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いじめに対する見方を変えてみませんか


朝からテレビを見ていると、いじめについての報道が2件もありました。

今日は、
いじめについての私の考えをお話したいと思います。


いじめは、誰の責任でもありません

いじめに対して「○○の責任だ」という責任論をよく耳にします。
しかし、私は、責任論ではけっして解決しないと思うのです。

いじめがクラスに存在することは、担任の先生の責任ではありません
そして、自分の子どもがいじめをしていたとしても、
子どもがいじめていたことは、保護者の責任でもありません。
いじめている子どもの問題です。
(責任でなく、あくまで問題。
子どもは成長過程にあります。責任を取るのでなく、問題に気づき改める必要があるだけです。)
誰の責任?誰の責任?と、騒いでいる間に大事なことが後回しになってしまっているのです。

いじめている子どもの指導はどうなっているのでしょうか?
いじめられていた子どもの心のケアはいつするのでしょうか?

教師は、
いじめられた子の気持ちに寄り添い、いじめていた子どもに反省を促すことが仕事です。

保護者は、
自分の子どもがした行為に対して 「あなたのしていることは、間違っている」ということを分からせ、ただちに、やめさせるべきです。

責任を追求することではなく、正すことが必要なのです。

いじめている方にもさまざまな事情があるという人がいます。
でも、それは事情であって、いじめていい理由ではありません。

どんな事情があっても、
それは、別の問題で、だれかをいじめていいことにはなりません。
このことをしっかりと教えていかなくてはなりません。
その後で、いじめをしてしまった子どもの心の奥を理解し、寄り添い、解決し、よりよい方向へ導くことが必要だと思うのです。


いじめはありえるものと考える

動物の世界では、弱いものが強いものに食べられてしまいます。
いくら進化したと言ってはみても、やはり、人間も動物です。
自分より弱い存在を下に見て、自分を高く見せようとするのは、自然なことではないでしょうか?
本能という視点から考えれば、そんなに驚くことではないのかもしれません。

子どものいじめが、大きく取り上げられていますが、これは子どもだけの問題なのでしょうか?
大人の社会でも、モラハラ、パワハラ、セクハラが存在しています。
そう考えると
いじめはありえるものとは言えませんか?

「いじめだ。いじめがあった。」と、いたずらに騒ぐのはやめたいですね。
落ち着いて、よく見極め、深刻化する前に食い止めることを考えたいのです。

いじめをしてしまうことが問題なのではなくて、
それが相手を死にまで追いやってしまう可能性がある怖いことなのだということに気がつかないことが問題なのです。

自分していることの重大さに気付き、ストップする強さを身に付けることが必要なのです。

いじめてしまいそうな自分の弱さに気付き、いじめの結果の大きさに気付き、自分をコントロールできる力を身に付けさせる。
相手の気持ちになって考えさせる。

それを教えることが、私たち大人が、子どもたちにするべき役割です。


いじめ調査の結果の捉え方を変える

どこの学校でも、定期的にいじめに対する調査はあります。
ただ、その調査のやり方や結果の捉え方について、私は、変える必要があると思っているのです。

<いじめのないクラスは、いいクラス>
<それは、担任の力量による>

だれも口にこそ出しませんが、教師の間でさえ、どこかそんなふうな考えがあるように感じます。
世間でも<担任の先生の指導力の問題>と見てしまう風潮があることは、否定できないでしょう。

でも、それはちがうと思うのです。

もちろん、教師によってクラスの雰囲気は変わってきます。
教師は、まったく関係ないとは言いません。
しかし、それを考慮した上でも、やはりいじめはそれとは関係のないところでも起こるのです。

いじめ調査の結果、いじめのなかったと報告したクラスが、いいクラスなのでしょうか?
ちょっと見方を変えて、
発見したいじめの数が多いクラスほど、指導の行き届いているクラスだと捉えてみるのはどうでしょう?

細かく注意深く、子どもたちを見ていれば見ているほど、<いじめに近い現場>を見つけることになります。
<いじめ>ととらえるか?
<遊びの延長>ととらえるか?
ここが、難しいところです。
それを、<いじめに繋がる可能性がある状況>であると捉えたとしましょう。
しかし、
報告するときには、<いじめ>と報告するか、もしくは、<なし>と報告するか、どちらかしかないのです。
そうなると、たいてい
<なし>と報告することが多くなるのではないでしょうか?
あなたが教師の立場だったら、
この場合でもわざわざ「私のクラスにいじめがあります」と報告しますか。

けれども
それが、いじめを温存する原因なのです。
疑わしきは報告する。
<あるものをある>と言う勇気が、教師に必要です。

それには、調査の結果を受け取る側(行政や世間一般)がそれを受け止めるだけの度量をもつことが必須です。
<いじめに繋がる可能性のある事象がある>と報告されたことを、<悪い状況>と捉えるような、通り一遍な判断基準を改め、「しっかり子どもたちを見ている結果」と捉えるような意識改革がないと、いじめの調査は無意味なものとなってしまうでしょう。

いじめ調査のやり方を変え、その結果を今までとは異なる方向から見ることができないと、いじめをなくすことは難しいと考えます。



いじめの芽があるかもしれないことを想定し、発見、解決、指導に努める

これからの学校現場は、
いじめのはあって当たり前と考え、深刻化する前に早く発見し、どのように解決していくかを考えるべきだと思います。
いじめていた子どもの保護者も、早く見つけてもらってありがたいと考え、この先どのように自分の子どもを導いていくか考えることを大切にしてほしいと思います。

起きてしまったことを 起きたこととしてしっかり受け止め、
なぜ起こったのか考えて、
次の行動をとることが大事なのです。


第三者の介入が必要なこともある

教師はいじめに繋がる可能性のある事象があるかどうか、常に気を配ることが大切です。
ですが、教師の目の届かないところでいじめがあったかどうかの判断は、第三者に委ねることも必要だと思います。

いじめた方もいじめられた方も、自分が担任しているというような場合では、教師は、どちらの気持ちも深く汲み取ろうとします。
どちらの言い分が正しいかというようなことを、担任の教師に判断させるのは酷ではありませんか?
いじめがあったかどうか追求するのは、学校の先生でないといけませんか?
教師の仕事は、そのようなことまで含まれるのでしょうか?

私は、そうでないと思います。
判断がむずかしい場合は、第三者に任せるべきだと思います。

教師の役目は、いじめがあったという判断を受けて、した側とされた側の気持ちに寄り添い、そこからどうするかを指導することではないのでしょうか?


いじめの報道を聞くと、胸が苦しくなります。
立ち直れないほどの傷を受ける子どもたちが、これ以上出てほしくない。
いじめストップのため、私たちも少し観点を変える必要があるのではないでしょうか。


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社会に一石を投じようと思って書きました。極論に走っている部分もあるとは思いますが、温かい目で見てくださると、嬉しいです。


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