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形成

カタチを成す。
有形無形を問わず、形作る意思がなければ、何事もなし得ない。
いや、意思だけでは足りない。カタチを成すためには、どうすれば良いかとその方策を練らない限り、まともなカタチは生まれない。デタラメにやれば畸形が生じるだけだ。

カタチを成すためには方策がいる。
その方策について頭を悩ませない限り、思い通りに形作ることができるわけがない。
その方策をデザインという。
デザインとは、形作ることそのものというより、どうすればカタチが作れるかの作戦、戦略を練ることだ。
どうやったら思っているカタチを形作ることができるか?の方策をデザインと呼ぶ。

その対象は有形無形を問わないのは先に述べた通りだ。
詩だって、旅行のプランだって、自分のやろうとしていることをどう伝えればよいのかを考えることだってデザインの対象だ。

そして、事を成すための作戦づくりはデザインそのものだ。作戦もなしに闇雲にやってもうまくいかないのはデザインがないからだ。
うまくいかないことをするのは残念ながらプロの仕事ではない。つまりプロの仕事にはデザインが不可欠だ。

これまでプロになるには、組織が作った業務のデザインに従っていればよかったが、残念ながらそんな仕事はどんどんなくなっていく。各自がプロとしてその時々で求められることを成すための方策を自分自身でデザインしなくてはならなくなる。
いや、とっくにそうなってるが、気づかないふりをしてる人が大量にいるだけなのだろう。これだけデザインしないプロの仕事人でない人ばかりなら、経済的な生産性において他国に遅れをとり、生産力が極度に低いのも無理はない。

そもそも、人が成すことでカタチを成さない行為はないのだ。違いがあるとすれば、意図して形作る行為と、意図なく意味もなく形作ってしまう行為の違いがあるだけだ。
プライベートなら、意図なく意味なく形作ってもよい。だが、仕事であれば、ちゃんと意図して成果を形作ってほしい。

だから、ルネサンスからマニエリスムへの移行に学ぶことがやっぱり大事だと思う。例えば、『マニエリスムのアメリカ』の帯にこうある。

神によって創造された「自然」の模倣をやめ、神の創造そのものを模倣する技術をマニエリスムと呼ぶならば……

すでにあるものの模倣であったルネサンスから、創造の方法としてのマニエリスムへの移行。まさに模倣ではプロとしてやっていけなくなったいまの時代、求められるのはマニエリスム的創造の方法だ。

こんなときにいつでも思い出すのは、マニエリスム芸術家ツッカーリのDisengo Internoという概念だ。いつものようにグスタフ・ルネ・ホッケの『迷宮としての世界』から紹介する。

最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これを要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。

ようするに、自分の中でイメージがわいていなければ、それは外的に表現されたカタチとして実現できるはずがない

けれど、デザインをしない人はこの内的構図をつくることをしない。想像力がないといえばそれまでだが、実際のところ内的構図といってもゼロからの創造ではなく、いろんな素材の組み合わせでしかない。
その組み合わせを求められる要件、目的に適したカタチになるよう素材を組み合わせるだけだ(「考えるの素材」を参照)。マニエリスムと組み合わせ術としてのアルス・コンビナトリアがよく関連づけて語られるのはそういうことだ。

マニエリスムの計画的創造という観点からは、ワイリー・サイファーの『文学とテクノロジー』からもこんな引用をしておこう。マニエリスムは技芸を合理化し理論化して偶然を配する。

技芸(クラフト)というものは、唯美主義者が認容しているような方法概念としての方法とは別事である。というのは技芸は手段媒体の理論的使用であるよりはまずもって本能的な機能であるからだと。アリストテレスは芸術を正しい推理の道筋をふまえた知的価値の1つと指摘したが、彼はこうもつけ加えていっていたのである、芸術は変わりやすいものを扱うものであり、行うこととと作ることとは、両者とも偶然が伴うものであるからして、どこか共通したところがある、「芸術は偶然を愛する、偶然は芸術を愛する」と。芸術を方法化しようとする努力は、業(テクネ)の観念の特殊化である。なぜなら、変わりやすいものを排除することによって、それは芸術的才能をもっぱら「工夫と考慮」とのみ同一視するからである。アリストテレス自身も強い実権主義的傾向の持ち主であったが、そういう彼にしても、手段媒体をそれ自体のために開発するということは理解しがたいことであっただろう。技芸を方法にとり換えたところに、世紀末芸術のマニエリスムが胚胎したのである。方法とは合理化され、理論化され、1つの抽象に変換された技芸にほかならない。

ようするに、デザインができない人の特徴はこうなる。
1.求められているものが何かをちゃんと捉えることができない
2.求められてるものにあったカタチを、様々な素材の組み合わせを使ってイメージすることができない
3.イメージを組み立てるための素材のストックが少なすぎる
4.目的という開始地点から、ゴールという最終地点に向けての旅を計画することが苦手
5.自分でデザインすることの意思が弱い、責任感が弱い
このいずれか、または、複数に当てはまるとデザインという方法を使って、プロの仕事をすることが困難になる。

人間の活動をすべてラインを引くこととして理解しようとしているティム・インゴルドの『ラインズ 線の文化史』にこんな記述がある。

読むことにおいて、ひとは物語を語ること、旅することと同じように、前進しながら何かを記憶する。つまり記憶という行為はそれ自体が一種の行為として考えられていたのである。テクストは読むことによって記憶され、物語は語ることによって記憶され、旅は実行することによって記憶される。すなわち、あらゆるテクスト、物語、旅は、見出される対象ではなく、踏破される行程なのである。そして、一つひとつの行程が同じ土地をめぐるものであったとしても、それはみな他とは異なった運動である。どんな実践も、記述物やルート・マップから簡単に「読み取られる」わかりやすいものではあり得ない。

大事なのは「一つひとつの行程が同じ土地をめぐるものであったとしても、それはみな他とは異なった運動である」という感覚を持つことだと思う。

カタチをすでに形作られたものとしてしか扱えない姿勢をやめ、自分自身で「他とは異なった運動」の結果、カタチをどう生むか、どういう運動をすれば、それはいま求められるカタチを成すことにつながるのか。そんな風に自分の運動を計画的に考えること。
それがこれからのプロの仕事に求められる基本姿勢だろう。

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