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【第5話】 今夜、ご自愛させていただきます。

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「私がご自愛を始めたのは、60歳のときです」

カフェオレが入ったカップを置いて、甘糟あまかすさんはゆっくりと話し始めた。マスターは時計をチラリと見てから「今日は早めに店仕舞いしましょう」と、入口の看板をしまった。

店内には私と甘糟さんとマスターしかいない。時計の針の動く音がやけに響いた。

「定年を迎えても、私は自分を知った気になれませんでした。これがすごくショックだったんです」

甘糟さんが色褪せたノートを広げ、なぜご自愛を始めたのか話し出した。


***


7時に起床して掃除に洗濯、作り置きまで済ませた私はえらい。休日にテキパキ動けた自分を褒めながら、12時からの約束に間に合うように身支度を整える。

カバンの中にノートと筆記用具、読みかけの本を入れる。地元の京都土産が入っている紙袋を持って外へ出た。

残暑を迎えたというのに、まだまだ暑い。コンクリートから陽炎がゆらゆらと揺れているのが見えた。日傘をさしているけれど、元気な太陽が容赦なく私を襲う。

マスターがいる喫茶店に入ると、クーラーの涼しさに一気に汗がひいた。お昼時なので店内は8割ほど埋まっている。

「良子さん、いらっしゃいませ」

「こんにちは」

マスターが笑顔で迎え、あらかじめ予約していたテーブル席へと案内してくれた。お水を持ってきてくれたタイミングで、夏休みに実家へ帰省した旨と、京都土産の抹茶と漬け物を渡す。「抹茶ラテでも作ろうかな」と喜んでいる姿に嬉しくなった。

「そうだ、今日は甘糟さんと待ち合わせですよね」

「はい」

「では、注文は後でご一緒に伺いますね」

しばらくするとカランコロンと扉が鳴った。入口の方を見ると、白いポロシャツに麦わら帽子を被った甘糟さんが入ってきた。

「甘糟さん!」

軽く手を挙げるとにっこりと笑顔を見せてくれた。

「いやいや、大変お待たせしました」

「とんでもないです。私もさっき着いたところです」

甘糟さんは帽子をとって着席した。白髪で小柄な体型。背筋はシャキッと伸びており、気品とハツラツとした若さを感じる。今年70歳にはとても見えない。

「甘糟さん、こんにちは」

マスターが水を持ってやってくる。「ご注文はどうします?」の言葉に、甘糟さんは「どうしようかなあ」とニコニコしながらメニューをめくり、「良子さん、何食べます?」と私に見せた。喫茶店のフードやドリンクはどれも絶品。優柔不断が発動してしまいそうだ。

「よし、私は決めましたよ。クリームソーダとナポリタンをください」

「甘糟さん、夏はクリームソーダしか頼みませんね」

マスターは笑いながらオーダー表に記入していく。期間限定のクリームソーダは今月末で終了してしまう。今日はレモンスカッシュにしようと思っていたけれど、ああ、どうしよう。やはりクリームソーダにも心が惹かれてしまう。

「うーん……私もクリームソーダをください!あとはピザトーストと、プリンアラモード」

「かしこまりました。そうだ、今日は桃やイチジクが入荷していますよ」

「わあ、どっちも大好きです」

ここの喫茶店のプリンアラモードは、季節や日によって使われるフルーツが変わる。今日はどんなフルーツが乗っているのかが毎回の楽しみだ。

「ドリンクは食後に持ってきますね」

マスターがカウンターへ戻った後、甘糟さんにも京都土産を渡した。実家に帰省したことを伝えると、どんなふうに過ごしていたのか興味深く話を聞いてくれた。


***


マスターから甘糟さんの話を聞いたのは、私がご自愛を知ってから1ヶ月後のことだった。

早番の仕事が終わって、喫茶店で晩御飯を食べようとお店を訪れた。カウンターで食事を済まし、マスターとたわいもない話をしたあとに、勇気を出してずっと気になっていたことを聞いてみた。

「マスターは、どうしてあのとき私に声をかけてくれたんですか?」

1ヶ月前の夜を思い出す。一心不乱にノートに文字を書いていた自分の姿だ。

グラスを拭いていたマスターは、手を止めて言った。

「姿が重なったんです。アマカスさんと」

「……アマカスさん?」

「このお店の常連さんです。私が知っている『ご自愛』については、全てアマカスさんから教えてもらいました。あの日、良子さんがノートに一生懸命文字を書いている姿を見たときに、不思議とアマカスさんの姿と重なったんです。きっとこの人も一緒なのかもしれないと思って」

「一緒?」

「ご自愛をして、何かを変えようとしている人なんだと思いました。少しでも何か力になれればと思って、つい声をかけてしまいました。驚かせてすみません」

聞きたいことが減るどころかむしろ増えてしまい、何から聞こうかと考える。アマカスさんは一体何者なんだろう。

考えている私に向かって、マスターは「サービスです」と、コーヒーとクッキーが乗った豆皿を出してくれた。お礼を言って口をつける。フルーティーなコーヒーはとても美味しかった。

「あの、私はまだご自愛を始めたばかりで、時々このやり方で合っているのか不安になるときがあります」

話し始めてから、心の奥底にふつふつと湧いている悩みを打ち明けるか迷ってしまった。いきなりこんなことを言ってもマスターを困らせるだけだろうか。おずおずと様子を伺うと、マスターが続きを待っているように見えた。覚悟を決めて口を開く。

「ご自愛を続けた先に、一体何があるんでしょうか。私は、変われるのかな」

語尾がだんだんと小さくなる。ご自愛を初めて1ヶ月ちょっと。少しずつ慣れてはきたけれど、ニットの穴が埋まるのか不安だった。

顔を上げるとマスターが優しい声で言った。

「良子さん、もしよかったらアマカスさんに会いませんか?」


約束の時間の30分前。私は喫茶店のテーブル席でドキドキしながら甘糟さんを待っていた。

その日は風が冷たくて、窓の外からヒューっと音が聞こえた。「高圧的な人だったらどうしよう」なんて、嫌なイメージばかりが浮かんでくる。

予定時刻の5分前、甘糟さんはやってきた。「初めまして」と穏やかに笑う姿に、浮かんでいた不安が一気に解消された。

着席した甘糟さんはカフェオレを注文した。「ミルクたっぷりでね」とお願いする姿に「これは甘党だな」と予想する。なんとなく仲良くなれそうな気がした。

お互いに自己紹介をする。甘糟さんは現在70歳で、定年退職を迎えるまで、中学校で教師をしていたという。「社会を教えていました」と目尻に寄ったシワを見ていると、子どもたちに好かれていたんだろうなと思った。

少しの雑談の後に、今回紹介してもらった経緯と、私がご自愛に興味を持った理由を話した。30歳になってから自分がどうしたいのか分からなくなったこと。不安を感じて焦ってしまうこと。甘糟さんは私の話を一度も遮らずに、真剣な表情で「うんうん」と話を聞いてくれた。

「どうしたらいいか分からなかったときに、この喫茶店でマスターに声をかけてもらったんです」と言うと、「マスターらしいなあ」と笑顔になった。

「私にとってご自愛とはなんなのか、少しずつわかってきた程度です。でも」

口をつぐむ。こんなことを聞いていいのか分からない。でも、この先私がご自愛を続けるために、確認してみたいことだった。

「『自分を大切にした先』に何があるのか、まだよく分かりません」

マスターから教わったように、私なりのルールを決めてご自愛を楽しんでいるけれど、果たして続けた先に何があるんだろう。私は“私”を晴らせるのだろうか。

少しの沈黙の後、甘糟さんはカフェオレを一口飲んだ。マグカップを置いて、私の目を真っ直ぐ見つめて言った。

「私がご自愛を始めたのは、60歳のときです」

気がついたら店内には私と甘糟さんとマスターしかいない。マスターが時計をチラリを見て「今日は早めに店仕舞いしましょう」と言った。

「定年を迎えたときに、これから先の人生、私は何をしたらいいのか全く分かりませんでした」

「え?」

「こう見えて、仕事に一直線の教師だったんですよ。授業だけではなく、柔道部の顧問も一生懸命していましたし、合唱コンクールも私が一番熱が入っていたんじゃないかな」

生徒よりも力を入れて準備している姿を想像して、思わず笑ってしまった。体育祭も文化祭も卒業式も、甘糟さんは全力投球だったんだろうな。

「教師という仕事が私の全てでした。ですが、目の前の仕事に一生懸命だっただけに、定年を迎えて仕事がなくなったとき、ポッカリと心に穴が空いてしまいました」

甘糟さんの表情が寂しそうに見えた。

「『私は何も持っていない』と思いました」

「そんな」

「教師としてのスキルや人脈、生徒という宝物はあるのかもしれない。ですが、『私はこういう人間で、こんなことがしたい』と自分が理解しているのかと聞かれれば、答えはNOでした」

穏やかで、優しそうで、ハツラツとしている甘糟さんからは想像できないような、後ろ向きな言葉が出てきて戸惑ってしまう。なんて相槌を打てばいいんだろう。

「おかしな話でしょう。生徒の進路相談を受けてアドバイスをする立場なのに、当の本人は自分のことがわかっていないんです」

マスターがおかわりのカフェオレを注いでくれた。

「目の前に“やるべき仕事”があったら、人はそのことしかしません。私は約40年間、目の前のことしかしていなかったので、自分の心の声を知らずに生きていました」

甘糟さんはカップに口をつけて、ふうと一息吐いてから言った。

「良子さん、自分を知らないまま生きていると、ふとしたときに迷子になるんです。私は、これから先何をしたらいいのか、どっちに進めばいいのか途方に暮れる毎日でした」

「いやいやそんな大袈裟な」と言いたくなったけれど、同じく昨年定年退職をした父の姿が脳裏をよぎった。父は退職してから何をしていた?

甘糟さんはカバンから色褪せたノートを取り出した。ぱらりとめくったページにはびっしりと文字が書き込まれていた。

「まずは自分を知らないといけない。そう思って私はノートに文字を書いて、自分と向き合うようにしました。本を何冊も読みましたし、セミナーにも通ったりして。そんなとき『ご自愛』という言葉を知りました」

「……ご自愛」

「私は、ご自愛する量が足りてなかったんです。自分を大切にする量です。生徒や他の人たちのことばかり考えすぎてしまい、自分のことはほったらかしの毎日でしたから。自分を大切にするようになって、ようやく心の穴が小さくなっていきました」

「喫茶店や一人の時間が好きだったことも、ご自愛で気がつきましたね」そう言って笑い、「でも」と続ける。

「先ほどおっしゃっていた『自分を大切にした先に何があるのか』は、やはり良子さんにしか分かりません。ただ、その答えはすぐに出さなくていいんです。焦らず、これからも楽しいご自愛をしながら、良子さん自身が見つけるんだと思います」

話を聞いて、すぐに返事ができなかった。

私よりも大先輩の甘糟さん。立派に勤め上げた先に待っていたのは、少し前までの私が抱えていた気持ちと同じだった。心のどこかで「私が30代だからニットに穴が開くような気持ちが訪れるんだ」と思っていたけれど、そんなんじゃなかった。

自分を大切にできていないと、いくら人生経験を積んだとしても穴は塞がらないのかもしれない。

穴を塞ぐには、今、この瞬間から、自分を大切にすること。

「続けた先」の答えを模索するよりも、まずは目の前のご自愛が、今すべきことのように思えた。

少しの沈黙の後、返事をする代わりに私は尋ねた。

「甘糟さんは、自分を大切にした先に何が見つかりましたか?」

しかし、甘糟さんはにっこりと微笑んで教えてくれなかった。


***


「良子さん?」

私を呼んでいることに気がついてハッとする。顔を上げると、甘糟さんが心配そうにこちらを見ている。

「あ、ごめんなさい!昔のことを思い出していたらぼんやりしちゃって」

食後のクリームソーダを堪能しながら、私と甘糟さんはノートを開いて話していた。甘糟さんと初めて会ったあの日から、私たちはご自愛仲間になり、1ヶ月に1回、一緒にご自愛をしている。

ノートを広げて自分の気持ちを吐き出したり、今後やりたいことを書いたり。お互いの心境を共有して感想を述べ、アドバイスをし合うひとときは、私にとって癒しであり、背筋がピシッと伸びる時間でもある。

これまでのことを振り返りながらノートに文字を書いていると、初めて出会ったときのことを思い出してしまった。

「何を思い出していたんでしょうねえ」

微笑みながら、甘糟さんが近況を報告してくれる。最近はフランス文学を勉強しているそうだ。

ご自愛を通して『自分を大切にした先にあるもの』の答えはまだ見つかっていない。甘糟さんの答えも聞きそびれたままだ。

私がご自愛を続けた先に見える景色は、一体なんだろう。早く見たい気もするけれど、私らしく過ごした先にひょっこりと浮かんでくるのかもしれない。

いつか私なりの答えが見つかったときに、報告できたらいいな。

「よし、じゃあ次は良子さんの番」

「はい!」

カランコロン、と新しいお客さんを迎える音を聞きながら、私は最近あったことを話し始めた。


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illustration by:キコ

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