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【第3話】 今夜、ご自愛させていただきます。

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「あ〜もう、本当走りづらいんですよ!」

惣菜コーナーで買ったチキン南蛮弁当に、タルタルソースをたっぷりかけながら栗山くりやまさんは不満をこぼしている。専門店街のアパレルスタッフをしている栗山さんは、今年の春からこのショッピングセンターに異動してきた。私もよく利用しており、お店を覗いているうちに仲良くなった。

「50m、いや30m?少し走ればまたすぐに信号に引っかかるんですよ。どんだけ東京には信号があるんですか」

12時を回った休憩所は賑わっている。お昼が重なるのは久しぶりだ。異動して初めて東京に住むことになってから「趣味のランニングがスムーズにできない」とストレスが溜まっているんだそう。

「信号だけじゃなくて人が多いことにもだんだんイライラしてきちゃって。家の近所で思いっきり走れないのがストレスです。あ〜もう東京は全然走れない!」

チキンを頬張りながら怒っている姿がなんだか可笑しくて、悪い気もしつつ笑ってしまった。

「分かるなあ。でも都会だし、こればっかりは仕方がないですよね」

気がつけばコンビニやスーパーの駐車場が狭い話にまで発展している。「東京は楽しいけど不自由!」と不満を募らせている栗山さんに笑いながら、作ってきたおにぎりをかじった。


***


社員証をかざし外へ出ると、梅雨のムワッとした空気が私を包み込んだ。今日は久しぶりに雨が降らない日とあって朝から気分がよかったものの、ぬるく湿気た空気にはやはり気持ちが負けそうになる。梅雨明けはまだ先みたいだ。どんよりと曇った空を見ているうちに「東京は空も狭いですよね」と栗山さんに言いたくなった。

駅へ向かって歩き出したとき、カバンに入っているスマホが鳴った。表示には母の名前だ。

「もしもし?」

「あ、良子ちゃん?おばあちゃんよ」

声を聞いた瞬間、傾きかけていた気持ちがぐんと回復した。思わず声が大きくなる。

「ばあちゃん!元気にしてる?」

母方の祖母は今実家で暮らしている。私が大学生の頃に祖父が亡くなり、その後から一緒に暮らすようになった。いつも優しくて、家族想いで、おしゃれが好きな可愛い祖母が私は大好きなのだ。

京都の実家に帰省するたびに「良子ちゃんのお洋服可愛いなあ」と褒めてくれる。「ハイカラさん」とニコニコ笑う祖母の前では、いつだって小さな子どもに戻ったような気分になる。

「元気やで。夏休みはこっちに帰って来れそうなん?」

夏と冬の長期休みが近づくと、決まって祖母は私に電話をする。本当はもっと定期的に会いたいのに、上京したせいでなかなか会えないのが辛い。だからせめて帰れるときに帰りたい。

「うん、帰るよ。楽しみにしててな。ばあちゃんの好きな和菓子買って帰るからね」

「良子ちゃんの好きなおいなりさん作って待ってるよ」暖かい言葉に、グウっとお腹が鳴った。さ、早く帰ろう。


***


持ち上げた瓶の重さに、1年の時の流れを感じた。どんとテーブルに置いた瓶の中には、昨年6月に漬けた梅酒が今か今かと蓋が開く瞬間を待ちわびている。

帰る間際、交代で入ってくれる杏子ちゃんに「今日何か楽しみでもあるんですか〜?」と鋭い観察眼が向けられたのだけど、ご名答。今日は1年間熟成した梅酒の解禁日なのだ。

ちゃぷんとレードルを梅酒につける。氷を入れたグラスにゆっくりと注ぐと、透明な琥珀色が広がり心が湧く。パブロフの犬みたいに、じわっと口の中に唾液が広がってきた。まずはロックで、その後はソーダ割り。余裕があればお湯割りも試したい。

ベランダに出て、キャンプ用の小さな椅子を広げる。隣にはいつもベッドの上で使っている折り畳みテーブル。念の為小さな蚊取り線香も焚いておく。スマホはもちろんオフだ。梅酒のグラスと、商店街で買ってきたコロッケと、自家製のぬか漬けで、今日のご自愛が始まる。

「あ〜〜美味しい!」

初めて作った梅酒は、芳醇な香りでちょうどいい甘さだ。自分で作るのはちょっぴり面倒くさいけれど、時間をかけた分美味しさが染み渡る。梅の実はジャムにしようかな。

6月の東京の夜は、じめっと蒸し暑い。空を見上げてみると黒い雲が覆ったままで何も見えやしない。決して気持ちのいい気候ではないけれど、少し気温が下がった静かな夏の夜に身を潜めていると、子どもの頃にタイムスリップしたかのような懐かしい気持ちになる。

「商店街のコロッケ美味しいな。今日は4つも買っちゃった」

じゃがいもがゴロっと入っており、ほんのり甘い。時間が経ってもサクサクな衣に口の中が喜ぶ。ペロリと1個食べ終わると、次はさっぱりしたものが食べたくなってきゅうりと大根のぬか漬けをかじった。そろそろ梅酒のソーダ割りでも作ろうか。


「やっぱり今日はうまく見えないな」

突然隣から声が聞こえて、心臓が飛び出そうになった。グラスを手に持ったまま静止する。ゆっくりとベランダの仕切り板に目をやった。

今の、隣から?
もしかしてお隣さんもベランダに出てきた?

心臓の鼓動が早くなる。いつからいたんだろう。もしかして私の独り言、全部聞こえていたかもしれない。

せっかくシャワーを浴びたのに、背中がじわっと汗ばむ。

隣には男性が住んでいる。すれ違えば挨拶をする程度で、ちゃんと喋ったことは一度もない。梅酒とかコロッケとか言いながら鼻歌を歌っている奴が隣に住んでいるなんて思われるのは恥ずかしい。

「まあこんな日もあるか」

聞こえてきた声に、疑問符が浮かぶ。「うまく見えない」って一体なんだろう。この人は何かベランダから見ているのだろうか。

もしかして誰かの部屋、とか?

悪い妄想が一気に広がり、脈を打つスピードが早くなる。いやいや、ありえない。失礼だぞ良子。もしかしたら何か育てているだけかもしれない。よし、今日はもうこのまま部屋に戻ろう。厄介なことになったら面倒だ。

ゆっくりと部屋に戻ろうと椅子から立ち上がったとき、隣のベランダの手すりから飛び出している細長いものが見えた。と、同時に育てているシソとネギの鉢にぶつかって、バランスを崩してしまった。

「わ!」

幸いグラスは割れなかったものの、大きな音と声が出てしまって咄嗟にしゃがむ。お隣からハッと息を呑む音が聞こえた。私がベランダにいることが完全にバレてしまって詰んだ。

「……大丈夫ですか?」

お隣から声がかかった。なんて答えようか。もうこのまま無視して部屋に戻ろうか。いやでも「何かありましたか?大丈夫ですか?警察呼びましょうか」と心配そうな声が聞こえてくる。恥ずかしいけれど、ここはもう答えておくしかない。

「はい、大丈夫です!シソにぶつかっただけで」

立ち上がり少しベランダから身を乗り出して声をかけると、見えていた細長いものの正体が分かった。やっぱり望遠鏡だった。


***

「ISS……を見ていたんですか?」

「そうなんです」低く穏やかな声が返ってきた。今日はISSが見える日らしい。

「ときどきベランダに望遠鏡を出して月を眺めているんですよ。しかも今日はISSが上空を通過する日だから見なきゃと思って」

先ほどまでドキドキしていた鼓動が少しだけ落ち着いた。ふうと一息ついて仕切りに近づき、向こう側へ耳を澄ませる。

「でも雲が厚くてよく見えませんでした」

ははは、と小さく笑う声が聞こえた。見えないってそういうことだったのか。ホッと胸を撫で下ろす。

「ISSって知っていますか?」

「う〜ん……言葉くらいですね」

ふんふんと話を聞いていたけれど、振ってくれた質問にどうしようと固まった。ISSに関しては「国際宇宙ステーション」だということ以外知らない。ここで会話が終了してしまいそうだ。部屋に戻るタイミングも完全に失ってしまって気まずい。

「ISSは地上からだいたい400km先にある実験施設なんです」

もしかして無知な私のために丁寧に説明してくれているのだろうか。とりあえず返事をする。

「400km ……そんな遠いところにあるんですね」

「と、思うじゃないですか?」

ベランダの仕切り越しに、穏やかな声が少しだけ大きく明るくなった。あれ?私変なこと言っちゃった?

「実はそんなに遠くなくて、ISSって案外地球に近いんですよ。しかもサッカー場くらい大きいんです。宇宙にそんな大きなものが浮かんでいると思うとびっくりしますよね」

楽しそうな声が湿った夜の空気を軽くしていく。お隣さんはどんな人物だったっけ。エレベーターで乗り合わせたとき、エントランスですれ違ったときを必死に思い返してみるけれど、背が高かったことしか思い出せない。挨拶程度しかしないし、ほとんど無意識だったので、全く印象に残っていない。この人は一体どんな顔をしているんだろう。

「って、すみません!」

「え?」

「いきなりペラペラ喋ってしまって。驚きましたよね」

先ほどまで明るかった声色がみるみるトーンダウンしていく。仕切り越しでも慌てている様子が伝わってきて、思わず吹き出してしまった。

「いえいえ。詳しいんですね。宇宙がお好きなんですか」

「……あ、はい。専門は星なんですけど」

「専門は星」とは、研究者かどこかの学校で教えているのだろうか。聞いてみたい気もするけれど、いきなり根掘り葉掘り聞くのはよくないかも。「そうなんですね」と相槌だけ打った。


「実家が四国の田舎なんですけど」少しの間があった後、ぽつりと声が届いた。

「夜になると星がぶわ〜っと一面に広がっているんです。高い建物がないので、遠くの方までよく見えて。もう、空が落ちてくるみたいなんです」

ぬるい風が吹いた。あたりはとても静かだ。

「星空を見ていると嫌なことが全部忘れられて、心がスッキリしていました」

「癒されそうですね」

「はい。でも、上京してからはなかなか星が見つけられなくて」

次の言葉まで一呼吸止まったとき、思わず「ですよね」と相槌を打ちそうになった。夜でも明るい東京は星が見えづらい。見上げても真っ先にビルや電線が目に入る。造りものの光ではなく自然の光に心が動かされたい気持ちはよく分かる。なんなら信号も多くて走りにくいし、駐車場も狭いし。東京は「仕方がない」が多い。

「だから、月を見ることにしたんですよね」

手に持っていたグラスの氷がカランと鳴った。

「星空は難しくても、月なら東京でも綺麗に見えます」

「たしかに。月まで見えなかったら悲しいですよね」

「そうですよね。そういえば、月がなかったら人類が誕生しなかったかもしれない説もあるんですよ。月明かりもないから、今より夜はもっと暗かったはずです」

「へえ、月があってよかった」

「東京に来てよかったのは、月を好きになったことですね」

仕切り板を見上げた。顔は見えないけれど、なんとなく優しい人だったらいいなと思った。

視線をベランダの外へ向ける。そういえば、このマンションのベランダ側は高い建物や電線がほとんどない。遠くの方まで空がよく見える。ベランダの風景も気に入って入居を決めたのに、忙しく毎日を過ごしているうちにすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていた。

「こういう時間が、僕は好きなんです」

きっとこの人は、どんなときだって空を見上げている。

そんな気がした。


***


「ありがとうございました。じゃあ、おやすみなさい」

仕切り板越しに言う「おやすみ」はなんだか不思議な感覚だった。グラスや椅子を片付ける。ちらりと見上げた空にはまだ何も浮かんでいないけれど、まんまるな月を想像したら東京も悪くないと思った。星が見えないなら月を楽しむなんて発想なかったな。

「こちらこそ、ISSの話に付き合ってくれてありがとうございました」

カラカラと窓を閉めていると「あそこのコロッケ美味しいですよね。僕もまた食べてみます」という声が滑り込んできて一気に顔が熱くなった。

やっぱり全部聞こえていたのか……。4つも買った自分をちょっとだけ恨んだ。


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illustration by:キコ


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