コラム「○○は亡くなりました」という言葉がすごく寂しい
日曜日の午後、私の住んでいる地域はお寺や公園が多く緑がきれいなので娘と散歩した。
いつも行くスムージー屋に行き、スムージーを飲んでから公園に寄り、娘はブランコで遊んで、私はベンチで、のんびりしている。そんな日曜日がとても好きだ。
帰り道は公園の近くのお寺へ。
このお寺は山門の「金剛力士像」がとても立派だ。迫力があり、目もぎょろりと睨みつけている。この辺りではすごく立派な像だ。
山門をくぐり抜け、本堂に向かうと柴犬が繋がれている。13年くらい前、息子と見にきたのが初めて。今は娘と時々おじいちゃんになった、ワンちゃんに会いに行っていたのだけど、半年ぶりに行ってみたら、あれれ?ワンちゃんがいない。
お寺の方がいらっしゃったので伺ってみたところ
「亡くなりました、つい先日」
私の飼い犬ではないけど、寂しい。そして、亡くなりました、という言葉は結構哀しみが溢れるものだ。
昨年も動物園で白くまエリアを観に行った時も
「白くまのナナちゃんは亡くなりました」
張り紙が貼ってあった。
「亡くなりました」という言葉はなんだか寂しい。ワンちゃんもナナちゃんも、飼ってるわけでもよく知っている訳でもないけれど。
ひとつの命を終えるという事は、小さくても大きくても重さは同じて、亡くなった後も、その存在は大きいと思う。とても心に残っている。
ワンちゃんにももう少し早く会いに行っていれば、とも思ったけれど、主人のいない犬小屋が風に吹かれた時、立ち寄ってくれてありがとうね、そんなふうに言ったように見えた。
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