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熊本で『過去』を走る " 旅先で『日常』を走る 〜episode 3〜 熊本編 "


前回のあらすじ

京都で『歴史』を走る

“『観光しない京都』を読んで、旅先でも暮らすように走るという喜びを覚えた。そして京都を走ることによって物理的に歴史に触れると言う楽しみを獲得したのだ。”



熊本で『過去』を走る

今回のテーマは、『過去』を走る。
かつて暮らしていた土地で走ることによって、過去の自分、そして今現在の自分と向き合う。
このランの面白さは、歳を重ねるほど得られる収穫が多くなるという点にある。若さの特権と引き換えにこんな豊かさを手に入れられるのならば、歳を重ねるのも悪くはないなと心から思う。

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 ・1997年の熊本

忘れもしない1997年3月1日朝10時。電話のベルが鳴った。もちろん私はまだ微睡みの中にいた。いつもならスルーするのだが、なぜかその時に限って私はノソノソと起き出して受話器を取った。

電話を掛けてきたのは4月から入社が決まっている会社の人事採用責任者であった。話を聞くと「4月から熊本に行って欲しいんだ(笑)」という内容であった。(笑)というのは、まだ寝ぼけていた私の被害妄想に由来する幻聴なのだろうが、とにかく生まれてから1度も実家を離れたことのない私が、4月から社会人になると同時に熊本に移住しなければならないようだ。

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困ったことに、当時の私には将来を約束した婚約者がおり、彼女も4月から超大手企業に就職が決まっていた。さらに、家庭の事情から彼女も実家を離れる事は困難だった。
なんとかこの徴兵じみた事態から逃れられないかと様々な考えを巡らせたが妙案は思いつかず、結局予定通りに慣れない熊本に赴任することになった。
取り急ぎ彼女のお父様にご報告すると「熊本といえば加藤清正だな」などと要領を得ない返答であった。

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泣き言ばかり言っていても事態は改善しない。気を取り直して熊本という慣れない土地で、社会人という慣れない役割に自分を適応させていく。赴任先は『荒尾シティーモール』。三池炭鉱が閉山した後に作られた、第3セクター絡みのショッピングセンターだった。
その建物のレストラン街に我が社のとんかつ屋が出店し、なんと私がそこの店長に任命された。当時、会社の方針として年間90店舗の出店を目指しており、否応なく社員=店長となる。もちろん店長としての教育は、店長になってから行われるのであった。

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店は4月25日にオープンし、ゴールデンウィークと重なったこともあり大盛況だった。しかし、5月も半ばになると建物の人出も急速に減少し、お店も閑古鳥が鳴く事が多くなった。何しろ炭鉱が閉山し景気は最悪で、人口の流出も激しかった。地域全体が廃墟になりかけていた。
膨大な手空き時間に、私はただひたすら客席の窓の外に見える三井グリーンランドの観覧車を眺めるだけだった。

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職場は荒尾だったが、住まいは熊本市内の水前寺駅前の新築マンションだった。毎日、片道1時間40分かけて通った。
行きは良いのだが、閉店まで仕事をしていると荒尾駅までの帰りのバスが全て終わっていた。なので、否応なくタクシーを呼ぶことになる。(ちなみにタクシー代を申請すると店舗経費になり赤字が膨らむので、すべて自腹で処理していた。)

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人口数万人の小さな町なので、来てくれるタクシーの運ちゃんは大体同じ人になる。乗車している時間は10分足らずなのだが、しょっちゅう乗っているとお互いの境遇の話もしたりして、まあまあ親密になる。
そのうち、電話でタクシーを呼ぶと2分ぐらいで現れるようになる。聞くと「そろそろ仕事が終わる頃だと思って近くで待ってたよ」という。我々の目に見えぬ連帯感はそのくらいのレベルにまで育まれていた。

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タクシーの運ちゃんだけではなく、熊本で出会った人たちは1人残らず善人ばかりであった。帰宅途中に家の近くで寄った熊本ラーメンの屋台のおっちゃんは、私の境遇に同情してか「俺の弟子にならないか?」と嘘だか本当だかわからないが、そんなことを提案してくれた。

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また、自宅の1階にあった『ミカレディ』という名の美容院に行くと、店長さんを始め皆さんとても暖かく接してくれた。いつも担当してくれる美容師さんは、名札に“水野“と書いてあった。
美容室からマンションのエントランスまでは5歩くらいの距離だが、雨降りの日には傘を差し出して送ってくれた。「大野さんが来るのは雨の日が多いですね」と指摘された記憶がある。そういえば、若い頃はかなりの雨男だった。

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月に1度ぐらいしか休みがなかったが、貴重な休みの日には路面電車に乗って下通りに繰り出した。パルコとかダイエーで買い物をしたり、コンビニでビールを買って熊本城の堀端に腰を下ろして日向ぼっこをしたり。

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あとは近所の水前寺公園に行ったり。TV番組の撮影をしているコロッケ(熊本出身)に遭遇したこともある。そういえば、当時熊本県では2年後に国体を開催することが決まっており、街中では森高千里(熊本出身)が歌う国体のテーマ曲がリプレイされていた。

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その後9月に福岡県内の店舗へ異動になったが、あまりにも熊本が気に入っていたので、12月半ばまで熊本市から福岡県春日原市に片道3時間近くかけて通うという離れ業をやってのけた 笑。

それくらいに、私は熊本という土地がすっかり気に入っていたのだ。東京で生まれ育った私にとって、熊本は社会人になってようやくできた『ふるさと』のような存在なのかもしれない。


  ・その後の熊本との関わり

ようやく九州にも馴染んで、あと10年くらいいてもいいなと思った矢先の1998年10月に、東京に戻ってこいと辞令がおりた。

東京に戻った後も、折りに触れ熊本には足を運んだ。
北九州に出張したついでに翌日代休を取り荒尾に寄ったり、父の還暦祝いで行った家族旅行で父と二人で熊本城に登ったり。はたまた、いろいろあって40歳の誕生日を熊本で迎えたり。

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——

2016年4月14日、『熊本大分地震』発生。最大震度7。自宅でも少し揺れを感じたほどのレベル。しかし本震はその2日後、奇しくも私の誕生日だった。

その年の9月、縁あって福岡に用事ができ、翌日熊本まで足を伸ばした。
覚悟していたつもりだったが、想像していた以上の惨状。駅から乗ったタクシーの運ちゃんの口からも弱気な言葉しか出てこなかった。

熊本市内の家屋やビルには軒並み赤紙が貼られ、熊本城の石垣はもう積み直せないとのではないかという位に崩れていた。正視に耐えない。思わず涙が溢れる。

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その後も何回か熊本には足を運んだ。私は無力で何も力になることはできないが、こうして頻繁に足を運び少しでもお金を落とすことが今後の役に立つのではないかと感じたからだ。
震源地である阿蘇にも足を運んだ。高森の駅や白川水源を巡った後、阿蘇神社に行こうとタクシーを呼んだ。

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タクシーの運ちゃんは崩落した阿蘇大橋に案内してくれた。被災地のセキュリティーは脆弱で、あと一歩踏み出せば奈落の底に落ちると言う所まで足を踏み入れることができた。


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何も言うことはなく、手を合わせるのみ。

そして2019年、ラグビーワールドカップが熊本にもやってきた。高校時代にラグビー部だった私は、ぜひ日本で行われるワールドカップの試合を一目見たいと願った。
最初は熊本で見るつもりはなかった。しかしネットでチケットを取ろうとしたら、熊本と大分の試合しか10,000円のチケットは残ってなかった 笑。という次第で、私は熊本でラグビーワールドカップの試合を見ることとなった。


  ・過去の自分と対話するラン

2019年10月6日、朝一の飛行機で熊本に到着した。前日をもって職場を退職してきたがそれはまた別の話。あちこち寄り道したが、昼ごろに熊本城に到着した。まずは加藤神社へ参拝。これは、ここ数年の恒例。去年は初詣までしたのであった。

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続いて、二の丸広場で開催されている書道イベントを冷やかしながら、熊本名物桂花ラーメンで軽いランチをとる。今日は栄えあるワールドカップの試合当日。外国(ほとんどフランス人)からの来訪者と、地元の様々なよくわからない団体の方々が交流している。

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そしてこの旅のメインイベントの一つ目、『熊本城特別公開』。

2019年秋、震災から3年半ぶりとなる熊本城の公開を一部再開します。

復旧が進む熊本城天守閣の大天守外観復旧を記念して、特別公開第1弾を 2019年10月5日(土)からスタートします。


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震災以来閉鎖されていた熊本城天守前広場まで足を運ぶことができた。



目的をひとつ成し遂げて心に一区切りつけたところで、メインイベントふたつ目。この連載は旅先で走るをテーマにしているので、そろそろ走るとする。

スタート地点に向かっていると、JT主催のゴミ拾いイベント的なテントが目に入った。さっそくゴミ袋とゴミ拾い用トングを預かり、ランニングのお供とすることにした。

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桜町バスターミナルに着いた。5階建ての立派なショッピングモールが併設されている。ワールドカップの開催に合わせて、再開発を急ピッチで進め間に合わせたのだそうだ。これからは熊本市街の中心地はこのあたりなるのだろう。

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出来立てのバスターミナルのトイレで着替え、新品のコインロッカーに荷物を預け、さあ出発だ。

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まず向かうのは馴染みのルート。新市街のアーケードに入る。土曜の昼下がりといえそんなに人通りは多くない。郊外に大きいショッピングセンターがいくつかでき、古くからの繁華街だったこのあたりは20数年前と比べ、すっかり寂れてしまったのだ。

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左に曲がり、下通りに入る。私が住んでた頃にはなかったスタバが見える。そのまままっすぐ進む。悲しい位に走りやすい。

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しかし休日で暇を持て余しただろう中高生たちの姿がちらほら目に付き、安心した。昔よく晩飯の材料を買ったダイエーはイオンに建て替えられ、初めての一人暮らしで必要となったいろいろな小物を買いに行ったパルコには、閉店告知が出ていた。

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そういえばゴールデンウィークに婚約者が熊本まで来てくれたのだが、仕事が忙しすぎてろくに相手ができなかったことを思い出した。夜中の1時から3時位までしか相手をできなかったので、お店のバイトに「水前寺の駅近くで夜中に営業していて美味い店はないか」とリサーチして、焼き飯(西日本ではチャーハンのことをこう呼ぶようだ)屋に一緒に行った。楽しかった。

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しかし家に帰った後、いい事をしようとしている最中にあまりの疲れから眠りに落ちてしまい、気付いたら朝だった。今思い返しても申し訳ないことをした。
その仕打ちに対する報復かは分からないが、彼女が帰った後、我が家のありとあらゆる場所に『くまのプーさん』のシールがベタベタと貼られていた。熊本だけに?

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下通りを抜けたところには『通町筋』という電停がある。ここから見える熊本城の天守閣は絶品だ。熊本県民が熊本城を愛する理由の70%くらいはここからの眺めに由来するに違いないと勝手に考えている。だいぶ修復が進んでおり、安心する。

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この先は上通り。下通りが若者のための場所だとしたら、上通りはもう少しアダルトかつハイソな場所。アパレル系の路面店は主にこちらに出店する。そして、上通りの名物は『金龍堂 まるぶん店』。この建物も被災したが、無事に営業再開となった。

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走りながらまた記憶の扉が開く。ゴールデンウィーク中に婚約者と入れ違いで姉貴が熊本にやってきた。宿泊費が浮くという理由で旅先に選んだらしい。忙しい社会人である私はすかさず姉貴を焼き飯店に誘った。気に入ってくれたようだ。満足。しかし、ご満悦だったはずの姉貴はなにが不満だったのか、東京に帰った後、両親になにかチクったらしい。

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5月の半ば、営業部の上長から通達が流れた。「ある新卒の親御さんから苦情が入った。一ヶ月も休みがない新卒がいるようだが、忙しくても休みは取らせるように(棒)」。当時は人ごとだと聞き流していたが、どうやら苦情を入れたのが私の父だと気付いたのは、それから10年近く経ってからであった。

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そしたらそろそろ熊本城へ。


いつも入っていた須戸口門は閉鎖されているので棒庵坂から美術館を経由して二の丸へ。意外に上り坂キツい… お城あるある 笑。でもこちら側は緑豊かで人出も少なく快適。

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二の丸を通り過ぎたら坂を下り、城彩苑 桜の小路に。いわゆる史跡併設型のプチテーマパーク。このような施設を陳腐な観光地化であると非難する向きもあるが、それも施設のクオリティ次第だと思う。少なくとも手負いの熊本城はこの施設によって救われている部分が大きい。

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ここを越えるとゴールはすぐ先だが、その前に拾ったゴミをJTのテントに持っていく。何があったのか測り知れないが信じられないほど無愛想な担当者が、お礼の言葉もそこそこに記念品の袋をくれた、じつはこれが意外に使い勝手が良く、重宝している。

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  ・自分自身を定点観測し復興させる

昔住んでいた場所を走ることについて、私と同じくこのマガジンに執筆されている橋本大輝氏はこう書いている。

住みなれていたけど今となっては思い出が積もるのみで新しく更新されることがなくなった街で走るとはどういうことなのだろうか。それは「日常」と「日常」の接続だ。もう少し言葉を足せば「かつて日常だったもの」と「現在の日常」の接続である。

      (中略)

「地元」でのランニングは、時間的に離れた2つの日常を接続する。日常×非日常と比べ日常×日常はほとんど新たな情報をもたらさないだろう。しかし、想起させる主観的経験の蓄積という点において後者は圧倒的に豊かかもしれない。

      (中略)

時間的に離れた2つの日常の間を補完するのは、ほとんどの人にとって自然に行えるはずだ。全ての時点において、まさに自分自身が主観的経験をしてきたことが実感できる。ランニングを通して現在地から遠く過去まで任意の時点に遡って、その時の日常に接続することができるのだ。ランニングという自分にとって普遍的な物差しを持って、時間的にも物理的にも精神的にも様々なものを「測る」。

そうだ、いうなれば昔住んでいた場所を走ることを通して、自分自身を『測る』ことが可能になるのだ。そして自分自身を客観的に『測る』ことは困難なことではあるが、特定の場所をフィルターにすることによって『定点観測』となる。

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これが場所ではなく『ヒト』や『モノ』でも可能であろうが、走ることによってその場所の起伏であったり日射しや風の流れ、変わったり変わらなかったりする風景によって、過去の自分と対話しやすくなる。歩くではなく『走る』でなければならないのは、走りながら感じる速度感と、記憶がふと走馬灯のように蘇ってくるあの感じが、脳内というか体内で噛み合った時に初めて『測る』感覚を得られるからである。

そしてもう一つ気付いたこと。復興を果たしつつあるかに見える熊本で過ごして感じたこと。それは、復興とは元の暮らしに戻ることではなく、今までとは「ちょっと変わったかたちの日常」を手に入れることだということ。

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壊れてしまった物は元には戻らない。亡くしてしまった人も生き返ることはない。それでも瓦礫となってしまった過去の思い出を片付けて、我々の暮らしを続けるために新しい物を築き上げなくてはならない。それによって失うものは数知れないけれども、それでも生きていかなければならない。

時間は不可逆的に流れ、懐かしいあの日はもう戻ることはないのだ。ならば涙を拭って我々は前に進まなくてはならない。

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熊本から東京に戻って数日後、映画『空の青さを知る人よ』を観た。作中、主人公の姉である相生あかねは、高校の卒業アルバムにこう書いていた。

井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る。

人は絶望した時に天を仰ぐ。空の青さを真に知ることができるのは、絶望した経験がある者だけだと私は考えている。震災が起こった後、はじめて熊本に足を踏み入れたあの日、絶望して天を仰いだ私の目に映ったのは、抜けるような青い空だったのだ。

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どんなに辛いことがあっても『ここ』にい続けて、今までとはちょっと変わったかたちの日常を築こうとしているすべての人に幸あれと、今は心から願うのみである。



追記

メインイベント三つ目を書ききれなかった 笑。ラグビーワールドカップ『フランスvsトンガ』。本題とは逸れるので軽く触れるにとどめるが、控えめに言っても最高だった! 会場の雰囲気の良さとトンガの健闘に心を揺さぶられ、以前とはまったく違う意味で涙が溢れた。

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ラグビーはブルジョアのスポーツだということもあり、観客はみな紳士的でピースフル。試合後に下通りの路地の端々から聞こえる『ラ・マルセイエーズ』の野太い歌声が少々うるさかったことを除いては 笑。

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そしてその夜は水前寺のホテルに宿泊し、翌朝頑張って早起きして江津湖を走った。市街地から一歩入っただけでこんな静寂と自然があるなんて、かつて水前寺に住んでいた私でも知らなかった… このコースはおすすめ。 

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ちなみに江津湖の存在を知ったのはこのMVから。


次回予告

天神で『A面』を走る

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