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狭間に生きる。

日本公開中に観たかったけど観られなかった土井先生監修の「土を喰らう12ヶ月」がついにビデオ販売されていたのでこれは6回は観る!とみて即購入。海外でもこんなに容易く日本の文化に触れられるようになって、、、本当に最近のテクノロジーは有難い。

そして映画は買って悔いなし。
不便な田舎暮らしの生活音、年老いたジュリーの安定感、松たか子の絶対的美声、もう全部がスキダー!と毎日観ています。6回以上余裕で観られる。


さてこちらアメリカはめっきり寒くなり、今朝は今季初ダウンジャケットを装着する運びとなりました。暇なもんで四季の移り変わりばかりを見ている気がする。はーついこないだは夏だった。

暇故に、時間だけはあるのです。
今朝は小豆を煮ながら温まり、煮ている間に本を読む。そして果てしなく考えごとをする。このままだとボケないかが心配。でも今朝もせっかく考えたので書いておこう。



小豆を煮ることは、きっと今風に丁寧な生活をしている人かおばあちゃんか、海外で暇でなきゃしないだろうことかと揺れる小豆を茹でながら考えた。とりあえずわたしはこの地でこの日本の小豆が買えたことが感動で、そしてそれを煮るという時間があり、そして最終的にはこのアメリカで餡子が食べられるという一連の幸せに幸せを感じます。そんなレベルの幸せがアメリカでは相当な幸せです。

しかし47歳、なんだかんだと日本の古きに憧れつつも、最先端の便利品を使いこなして楽をして、楽をすればするほどになぜか満たされない思いに苛まれる、わたし人と進化の狭間に生きていると思うのです。

明治大正生まれの祖父母を持ち、昭和を生きた親に持つ世代のわたしは、自分も「ああ生きたい。次世代にも伝えたい。」と焦る傍らで食洗機と洗濯機とお掃除ロボットとホームベーカリーがグイングイン鳴っている。

楽をするのが人の幸せと刷り込まれながら、楽をしたから幸せを感じる人って一体どれくらいいるんだろう。あーお掃除ロボが働いてくれてーわたしラクー!と思うことはあるけどあれは、人間をやめているってことになりかねないのではと末恐ろしい。

そうなるとわたし、人である醍醐味を放棄してほとんど機械に頼って子育てをしてもう15年も経ってしまったなー。

と、東出YouTubeを観ながらも想うこの頃。
色々言われても、結局あの人は五感最大で人間を生きている。

わたしは最近料理さえ正解と成功しか認められない気がして、目分量もおっかなびっくりになることもあり、こうなるともう人間でいること自体がおっかなびっくりで、人間でいること自体が難しい。


とそんなことを考えながら、わたしの茹で小豆は今インスタポットという文明の機器に入れられて米麹と混ぜられ不自然に60度を保ちながら10時間発酵に入りました。


はー今日も生き方の矛盾が絶えない。


追伸
日本の小豆と感動したこの小豆は、よくみたら中国産、こんな小さな幸せは大抵そんな小さな残念さと隣り合わせのアメリカ暮らしです。いやアメリカ暮らしじゃなくても皆そんなものかね人生は。

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