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初の子連れ海外 / 出発前の長い導入、これまでの旅の遍歴編

4年半ぶり、そして4歳10ヶ月の娘を連れての初の海外旅行。成田からベトナムのダナンに飛ぶ当日の朝、目が覚めたベッドの上で私が思ったのは、かつての大航海時代ならぬ大旅行時代がどれほど貴重な時間だったかということだった。
当時も分かってはいるつもりだったけれど、やっぱり分かっていなかったのだと思う。
友達と何十日も外国を旅するということのスペシャルさを。日本に帰ってきてしばらくのんびりして、また次の計画をわくわくと立て準備をする気ままさを。
寝転んだまま天井を見ながら、かつての旅の相棒、目下1歳児を必死で育てている友人Yを想った。


Yと出会ったのは高校で、しかし高校時代は少し話すことはあってもさほど親しくはなかった。
複数人で行った卒業旅行でなんとなく馬が合うものを感じ、翌年私が浪人を経て大学生になった夏休み、共通の友達と3人で石垣島に行った。
さらにその翌年、その共通の友達がオーストラリアに留学し、日本に残された二人でオーストラリアに会いに行く計画を立てたのが二人旅のきっかけだったと記憶してるが、件の友達とスケジュールが合わず、友達は私たちを差し置いてオーストラリアでダイビングのライセンスなぞ取るという。
悔しいので私たちも、と海外で安くライセンスがとれることころがないか調べた結果、以前から少し興味のあったバリ島へ行こうということになった。
10日間のバリ旅行は、最初の4日ほどはライセンス取得のためにアメッドという田舎の村で過ごした。
プラメリアが咲き乱れる美しい村で、ホテルにあった小さいけれど足のつかない深いプールで着いて早々潜水を繰り返して遊んだのが懐かしい。
もう20年近く前のことなのだけど、とても良いところだった。ライセンスが無事とれたあとは気ままにバリを観光した。小さなホテルで飲んだスイカシェイクが美味しかったことが印象的だ。

翌年の夏休み、私たちはモロッコを20日間自由旅行した。おそらくこれが決定的だった。ここから私たちは戻れない旅人への道を歩み出したのだ。
なぜモロッコだったのかといえばほとんど思いつきで、私がたまたまふらりと寄った店がモロッコランプの専門店で、説明を受けながら、というかモロッコってどこ…と調べてみるとなんだか惹かれる街並み。知人にそのことを話すと友達に先日までモロッコに行ってた奴がいるからと、Yも誘っての情報交換会がブッキングされ、はじめましての京大生けんちゃんからモロッコ一周のプランを教えてもらい、じゃあ大体そんな感じで行こうかと決まったのだった。
まだ少し肌寒かった春先の、川沿いで柳が揺れていた京都の夜。

そのモロッコの旅は私たちにとってまさに冒険と言ってふさわしいものだった。
見たことのないイスラム建築、迷路のようなメディナ(城壁に囲まれた旧市街)、活気にあふれた何百もの屋台が並ぶ市場、飲んだことのないほど甘いその場で絞られるオレンジジュース、タジンという独特の鍋で作る煮込み料理、濡らしたシャツが数分でパリパリに乾いた摂氏47度の灼熱のマラケシュ、そしてラクダに揺られ人生初の野宿をした真っ赤なサハラ砂漠。
インターネット環境のない砂漠の真ん中で、高いツアーを勧めてくるモロッコ人に困惑して逃げようとするも360度砂漠で途方に暮れたことも、暑さと疲れで倒れかけたことも、市場での値段の掛け合いも、全てがハードで全てが刺激的だった。
最後に(今はもうほぼない)リコンファームという搭乗前の確認手続きを怠ったことで乗るはずの帰りの飛行機に乗れず、30時間空港で過ごす羽目になるというおまけもついた。
それでも、それだからこそ、私たちの心は旅に鷲掴みにされた。
私は大学3年生だった。

翌年、卒業旅行という名目で中米のグアテマラを周遊した。もはやあれは確認のような旅だった。
私は印刷会社に、Yは市役所に就職が決まっていた。
どちらからともなく私たちは言った。
もし3年働いてまだ旅に行きたかったら仕事を辞めて二人で旅に出よう。仕事を辞めたくないと思ったら別に辞めなくていいから。これは約束じゃないから、と。

3年後…二人とも迷いなくあっさり仕事を辞めていた。 
旅に出る気があるなら貯めようと約束していた金額は200万。浪費家の私は退職金をあててギリギリ200万になったが、倹約家のYは倍以上貯めていたらしいことが数年後判明するがこの時の私はまだ知らなかった。
当時の私としてはなかなか大金を貯めたと思ったけれど、今の私から当時の私に送金できるならあと100万は送金したいと切実に思う。がそれは残念ながら無理な話。凡人の時間とお金のバランスの悪さはこの世の常だろう。

4月に会社を辞めたので、手始めに5月から6月にかけて1ヶ月、トルコを周遊した。
旅の感覚が鈍っていたらしく、いやそもそもそんなもの身につけてもない経験値だったのか、言葉巧みなトルコ人に翻弄され変装して街を歩く羽目になるほどのドタバタ珍道中になったがその話はまた別の機会に。
この頃からホテルでWi-Fiが接続できるようになり、ホテルでのみインターネットで調べ物をしたり日本と連絡を取ったりするようになった。

8月は沖縄の粟国島と阿嘉島に行った。外国よりはるかに滞在費がかかるので驚いた。

10月にウズベキスタンに20日間行き、11月にタイとラオスを1ヶ月旅した。タイのコムロイというお祭りはそれはそれは美しかったが、目的のイベントに合わせて日程を組めるのも自由な旅人の醍醐味だろう。
翌年3月から4月にかけて40日間南米のチリ、ボリビア、ペルーを旅した。ハイライトは有名なウユニ塩湖。見事な鏡面の湖が見れたが、私は最後にペルーの田舎でパスポートを落とした。

さらにもう一箇所、アメリカのニューメキシコにホワイトサンズでも見に行きたい、と思ったが私の資金がほぼ底をついたため少しアルバイトなどし、翌年2月にインドを1ヶ月旅した。
2週間以上の長期の旅行はこれが最後になる。

その後二人ともウォーミングアップ的に社会復帰するが、1年に1回は10日間ほど仕事を休んで海外に行った。スウェーデン、東チベット、ポルトガル、ルーマニア。
その間に二人とも結婚、そしてルーマニアに行った翌年私が出産し、それからあっという間に5年近く経ったのだ。

Yとの旅行はいつだって最高に楽しくて幸せだ。喧嘩もしたことないし、心の底から湧き上がってくる自由を感じながら、くだらない笑いと二人だけの楽しみがそこにある。
突如夜中にトルコの歴史をノートにまとめて興味深いところについて調査をしたこともあるし(それで私は謎の海の民に滅ぼされたヒッタイト人について知った)、
時差ぼけで眠れないチリの夜、二人でスペイン語を猛勉強したこともある。
することがない退屈な時間はイントロクイズや絵しりとり、双六作りで暇を潰した。
疲れるタイミングもほぼ同じ、私が一歩だけ早く体力の限界が来て寝込み、翌日くらいにYが後を追ってくる。
腹痛も嘔吐も車酔いも原因不明の湿疹も結膜炎もありとあらゆる不調の時も私たちは私たちのペースで、心配したりされたりしながら、道を急ぐことなく、旅をし続けた。
そしてほぼ同じ経験をしてるけれども、それぞれ個々にひたすらに日記を書き続けた。

カップルは南米でよく会ったが、友人二人組でのバックパッカーは私たちは会ったことがない。そりゃあそうだろうなあと思う。一緒に行きたい友人がいたとしても人生のタイミングを合わせるのはそう簡単なことではない。
そう思うと私とYの旅がどれだけ特別な時間だったか、やっぱり今になってしっかりと実感する。

長い長い回想をしてしまったが、我が子に異国を経験させたいという親の自己満足で今回仕事の出張に帯同させるという強引なやりかたで初めての子連れ海外が実現したのだが、いやでも結局のところ、自分の旅は自分だけの旅でしかなく、私にとって最高の旅はYとの旅だったことは間違いないし、
今回ほんの少しでも娘が何か感じられればいいなとは思うけれども、我が子は我が子なりに自分の道を、旅でなくてもいいから幸福でスペシャルな瞬間を、見つけていってもらうしかないのだなと当たり前ながら実感した朝だった。

簡単ではない女の道を私も現在険しく歩んでいるけれど、とにかく今回は新しいチャレンジを楽しみたい。

もう少し役に立ちそうな実際の子連れ旅についてのレポートはまた次回。

All Photography by 田中閑香

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