ちいさな一歩
ごめんね、って言えなくて、ごめんね。
あなたは何も悪くない。
手をつなげなかった。
つなぐのが怖かった。
どうしてなのかわからない。
でもとても怖かったの。
冷たい空気の中を毎日、子犬を連れて散歩している。
柴のちび。
可愛くて。
私のことを見上げながらちょこちょこと歩いてる。
まん丸な目でまっすぐに見上げられると、きゅんとする。
まっ直ぐに私のことを信頼して、見つめて、ついてきてくれる。
この信頼にこたえることができなかったら、私は自分を嫌いになってしまうと思う。
可愛くて。
こんな気持ちは初めてだった。
毎日早起きするのも、冷たい風の中を厚着して朝の散歩につき合うのも、自由に出かけることができにくくなってしまったことも、全然苦ではなかった。
可愛くて。
冬の早朝は少しだけまだ明るさが足りなくて、きゅーんと冷えた空気にちょっと負けてしまいそうになるから、分厚い手袋をはめた手をギュッと握りしめてお腹に力をギュッと入れて冬の寒さの中に突き進んでいくような気持ちで外に向かっていく。
それも全部この子のため、そう思うと頑張ることができるの。
まん丸な目の可愛い子。
分厚いニットの帽子をかぶって、長くて分厚い手編みのマフラーをグルグルに巻いて、マスクも絶対忘れずに。
完全防備で出発をする。
ふかふかの温かいブーツを履いて足元も冷えないように。
そうだカイロも持たなくちゃ。
偶然の成り行きでこの子と暮らすことになってしまった。
この子を飼うはずだったママのお姉ちゃんが急に入院しなくてはならなくなってしまってどうしようって言ってた時、たまたま家にいた私が飼いたいっていうことができたから。
ママのお姉ちゃん、きみちゃんは結婚していない。子どももいない。ずっと一人で働きながら暮らしてる。相棒が欲しくなったから、って言ってこの子を知り合いからもらって一緒に暮らそうとしていた矢先に病気が見つかってしまったのだという。
入院期間は長くないけど、その後の経過は今はまだわからない。
だからこの子のお世話をできるのかということも今の段階ではわからなくて先のことが予測できないということも手放そうとしている理由なのだと話していた。
私が飼いたいと言った時ママが反対しなかったのは人間関係がどうしてもうまく行かなくて悩んだ末にちょっと前仕事をやめてしまっていたからだった。
やめるのをママに止められなかったのは、悩んでいた時の私があまりにも辛そうで見ていることができない程苦しい気持ちにママ自身がなってしまっていたからだった。
眠れない、食べられない、涙が止まらなくなってしまう。
こんなこと初めてだった。
後で聞いたのだけれど、やめる原因になった難しい人は今までも何人もそうやって誰かを困らせていたのだということだった。
それでもその職場では必要な人だからみんなも何も言えなくてそのままそこにいるということだった。
私自身がもっと大人でしっかりとしていたら違っていたのかもしれないのだけど、もう終わってしまったことを言ってみたところでどうなるというのだろう?
今できることはこれからどうしていくかだけ。
そういうふうに考えてまずちゃんと眠ること、食べること、朝起きて夜眠ること、身の回りの物やことをきちんと整理していくこと。
そういう事のひとつひとつを丁寧にしいていくことで本当に壊れてしまわないように自分自身を大切にしいていこうとしていた頃のことだった。
可愛かった。
今も可愛い。
まん丸な目で見つめられると心がじんわり満たされていく。
こんなこと初めてだった。
私には兄弟はいない。
ペットを飼ったこともなかった。
ママはずっと仕事をしていてそれどころではなかったし、パパも特別動物好きではなかったし、二人とも忙し過ぎた。
ほったらかしで育った割にはいい子になった、それがママの方のおばあちゃんときみちゃんがいつも私を評していう事だった。
ママは仕事をやめるまでの私のことが心配で少しやせてしまった。
そのことが私の心もつらくさせていて、苦しいと思っていた矢先のことだったので、この子を飼うことに反対をする人はいなかった。パパもママと私を気遣ってくれようとしていたけれど具体的にどうしたらいいのかわからなかったみたいで、困ってたらしかったから。
今、完全防備のグルグル巻きでこの子と散歩していると、何もかも全部のことが夢の中のことのように思えて、ただ冷えた空気の中で凍えそうになりながら白い息を吐きながら歩いている今の現実だけが本当で、傷ついてしまったことや今でも時々自分を責めていることがなんとなく必要のないことのように思えてきて救われていくのだった。
それにしても寒いな。
冬の朝の冷たさ寒さをあらためて実感する。
働いていた時はこの時間のこの寒さを体験することはなかった。
今頃はいつも布団から出るのがつらくて、職場のことが怖くなってしまっていて苦しい気持ちと戦っていた。
こんな寒さがここにあり、こんな気持ちになるなんて想像することもしないで。
人の立場で考えたり行動できるようになれっていうけれどそんなのは無理だろうと理屈ではなく思うのは、こうして身近に存在していることや物でも知らないことが沢山あることに気が付いてからだった。
知らないまま、自分はちゃんとやっていると思いながら生きている。
人間なんてほんとは大したことなくて、たまたまどうにかなっているだけのささやかでちっぽけな存在なのかもしれない。
そんな考えたところでどうにもならないことを頭の中に浮かべながら私はちびと散歩していた。
すれ違う人がいる。
この時間あんまり人は歩いていない。
そのことも私がこの時間をちびの散歩に充てている理由でもあるのだけれど、それでも毎日すれ違う人がいた。
その人は自転車に乗っている。
川原の道を向こう側から自転車に乗ってやってきていつも大体同じところで私とすれ違っていく。
寒いからその人も帽子とマフラーと手袋をしているのだけれど、マスクはつけていなかった。
白い息を吐きながら自転車を漕いでいく。
寒くないのかな?
そう思ったことがある。
マスクをつけているだけでかなり温かさが違う。
自分自身がこうして毎日寒さの中を歩いてみてそれがよく分かった。
歩くと温まるというけれど、これほどの寒さの中ではとにかく熱を逃がさない工夫をしていなければ凍えてしまうような気がする。
そのくらいこの時間の外の気温は想像以上に低いし、体感する空気の温度は低いと思う。
一番寒い時に歩くことないのに。
ママが一度つぶやいた。
聞こえないふりをしてこの時間に歩いているのは、本当は仕事をしていないことが後ろめたいという気持ちもあるからだと思う。
それがわかっているからママも我慢して止めないでいてくれる。
パパに言われたらしい、「ちびのおかげであいつ元気になってきたじゃないか」って。
二人とも心配してくれている。
そしてどんなふうに私とつき合えばいいのか本当は迷ってて悩んでいるということもわかるから、だから今ちびがいてくれて本当によかった。
ありがとうって思うよ。
ちびはなにも知らないで冬の寒さの中を無邪気にとことこ歩いている。
時々私を見上げながら。
今日もまたあの人とすれ違った。
やっぱりマスクはつけていない。
ほっそりとした輪郭の背の高い人だった。
自転車もすっきりとしてほっそりとしたママや私がのっているようなものとは違っていた。
長細い大きなリュックを背負っている。
長い距離を自転車に乗って職場か学校に通っているのかな?
そんなふうに思っていた。
やっぱり男の人は体力があるんだな。
自転車で目的地に着くことはできるだろうと思うけど、その後仕事も勉強もすることになるのだしそれを毎日繰り返すのはなかなか大変なことだと思う。
とりあえず私にはできない。
今こうしてちびと毎日外に散歩に出ているけれどそれだって仕事をしないでいるからで、働いていた時は仕事以外のことをする体力はなかった。
気力も体力も仕事で全部使ってしまって残りの時間は体と心を調整することだけで精一杯だった。
そして結局つぶれてしまった。
ふと空を見上げてみる。
薄水色の寒そうな空の中にほそいほそい三日月が消えそうな色で浮かんでいる。
なにもかもが薄いはかない色でそこに存在していて、少しだけ哀しいような気持ちになった。
けれども高く広がる空は心をふわっとひろげてくれて心は空に溶けて行き、体の中に積み重なっていた何か重たくて嫌な感じのするものを外側に解き放ってくれた。
はーっと大きく息を吐いてみる。
急にマスクをはずしたくなった。
マスクを外して息を吐いたら、白い息がふわーっと私の前に広がって、空気の中に溶けていった。
心地いい気持ちがした。
自分では気づかずに息をつめて生活していたんだ。
そんなことにも気づけずに目の前のことをどうにかしようとしてやみくもに必死になってしまっていた。
本当につらかった。
どうすることもできなくて。
いつもすれ違う人と最初に言葉を交わしたのがいつだったのか覚えていない。けれども毎日すれ違い続けているうちになんとなく気になって、なんとなく目で追うようになっていた。
声を掛け合うようになってみると、彼はとてもやさしい人で少しだけ不器用だけどあたたかい心を持っている人だと少しずつ分かっていった。
まだ外の空気は冷たい。
でも少しずつ春に近づいてはいっている。
川沿いに植えられた桜の枝につぼみのもとが小さく小さくあらわれていて膨らんで開く日を待っている。
日差しをきらきら反射しながら川はさらさら流れて行く。
いつまでもおんなじままのものはない。
頭ではわかっていても心でも受け入れることができるようになるためには、時間がかかるものなのだということが自分自身がそういう立場になってみてはじめて実感できた。
そのことは私には必要なことだった。
「頑張ってるな、自転車通勤」
同僚に話しかけられた。
ひと月前から電車をやめて自転車で通っている。
本当の理由は誰にも話していない。
たぶんきっとこれからも誰にも話さないだろう。
最初は正直きつかった。
けれども苦ではなかった。
今はかなり慣れてきて体の調子がいいような気がしている。
実際働きだしてからゆるんでしまった筋肉が段々しまってきていて身のこなしがよくなったような気がしている。
気のせいなのかもしれないけれど。
「健康のためって言ってるけど、電車に乗るの嫌だからなんじゃないかって言ってるやつもいたぞ」
「いやそんなことないけど」
「まあ、今電車に乗るのみんなほんとは不安なんだろうしな。いろんなこと言うやつがいるけどあんまり気にしなくてもいいよ」
「ああ、」
適当にうなづいてしまったのだけれど、本当の理由は別にあった。
だけどそれは誰にも言わない。
いう必要もないと思う。
川沿いのあの道を自転車で何気なく走った休日の朝、僕はあの人とすれ違った。
一目見てすぐに気がついた。
それが君だっていう事に。
いつからなのかわからないけど通勤の電車の中で会う君を僕は好きになってしまってずっと気になっていたんだ。
3か月くらい前から君はいつもの朝の電車に乗らなくなってしまっていて、もう会えないと思っていた。
悲しかった。
その前から君の表情がなんとなく暗くなっていて顔色も少し良くないように感じていた。
病気なのだろうか? それとも何か悩みがあって苦しんでいるのだろうか?
こんなふうに知らない人を気にするなんて今まで一度もなかったから自分でも不思議だったし不安になったこともあった。
どうしてこんなに君のことが気になってしまうのか?
恋なのかもしれないけれど、僕は君のことを何も知らない。
名前も年も住んでいる場所も仕事もどんな性格なのかも。
それなのに僕は君を本当にこころから好きになってしまって気になって仕方がないんだ。この気持ちをどんなふうに自分自身で受け止めればいいのかわからなくて苦しんでいた。
けれどもただ電車の中で会うだけだったから、なにも言えず何も起こらないままで消えていく感情なのだと思っていた。
そして君は朝の通勤電車の中からいなくなった。
とても辛かったけれど仕方がないと思っていた。
そんな時ふと思いついて休日の朝に自転車で川原の道を走った。
気持ちよかった。
そして君を見つけた。
驚いた。
君は頬を染めて歩いていた。
まだ少し暗い早朝の冷たい空気の中を小さな犬を連れてゆっくりと歩いていた。
その時は少しつらそうな顔をしていたけど日によって明るい表情もしていた。
というのはその日から毎日その時間に会えるように自転車でその場所を走るようになったから。君はまじめな性格らしく、天気が悪くない限り毎日必ず同じ時間にこの場所を通るから。
君は子犬を見つめたり、立ち止まって空を見上げたりしながら、ゆっくりと歩いていく。
頬を赤く染めて。
そういう君を見ているだけで僕の心は満たされていく。
しあわせになっていくんだ。
そして声を掛けてしまった。
君はびっくりしていたけれど優しい声で答えてくれた。
その声が君という人の優しさとあたたかさを伝えてくれて僕は君のことをもっと好きになってしまった。
君は本当に素敵な人だと思う。
心から。
君に出会うことができて本当によかった。
桜の花が咲いた日に初めて二人で出かけることになった。
二人とも見たかった展覧会がある場所に行ってみようということになった。
素晴しい展示だった。
会場も展示の中身もそこにいる人たちも。
ゆっくりとじっくりと時間をかけて丁寧に展示を見て、会場を出た。
よく晴れた暖かい日で空は濃い青の色をしていた。
白い雲がくっきりとそのなかに浮かんでいる。
優しい風が吹いていた。
ありがとう、どちらからともなく同時に言った。
そして顔を見合わせて笑ってしまった。
その時に、なんとなくつなごうとした僕の手を君はさりげなくそっとよけた。
君の表情は少しだけ色をなくしてしまう。
ごめんね、と言おうとして、言えなくて。
そうしたら小さな声でそっと君は「ごめんなさい」と言った。
「怖かったの」と。
早朝の川原で会う君は本当に心を風に任せて、周りの空気に溶け込んで、自由なように見えたけど。本当はまだ心の傷がなくなっていないんだね。
「いいんだよ」
僕は笑顔を作って言った。
でも少し傷ついていた。
すると君は唇をきゅっとつむって、自分から僕の手をそっと握った。
表情は硬かったけど君の手はやわらかかった。
その時に僕は、君のことをずっと守りたい、君とずっと一緒にいたいと心から思ったんだ。
本当に心から、本当に思ったんだ。
LiSAさんLOVEです♡
画像はワタナベアニさんにお借りしました。ありがとうございます。
読んでくださってありがとうございました。
ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。