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許されるミスと許されないミス

長年考えてきたことがあります。
中学生の頃からでしょうか。

誰だってミスや失敗をするのが人間ってものですが、
1回きりのミスが許されない場合がある、ということです。

例えば…
・殺すつもりがないのに、前方不注意で交通事故を起こし、人を跳ねてしまった
・今年1月2日の航空機事故

失敗したくて失敗している訳ではないにもかかわらず、現実・事実・結果はひとつ、
誰かの命を亡くしてしまう…

よく、殺人事件の速報のニュースで、
「警察によりますと、容疑者は『殺すつもりはなかった』と容疑を(一部)否認しているということです。」
と報道されます。

淡々と報道されます。

もし、もし、本当に殺すつもりがなく、頭に血が上って一瞬の出来事だとしたら。
取り返しのつかないことをしてしまった、と自分を責めているのではないでしょうか。
だけど、殺してしまったから、(とりあえずは)逮捕される。
世間の晒しものにされる。

この人は、救われる余地はあるのでしょうか。

交通事故だって同じです。
その日、疲れが溜まっていたトラック運転手が、横断中の歩行者を跳ねて死なせてしまった時、
テレビでは次のように報道されます。
「警察によりますと、容疑者は『人を跳ねてしまったことに間違いありません』と容疑を認めているということです。」

これも、跳ねてしまった相手が幼い子どもだとしたら、「幼い命がまたひとつ失われてしまいました」と評論家がコメントすることでしょう。

反省はもちろんしているけど、取り返しのつかない失敗をしてしまった時、
その人の人生は暗い将来しかないようにしか感じ取れません。

殺すことは世の中的にしてはいけません。
問題は、殺すつもりがないのに殺してしまった時です。

私は変な感覚になります。

今日犯したこの小さなミス、本当はどこまで許してもらえるのだろうか。
この小さなミスが積もりに積もって、大きなミスとなり、誰かの命を失わせてしまっていないだろうか…

(ちょうどこの段階で、「紅麹問題」を思い出しました)

考えたことをまとめると、2つあります。

①取り返しのつかないミスをしてしまった人の将来が真っ暗な状態に追い込む社会ではあってほしくない。

②ミス防止策をきちんとするのはもちろん、犯した時は報告を忘れずにする。


①はあまり人々はフォーカスしていないんじゃないだろうか、が私の感覚です。
そりゃ殺人事件にまでなれば弁護士がつきますが、世の中的には弁護をなかなかしてもらえない気はします。

①の発想は、中学時代の、「私自身は差別している意識がないにもかかわらず差別していると言われ続ける」体験から生まれたものです。

その体験談は↑↑こちらに書きました。

「無自覚で差別していたなら、そこは悪かった、反省している。」という内容を伝えても許してもらえません。
私は、殺人ではなかったけれど、許されないミスを犯したことになっています。

私はお先真っ暗状態になりました。

当時の私を救ってあげたいです。


②は、昨日、福祉サービス「就労継続支援B型」のお仕事でミスをしました。
潔く、ミスをしたことを認めました。
そして、どこがいけなかったのか、紙に書き出しました。
それは、今後のミス防止につながると思ったからです。
PDCAサイクル、重要だなあ、と思った瞬間です。
(どうかこのミスが許されるミスでありますように)


最近またこの考え事をしているなーと思ったので、まとめてみました。
みなさんはどのようにお考えでしょうか。

お気軽にコメント・スキ、お願いします🙇
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たななこんぶ

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