変調をきたした。結果として、この4月からようやく業務の負担が他人の1.5倍くらいに減り、週1回くらいの公休を取れるようになった。

前置きが長くなったが、こういった状況下で、私は久しぶりにリラックスした休日を過ごしていたのだ。

その日私はニコニコ動画で、日課にしている『アイドルマスターMAD動画巡り』を楽しんでいた。ふと、画面の右上に『ニコニコ生放送』という文字を発見し、試しにクリックしてみる。そこに『ユーザー生放送』というカテゴリーを見つけた。

niconico公式で生放送をやっている事は知っていたが、ユーザー自ら発信できるようになっていたとは、この時初めて知った。今でこそ誰でも簡単に動画配信できるようになったが、当時はほとんど見当たらなかったので、どんなものかと私は単純に興味を持った。

ひとまず、アイドルマスターMADのリクエスト(JAZZ縛り)を流す放送を見つけ、観に行った。

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夕陽が部屋に差し込む中、PCからまったりしたJAZZが流れてくる。すっかりいい気分になって、冷蔵庫からビールを取り出して飲む。ついでに、自分のマイリストを漁って、動画をリクエストをした。すると生主の方は放送を延長してまで、私のリクエストを流してくれたのだ。

これで一気にニコ生の楽しさにハマってしまった私は、一方的に観るだけでは飽き足らず、一週間後には自分のコミュニティで昭和のプロレス動画を流す放送を開始した。

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さらにその翌月には、ひょんなきっかけから『おっさんホイホイ』系のリクエスト動画を流すコミュニティで、代理の生主を務めることになったのだ。

そのコミュニティは、Tさんという生主の主宰で放送を毎日続けていた。平日はTさんが19時〜24時くらいまで放送するスタイルで、深夜と土日の枠を『代理主』と呼ばれる10名くらいのメンバーで順番に回していた。この放送はニコ生初期の中ではかなりの人気放送になっていて、常連の視聴者も含めて20名ほどが参加するSkypeグループがあった。

そこで、私ははじめてラビと出会った。年が一緒だったことと、ラビが住んでいる福岡県には私もかつて住んでいた縁で、すぐに仲良くなった。オフ会で上京してきた際には一緒に風呂に入り、一緒に浴びるように酒を飲んだ。そして、酔い潰れたラビを私が介抱したこともあった。

出会いはオンラインだったが、少なくとも私にとってはラビは大事な友人だ。

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ずいぶんと説明が長くなって恐縮だが、下関駅を出て通りを3分ほど進み、本日の宿に到着した。

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翌朝は、前日の大分での深酒もなんのその。私は6時に起きることができた。朝に強い私。
さっそく着替えて、走る事にする。目的地は関門海峡だ。

ホテルの正面玄関を出て、駅とは逆方向に幹線道路沿いをまっすぐに進む。そのまま、Googleマップの案内に従って10分ほど進み脇道を右に入ると、港にたどり着いた。

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港には船が停泊しているが、まだ早朝だからか人気はまったくない。しかし下関はフグが有名な漁港である。この時間ならもっと賑わっていても良いのではないか?

そんな疑問を抱きながら、海沿いの道を進む。10月の朝は日差しもそれほどにはきつくなく、快適に走り抜ける。

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そのまま誰もいない海沿いを進んでいくと、海の向こうにある山の奥から、朝日が登ってきた。

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山の他に障害物はなく、東京で見る朝日より二回りくらい大きく見える。その光景にすっかり見とれてしまったが、先に進もう。これから市場まで行って、鮮魚尽くしのブレックファーストを決め込みたいのだ。

右手に朝日を眺めながら、港を走り続ける。すると、市場に行き当たった。

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まるで人気がないが、なおも進んでいく。

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中まで入って確認したところ、残念ながら本日は水曜日。休市だった。

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特にフグを食べたいわけではなかったが、こんなにもフグのオブジェだらけだと、なんだかとても損した気分になるから不思議だ。

そういえば、こんなことを思い出した。

私が高校時代に自室で友人たちと麻雀をしている時に、私以外の家族全員が私に無断でフグを食べに行ったことがあった。今考えると、軽い虐待ではないか?

あれ以来、私とフグの関係性は最悪なのかもしれないなと、少し思った。

フグのことは一旦忘れてさらに海沿いを進んでいくと、目の前に関門大橋が見えた。

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1998年、私が福岡に赴任していた時の記憶の扉がふと開いた。

東京に戻る辞令を受けていた私は当時の上司に無理を言って、近隣の店舗への同行巡回に連れて行ってもらったことがあった。上司が運転するシーマに同乗し、福岡市をスタートした。小倉を経由し山口県の小野田まで向かう途中で、関門大橋の展望台を兼ねて作られたような食堂で、ランチを摂ったのだった。

なんてことを思い出しているうちに、関門大橋の右側まで日が昇ってきた。

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眩しい日の光を浴びながら、10年前の旅の記憶がよみがえってきた。
関門海峡の向こうは九州だ。明治時代に隆盛を誇り、歴史ある洋館が立ち並ぶ観光地である、門司港がある。

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私が参加したニコ生の大手コミュはしばらく順風満帆に進んでいたが、8月頃になるといろいろな事情が重なり、それまで毎日継続させていた放送もままならなくなった。そんな中私は、放送に穴が空いている日は遅い時間に帰宅した時でも枠を取り、無理やり放送を継続した。しかしコミュ主であるTさんの決断で、9月をもって放送は終了となった。

それでも、一部のメンバーでの交流は残った。Tさんは8人のメンバーで新たなSkypeグループを作った。なんとか残ったメンバーだけでも以前のように親睦を深めることはできないか? と各自が心を痛めていた。特にこのコミュの中では年少組だった私やラビなど数名は、チャットで夜な夜な意見を交わしていた。

ある夜、年少組のひとりであるジジから個別メッセージが届いた。「我々の関係を繋ぎ止める策がなにかないか?」という相談だった。いろいろと話し合った結果、オフ会を決行することにした。場所は、ラビが住む福岡県北九州市に決めた。

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11月の土日を使って、7人の参加者が空港に集合した。ここでラビと合流するのだが、じつはラビには隠していることがあった。ラビにはジジがひとりで会いにいくという話をしていたのだ。サプライズを仕掛けたということだ。参加者の中には、待ち合わせの際にばれないように運転手のコスプレをするメンバーまで現れた。なかなかの凝りようだ。

実際、サプライズは大成功した。その後はラビに案内してもらうかたちで、福岡県内1泊2日ツアーを行った。その行程の中に門司港が含まれていたのだった。

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門司港のレストランで、名物の『焼きカレー』をみんなで食べたり、あるメンバーのリクエストによって、閉館直前の鉄道博物館をダッシュで回ったり。とても楽しく、忘れられない旅になった。

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移動中の車内では、私とラビ・ジジに運転手(コスプレも)のニマスを加えた4人で同乗した。車中でも笑いが絶えずとても盛り上がった。こんな楽しい日々がいつまでも続けばいいな、と心から思っていた。

しかし、このコミュニティからは一人またひとりと離脱していき、翌年の春には崩壊してしまった。その後、ジジとニマスにはなんとか連絡先をつなげることができたが、ラビとは自然消滅になっていたのだ。

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今回九州を旅することにして、真っ先にラビと10年ぶりに会いたいという気持ちが芽生えた。思いつく限りの連絡先からアプローチを試みたが、返答はなかった。なにしろ10年も音信不通なので、連絡手段がSkypeとmixiに携帯のショートメールだけだ。今のご時世、こんな繋がり方ではまともに連絡が付くわけはない。

今回の旅にあたりジジとニマスに連絡して「ラビと連絡つかないか?」 聞いてみたが、二人とも「わからない」とのことだった。「電話したらつながるかも」とはアドバイスされたが、オンラインで繋がった経緯によるものなのか、その勇気はわかず音信不通のままになった。

本州側から向こう岸を凝視したら、もしかしたらラビが岸壁に立ってるのではないか?とバカなことを考えたりしたが、もちろんその存在を確認することはできなかった。

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まあ、仕方ない。生きていれば、そのうちまた会う機会もあるだろう。今回は諦めて、宿に戻ろう。

踵を返して、来た道を戻る。

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早朝特有の凛とした冷気を全身に浴びながら私は港を後にし、駅の方角に向かって走った。

8時過ぎにホテルをチェックアウトし、下関駅に向かった。次の目的には正午には着いていないとならないのだ。
各駅停車に乗り込み、シン・山口駅に向かった。

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1時間ほどで、シン・山口駅に到着した。山陽本線上に山口駅がないという理由でシン・山口駅を名乗っているが、この駅は元々は小郡駅という名称だった場所だ。なんだかいまだにこの駅名には慣れない。

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駅コンコースはいかにも『新』といったイメージにリニューアルされている。「これでもか」とばかりに駅前通路の両脇に緑が密集している。

私は緑の中を分け入って、バスターミナルに移動した。

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ここから1時間半ほど高速バスに揺られて、萩に向かうのだ。

松下村塾でお馴染み、吉田松陰ゆかりの地。萩の地に降り立ったのは、ちょうど正午を迎える頃だった。

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屋敷の跡地的な一帯に、夏みかんの実が成っている。じつは、萩の名物・夏みかんは、明治以後に東京に移住した萩の上流階級の住居跡地を利用して作られているということだ。風除けのために石垣は撤去されることなく残され、そのことも追い風になって、この地は世界遺産に認定された。
ちなみにここまで、すべてブラタモリで得た知識である。

蘊蓄はさておき、目的地に向かおう。12:30に、橋下川の川辺にある広場で待ち合わせをしているのだ。Googleマップを起動し、住所を入力してナビに従い進んでいく。

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しかし、どうやらGoogle先生はご機嫌斜めのようだ。指示通りに動いても民家の裏庭に出たり、川に侵入できないように金網でバリケードが張られている場所まで走らされたりと、最悪の行動を強いられた。

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遅刻しそうなので、ひとまず相手先に電話を掛けることにした。礼儀正しい私。電話口にはおばちゃんが出た。受付の方だろうか? おばちゃんに事情を説明し、担当者に取り次いでもらえるようにお願いした。そこで、予想外の反応が返ってきた。

「私が今日の担当者です。」 ああ、このおばちゃんがインストラクターの方でしたか。これはかたじけない。じつはこの後、橋本川をカヤックで下るツアーに申し込んでいたのだ。

私はおばちゃんにGoogleマップを見て今いる場所を告げ、待ち合わせ場所までの進路を聞いた。しかし受け答えがいちいち呑気すぎて、いまいち要領を得ない。
仕方ないので、おそらくこっちではないか? という方角へ歩みを進める。しばらく進むと、川辺に降りる階段があった。

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川沿いの舗装された道を進む。進んでいくうちに舗装路は芝生に変わり、広場に出た。一面に広がる緑の絨毯の先に、一台のバンと一人のおばちゃんが佇んでいた。

どうやらここが待ち合わせ場所のようだ。

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呑気なおばちゃんは、バンの屋根にくくられているカヤックの紐をゆっくりとほどき、カヤックをゆっくりと地面に下ろした。すでに待ち合わせ時間は過ぎている。「先に下ろしとかんのかい!」と、心の中で突っ込んだ。

おばちゃんに代金を支払い、注意事項を聞き、いよいよカヤックに乗り込む。シートのポジションを調節する際に「このポジションで良いか?」と質問したが、おばちゃんは興味なさそうに「いいんじゃね。」的な返答を返してきた。

先行きが若干不安ではあるが、川下りスタート!

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まずは川の流れに沿って、下っていく。と思いきや、「まずは川を遡上するけんね。」とのことだ。意外に川の流れは早い。おばちゃんは後ろを振り返ることもなく、サクサクと進んでいく。置いて行かれたらたまらないので、私もパドルを海面に鋭角に力強く突き刺してなんとか付いて行く。

しばらく上っていくと、もう一本の流れと合流する。その流れは河口につながっているらしい。満潮の時間帯なので、潮の流れがこちらに逆流してくる。このあたりは、けっこう流れが入り組んでいてパドル操作が難しい。

方向転換に手間取っていると、おばちゃんがまるで心の中で舌打ちでもしているかのような冷酷な表情で、「こっちのパドルをこうしてこうして、こうしなきゃダメじゃろが。ボケ。」的な暴言をちょいちょい挟んでくる。

自動車を運転すると人格が豹変する人は見たことがあるが、水上でこうなる人にははじめて遭遇した… おっかない。
すっかり心が折れメソメソしながらおばちゃんの進む先を必死に追いかけて行くと、だんだん川幅は狭まっていき、水門の手前で行き止まりになった。

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「ここにカヤックを停泊して、陸に上がるじゃけい。」と、おばちゃんは言った。

高さ2mくらいの石垣をスパイダーマンみたいな姿勢でよじ登り、道路に出た。ここからは街歩きだ。「ちょっと、歴史ある萩の街を案内するじゃけえの。」 先ほどまでの海賊的な佇まいから一転して、おばちゃんは呑気なキャラに戻った。

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石垣や白いなまこ塀などが、幅が狭い道の両脇に真っ直ぐに伸びる。江戸時代に整備された道がそのまま残っている。

観光客の姿もチラホラと見える。

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目的を持たずに街をブラブラするだけでも楽しい。

おばちゃんが足を止め、「ここが高杉晋作の旧居じゃけん。」と教えてくれた。100円くらいの入場料を払って、入ってみた。まあ、入ってみても晋作本人がいるわけではないので、普通の古民家見学だった。

そのまま萩の街を一回りする。

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幕末は長州藩が活躍し、現在に至るまで多数の首相や政治家を生み出したのも納得の、風格のある街並みだ。もっと世界にこの独自性をアピールすべきだと思う。
少なくとも『山口の小京都』を名乗るのは金輪際やめた方がよい。その座は津和野に任せよう。

ちなみに、ここに来るつい先日まで働いていた会社の創業者は吉田松陰のトップオタで、松陰神社に多額の寄進をしていたそうだ。また、その前に働いていた会社では、萩の漁港で水揚げされた鮮魚を石見空港から羽田に直送し、その日の夜には首都圏の店舗でお客様に振る舞っていた。

意外に、私と萩の接点は多かったのだ。

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萩の街をひと回りしたところで川に戻り、カヤックに乗り込んで元来たルートを戻る。今度は川の流れに沿っていけばよいので、スイスイと進む。おばちゃんの逆鱗に触れることもなく、穏やかなひと時を過ごした。

スタート地点に戻ると、おばちゃんは河原でコーヒーを淹れてくれた。

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ごちそうさんです!

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陸に上がったら呑気なおばちゃんだ。そのままバンに同乗させてくれて、萩駅まで送ってくれた。懇切丁寧。至れり尽くせりだ。

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駅に着いたのは良いのだが、列車が到着するまで40分ほどある。そういえば、ランチを摂っていないことに気付いた。なにか軽く食べようと、駅前をフラつく。
なんと、コンビニも食堂もない。それどころか、開いている店が一軒もない。

しかも無人駅である…

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 あきらめて駅のホームで列車を待ち、島根県に移動しよう。

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島根県では、次の待ち合わせがあるのだ。


次回に続く…



次回予告

松江で『湖』を走る



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