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地球に降り立つ/ブルーノ・ラトゥール

百科全書的な知が必要になってきているということだろうか。

アクターのリストはどんどん長くなる」。

アクターネットワーク理論を提唱する社会学者のブルーノ・ラトゥールは最新の著作『地球に降り立つ』でそう書いている。
明らかにテリトリーの奪い合いが起こっている利用可能な土地や資源が限定された地球のうえ、お互いに利害的にはぶつかり合い、侵犯し合うこともあるほかのアクターたちといっしょに「それぞれが自分の居住場所を見つけていかねばならない」僕たちは、自分のテリトリーを確保するためには、どんなアクターが何を望み何をしようとしているかを知ることが不可欠だ。それには「ありったけの調査能力が必要になるだろう」というラトゥールの考えには納得感がある。

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とうぜん、そうした多様なアウターとの関係を調査し、知り得たことを記述し語り得るようになるには、かつての博物誌的な知識が必要になる。いま、科学はもう一度、その姿勢を大きく変えることを求められているのかもしれないと思うのだ。

目録を作る

いま、必要とされる知のありようは、まるで古代ギリシアやローマ、あるいはそうした古代に憧れたルネサンスの時代のような、古い博物学的な世界に舞い戻ったかのような知的態度だ。とにかく集め、記述することが大事である。

では何をすれば良いのか。第一に、これまでとは違う記述を作り出すことだ。地球が私たちのために用意してくれたものをすべて調査し目録を作る。

こう、ラトゥールがいうように、僕らに必要とされる知のありようは、とにかくさまざまなアクターたちが何をしているかの記述を作成することだ。
『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』でラトゥールは、記述することの重要性を問いていた。

記述するということは、具体的な事態に注意することであり、目の前の状況に固有に妥当する報告を見出すことです。

と。
アクター同士の依存関係のネットワークを辿ることこそが、「社会的なものを組み直す」真に社会科学的な活動であると考えるラトゥールは、「上手い報告とは、ネットワークをたどることなのである」といい、「ネットワークは、何かを記述するのに役に立つツールであって、記述される対象ではない」と書いていた。

と同時に、こうも言っていた。

記述することが途方もなく労力を要することを、私自身いつも実感してきました。

簡単にやれることなんて望まないほうがいい。怠け者すぎる僕らはいつでも楽な方にばかり流れて、簡単なことばかりを相手にし、「途方もなく労力を要すること」を避けたがる。しかし、自分たちがこの狭く小さな地球上で、これからもほかのアクターたちと依存しあいながら生き抜いていこうとするのなら、途方もなく労力を要することだって、積極的にやっていかなくてはいけないはずだ。

それが記述することだ。

とにかく地球ひとつでは足りないのだから……

「もはや誰にとっても、確実な「安住の地」はない」現在、僕らには「今後も現状をつねに超えていく近代の夢を見続けるのか、それとも自分たちと子孫が暮らせるための新たなテリトリーを探し始めるのか」が問われている。

これまでのようにグローバル化に夢を見続けることはできないし、かといって単純にローカルに後退することもできない。米国や英国のようなExitの姿勢で世界からの離脱を進めても、ようするに、それは自分の取り分を守るために他者を排除しようとしているのにすぎないのだから。

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とにかく地球ひとつでは足りないのだから、僕たちは、互いに利害の異なる多様なアクターたちとのあいだで互いに依存し合いながら生き抜いていくにはどうすればよいかを政治的に考える必要がある。

見えなくなった居住場所を記述し直そう。そういう提案をしない政治はすべからく信頼できない。記述の段階を省いて前に進むことなどできない。〔記述抜きの〕予定表だけの提案はどんな政治的虚言よりも恥知らずなものだ。

ガリレオ以来、天空から地球を「客観的に」眺めていた僕らは、再び地上にしがみついて周りのどんなものたちと依存関係にあるかを気にしながら、この地球の上をよく観察してみる必要がある。
地球が、地球のごく表面付近のごく薄い膜のような圏内で起こることに、僕らは拘束されているのだから、そこで起こることをとにかく記述しないといけない。僕らはそのつながりを記述することで、確かなつながりとして、依存関係として、それを肯定的に受け止める必要がある。

それが新しい科学のあり方になる。
それは20世紀半ばの観念史家のアーサー・O.ラブジョイが「存在の大いなる連鎖」と呼んだ、ヨーロッパの16世期くらいまでは伝統的に受け継がれてきた、マクロコスモスとミクロコスモスのあいだがつながり、占星術や錬金術が科学であった世界がふたたび舞い戻ってきたかのようでもある。
宇宙はひとつの大いなる連鎖だった。
ガリレオのように遠いどこかの星からの視点で、地球をただの太陽のまわりをぐるぐる回るちっぽけな惑星だなんて捉えていなかった。

ラトゥールはいう。

私たちは科学の力に最大限依存する必要があるが、その力に付随する「自然」のイデオロギーとは決別しなければならない。また、私たちは唯物論者、合理主義者でなければならない。近代人が捉えようとしてきたそうした性質を正しい土台の上に置く必要がある。
(中略)
陸や水からなるグローブ(地球)は人間行為にどのように応答してきたのか。近代化プロジェクトは、それを予測するのを2世紀のあいだ「忘れていた」。そんなプロジェクトを「現実主義的」と呼べるだろうか。

地球はたしかにちっぽけな惑星だ。僕ら全員をこれからも養っていくには小さすぎる。
けれど、それはガリレオが天空から小さな惑星としてみたような小ささではない。
だって、そのちっぽけで狭すぎてテリトリーの取り合いになっている地表で行っていることですら全部を記述しようとしたら「途方もなく労力を要すること」なのだから。僕らはその労力を要することに「忘れる」ことなく目を向ける「現実主義者」である必要がある。これからもこのちっぽけな場所で生き抜くために。

クリティカルゾーン

繰り返そう。地球をプラネットと見る、遠巻きな視点はいらない。
科学的客観性なる幻想で遠い宇宙から彼(地球)を眺めながら、都合よく無責任に彼の資源を無銭飲食で食べ散らかしていた僕らに、彼はついにキレたのだから。

経験科学はとくに、クリティカルゾーンと呼ばれる領域の科学を自ら選び取ることが重要である。宇宙から見たとき、「第3のアトラクター」であるテレストリアル(大地、地上的存在、地球)に関わるすべての事象は、大樹と地質基盤の間の、わずか数キロの厚みしかない驚くほどの薄いゾーンで起きている。バイオフィルム〔生命の薄膜〕、膠、皮膚、無限に折り重なる層ともいえる場所だ。

ついにキレて僕らの身勝手な行為に、あらゆる形で反論を返し始めた、ラトゥールが「テレストリアル」と呼ぶ、大地であり、地上的存在であり、非惑星的な意味での地球は、グローバルかローカルなのかという近代的な論争とは異なる視点を僕らに与える。
テレストリアルが3つめの新しいアトラクター(引力)となって、僕らの視点をグローバルとローカルのあいだのせめぎあいから抜け出すきっかけをくれる。

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僕らはいま彼に首根っこをつかまれて地面に這いつくばされながら、天空からは見えなかった地上付近で起こる様々な惨状から目を背けられないようにされている。「人間行動に対する地球の反発は、地上世界がガリレオ的物体で構成されていると信じる人々には異常事態と映り、ラブロック流のエージェントの連結で構成されていると考える人々には自明と映る」とラトゥールはいう。気候変動だって、パンデミックだって、この世界が「ラブロック流のエージェントの連結で構成されていると考える人々には自明と映る」はずだ。

ラブロックとはもちろんガイア理論の提唱者である、あのラブロックだ。
ラブロック流のエージェントの連結で構成された地球が3つ目のアトラクターとしてのわがままで反論する地球=テレストリアルである。
それは宇宙のなかのちっぽけな惑星ではなく、たくさんのアクターたちが生き抜いていくためには手狭にはなったアクターたちのテリトリーであり、それが地球の薄膜としてのクリティカルゾーンだ。

あなたに関わることのすべてがこの薄いクリティカルゾーンで起きている。(中略)何もかもがこのクリティカルゾーンで起きているという事実は変わらない。それが私たちに関わる科学の出発点であり、終着点である。
だからクリティカルゾーンに関わる知識を実証的知識の領域から取り出さなければならないのだ。テレストリアルの葛藤について語るとき、宇宙全体のことについて思い悩む必要はないのである。

僕らが記述していなくてはいけないのは、このクリティカルゾーンのことである。このクリティカルゾーンをみる視点、実はすこし前に紹介したエマヌエーレ・コッチャの『植物の生の哲学』にも近いものがある(コッチャのその本、続けて紹介したのが「ルネサンス庭園の精神史/桑木野幸司」、そして、このラトゥールという流れにも何か感じてもらえれば幸いだ)。
コッチャの「息をするとは世界を作ること、世界に溶け込むこと、そしてその永続的な営為の中で、自分のかたちを再び描き出すことをいう。世界を知り、世界に浸透し、世界とその精気によって浸透されることをいう」なんて、記述はまさに、ラトゥールが求めているクリティカルゾーンの1つだろう。

いま起きていることを人間というアクターしかいない人間中心の世界として描くのではなく、ほかの生物も、非生命的な物質も、人工物も含めて、存在し依存し合う世界の連携するさまを僕らはちゃんと観察し記述することで、自分たちの生きる生命を確保し直すため、もう一度ちゃんとこの「地球に降り立つ」必要があるのだ。


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