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ランニング落書き帳#01-地元を走る-

ランニングを出汁に、次のテーマを頭の片隅に置きながら書いてみる。
・非日常の中に日常を持ち込む
・絶対的な基準を用意して未知の尺度を測る

まずは、そういえば何も基準を持たないで知らない土地に出かけることってなかなかないよなぁと思いつつ。

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僕はよく旅先でゲームセンターに行く。これは第一に気分を落ち着けるためだ。どうしても自分の知らない場所に行くとテンションが変に上がってしまう。ゲーセンにはその緩衝材として機能してもらうことにしている。

僕は高校時代から大学時代までよくゲーセンに遊びにいっていた(行かない日の方が少ないくらいに足繁く通っていた時期もある)。お目当はいわゆる音ゲーだ。代表例は「太鼓の達人」とか「ダンスダンスレボリューション」とか。あまりにも通いすぎていつの間にかゲーセンが非常に居心地の良い空間になっていったのだ。大学のサークルの部室のような、あるいは最早我が家にいるかのような勝手知ったるホーム(一番メインで利用するゲーセン)。もちろん店員とは阿吽の呼吸だしそこで知り合った音ゲー仲間とは「今日なに詰めるの?(今日の目標は何?くらいの意味)」が挨拶代わりだった。

そしてそれは通いなれたゲーセン以外でもそうだった。つまり、初めて訪れるゲーセンに対しても居心地の良さを感じるのだ。例えば喫茶店で作業をしたり読書したりすることが習慣になっている人にとって、喫茶店という空間自体に愛着を感じるのと同じような感覚だと思う。そういうわけでゲーセンは都市部・地方に関わらず割と普遍的に存在する精神的な"休憩スペース"のような場所となっている。

間延びして申し訳ないが、ここで冒頭に戻ると僕にとってゲーセンは非常にわかりやすく「非日常」の中に存在する「日常」だ。どんなに普段住みなれた街と異なった土地であろうともゲーセンに入店すれば住みなれた我が家というわけだ(場所代が一切かからないのもゲーセンのいいところ)。
さて、このシリーズではランニングに絡めた話題を提供することにしているし、今回のタイトルにある「地元で走る」にそろそろ移行しなければいけないような気がするが、その前にまず「見知らぬ土地」で走るということについて書かなければいけない。

「日常 & 非日常」 と 「ランニング & 見知らぬ土地」

改めて繰り返すが、喫茶店に通いなれている人にとって喫茶店は自分の感覚が機能する場所だし、ゲーセンに通いなれている人にとってゲーセンはやはり自分の感覚が機能する場所だ。全く同じアナロジーをランニングを趣味とする人に対して当てはめてみよう。すると次のようだ。ランニング趣味の人にとってランニングしている最中に存在する空間は自分の感覚が機能する場所だ、となる。これはこじつけに見えるだろうか。ランニング趣味かつ旅先でよくランニングする人に聞いて回りたい。この主張に賛同してくれる人は多いのではないかと勝手に期待してしまう。

実際僕は確かにそのように、つまり自分の感覚が土地と接続している感覚を感じているのだ。もちろん土地勘が全くないわけだから、時には走っているうちに帰り道がわからなくなり、コンビニに退避して道路地図を確認してことなきを得るということもあったが、それは本質的な部分ではない。
知らない土地を歩いている場合を想像してほしい。目に映るものが気になって、あるいは映らないものが気になって目をキョロキョロさせ、余所者感満載だろう。しかしなぜだか走っているとそうならないのだ。物理的な速度が速いからということもあるだろうが、重要なのはもっとずっと感覚的な部分ではないかと思っている(曖昧な表現をしているのは自分でもよくわかってないため)。
ランニングしている間に、「ランニングは日常 → 日常だから今感じている身体的経験や精神的経験もいつもと同じだ」という一種の暗示のようなものにでもかかっているのかもしれない。 このように感じること自体が本質的に意識のベクトルを転換させ、視覚を始めとするあらゆる知覚情報を変質させる。これが、土地勘のない土地で土地と繋がっている感を生み出す源だと思う。例えば僕にとって趣味でない散歩では、土地と繋がっている感覚が得られないのだ。

地元で走る

ようやく本題だ。お待たせしました。
さて、ここでこのエントリーを書いた当初に冒頭に書かれていた文章を復活させてみる。

帰省のついでに久々に十数年来の馴染みのランニングコースを走った。ちょうどいいので今回は「走る」について、自分の原点に回帰してみる。

地元で久々に走った感想を昔話に絡めて気軽に書こうと思っていただけなのにどうしてこうなった。

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気を取り直して。僕の地元は関東平野の端っこにある田舎町だ。

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新幹線の高架に沿って走っている側道がコースの大部分で、走っている時の風景はだいたいこんな感じだ。この踏切はほとんど仕事をしないし、もちろん左隅に写っている新幹線の高架はこの自治体に住環境的にも経済的にも何ら役割を果たしていない(ランナーにとっては夏場に日除けとなるので非常にありがたい存在であることは見逃せないが)。

とても長くなりそうなので昔話をするのは別の機会に譲るとして、「ランニング」と「日常」あたりの話に戻る。
住みなれた街で走るのは単なる「日常」と「ランニング」だ。知らない街で走るのは上述の通りの「非日常」の中の「日常」だ。では、住みなれていたけど今となっては思い出が積もるのみで新しく更新されることがなくなった街で走るとはどういうことなのだろうか。それは「日常」と「日常」の接続だ。もう少し言葉を足せば「かつて日常だったもの」と「現在の日常」の接続である。「見知らぬ土地」でのランニングは、ランニングを通して物理的にはなれた日常と非日常を接続する。一方で「地元」でのランニングは、時間的に離れた2つの日常を接続する。日常×非日常と比べ日常×日常はほとんど新たな情報をもたらさないだろう。しかし、想起させる主観的経験の蓄積という点において後者は圧倒的に豊かかもしれない。

物理的に離れた日常と非日常の間を補完するのは大抵無理難題だ。例えば東京に住んでいる人が大阪出張の際に走ったからといって、その600キロほどの物理的隔たり自体はほとんど面白みのある話題を提供しないだろう。
一方で、時間的に離れた2つの日常の間を補完するのは、ほとんどの人にとって自然に行えるはずだ。全ての時点において、まさに自分自身が主観的経験をしてきたことが実感できる。ランニングを通して現在地から遠く過去(僕の場合は15年くらい?)まで任意の時点に遡って、その時の日常に接続することができるのだ。

ランニングという自分にとって普遍的な物差しを持って、時間的にも物理的にも精神的にも様々なものを「測る」。今回は書きたいことが多くて話がよくわからなくなってしまったかもしれない。「測る」ことについてはまたテーマを決めて書きたいと思う。

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