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いま、庭でどう過ごせばよいのか?

ここ数日、外出機会を減らして家にいるようにしている。
木曜日はリモートワーク。金曜日と月曜日はたまってた代休消化にもともと当てていたので4連休。
都合5日間、出勤はしないことになる。

丸1日のリモートワークは、そもそも集中が得意な方なので、邪魔するものが何もなく作業だけしてることになって普段以上に疲れることがわかった。途中でオンラインでもいいのでミーティングでもしないと、集中が続きすぎてしんどい。

それ以降の金曜日からはどうせ出かけないのだしということで、いつも以上にゆっくり読書でもして過ごそうと考えた。

悪疫の流行する都市を逃れて

こういう時は外に持ちだすことが面倒な大きく分厚い本を選ぶのがよい。

こういう事態を想定していたわけではないが、そういう分厚く重たい本は何冊かストックされている。
その中から桑木野幸司さんの『ルネサンス庭園の精神史』を選んだ。以前に紹介した『記憶術全史』が面白かったので買っておいたのだ。

多少は予測して読み始めたのだけど、いまの時期にぴったりな一冊だと3分の1ほど読み終えて思う。

というのも、ルネサンス期に変化する庭園の形をまずもたらした文芸的想像力の1つとして挙げられるボッカッチョの『デカメロン』が「滑稽で機知に富み、時に猥雑な場面も含んだ100の小話からなる本作が、1348年にフィレンツェを襲ったペストの惨禍の生々しい記憶から生まれたことはよく知られている」というような作品だからだ。

「一節には4-5万人もの死者を出したというその未曾有の疫病は、花の都の人々の心を極度に荒廃させた」という。「その淫靡暗黒の世界からの再生と秩序の回復をめざして書かれたのが『デカメロン』で」あり、その物語は10人の若いフィレンツェ人の男女が、悪疫の流行する都市を逃れ、「清涼で健康な空気を求めて近隣の小邑フィエーゾレに」集い、そこで10日間にわたって、毎日めいめいが一話ずつ合計100の小話を披露しあって過ごす話だからだ。

ヨーロッパには、シェイクスピア演劇(『お気に召すまま』『冬物語』など)に代表されるような牧歌劇、田園詩=パストラルの伝統がある。
古代ギリシアにはじまり、ルネサンスに復活して流行するというよくあるパターンだが、この牧歌劇では都市から離れた田舎で精気を養って都市に凱旋するという、ある意味、英雄の復活のバリエーション的なものなのだが、このボッカッチョの着想も同じイメージを古代に負ったものだ。

まあ、危険を避けるために一時的な避難をすることで危険が去ることを待つというのは、人類にとって当たり前の行動といえるのかもしれない。
問われるべきは、その避難の最中に何をして過ごすか?ということであって、その観点で、このルネサンス庭園をテーマにした本はタイムリーに興味深い内容だったりする。

『デカメロン』の庭

避難の最中に何をするか?という話をするためにも、まずはもうすこし『デカメロン』の話を続けよう。

この『デカメロン』において、ボッカッチョは、後のルネサンス庭園の原型となるような庭園のイメージを先行して提示する。
SF小説が先んじて未来を描き出すのと同じ想像力によるものだろう。
いつの時代も、芸術が先、現実は後なのだ。

庭は全体を壁で囲われ、一見すると中世的な「閉ざされた庭」の系譜に連なる外観をまとっているが、そこには明らかに時代の新風が吹き込んでいた。園内には中央ならびに外周に沿って直線の経路がびしっと走って空間の幾何秩序を生み出し、その上には葡萄の蔓棚がアーチ状に架かって緑のトンネルを造っている。園路の両脇には目も綾な白薔薇、赤薔薇、ジャスミンが叢生して極彩の花の雲となり、重く垂れた葡萄の熟果の芳香とまざって、オリエントの香水のように甘く濃厚な空気があたりを包んでいる。(中略)こうした美感を綴りながらボッカッチョは、しきりと視覚と嗅覚の快を強調する。けれども果実をもぎとり、賞味することを考えれば、味覚と触覚の喜悦も当然愉しめたことだろう。まさに感覚的な快美に満ちあふれた庭といえる。

代表的なところでは、時代をくだったヴェルサイユの庭に見られるような直線的な区画、トピアリーと呼ばれる装飾/幾何学的剪定術、噴水技術、たくさんの植物による構成などは、ルネサンスの庭園術によって確立したものと言われている。

それまでの中世の庭は、耕作用の実用的なものか、聖書の記述に基づく抽象的なイメージで現実を伴わないもので、よく知られるヨーロッパ庭園のイメージのものではない。

あとに紹介するように、15世紀以降、メディチ家などの富裕市民が郊外にヴィッラと呼ばれる施設を作るのと同時に、ルネサンス庭園の様式も作られていくことになるのだが、ボッカッチョが14世紀の作品である『デカメロン』で描きだした庭園のイメージはまさに、1世紀のちに現実なものとなっていくルネサンス庭園の要素を予見しているのだ。

この噴水の記述の次には、園内に20種類あまりの鳴禽類、100種類もの動物たちが放し飼いにされていることが付け加えられる。この庭を飾っている幾何学的な園路やヴォールト天井風のパーゴラ、彩り豊かな花壇、多彩な動植物のコレクション、高度で複雑な噴水装置や水路網といった要素はいずれも、15世紀以降のルネサンス庭園を典型的に特徴づけるディテールだ。いわばボッカッチョの文学的想像力が、後世の造園美学を1世紀以上先取りしていたのだともいえる。

このルネサンス庭園を先取りした庭で、悪疫を逃れた10人の若者は互いの知る小話を共有し合う。
知の交流の場としての庭園である。
都市の日常では行われなかった知の交流が悪疫を逃れて訪れた休息の空間において可能になる

ここに僕らが学ぶ点があるのではないか。
学校が休校になり、仕事もリモートワークなどが迫られたり、イベントや外食などの日常の娯しみを制限された僕らが学ぶべき点が。

プラトン・アカデミーの活動の場であったヴィッラ

そうしたボッカッチョらの文芸によるイメージが先行したルネサンスの庭園が現実になるのは先にも書いたとおり、次の世紀、15世紀に入ってからである。
それを推し進める原動力となったのが、メディチ家に代表される富裕市民層である。

もともとメディチ家など金融によって富を蓄えた富裕市民層が、より安定した投資先として都市郊外の農耕地を買い占め、そこに「農地を一元管理し、収穫物の保管や加工のための拠点として」、「ヴィッラと呼ばれる施設」を建設し、それに付随するものとして庭園を敷設するようになったことがはじまりなのだという。

メディチ家がフィレンツェから4キロほど離れた、馬で移動すれば1時間ほどで着くカレッジという土地に持っていたヴィッラは、マウリシオ・フィチーノやピコ・デラ・ミランドラら、プラトン・アカデミーの面々が集い、古代ギリシアのプラトンのアカデメイアさながらの哲学的な議論が行われる場であったという。

ここでなぜ唐突にプラトン・アカデミーの話をもち出したかといえば、この伝説的な知的集団な主要な活動の舞台となったのが、じつはカレッジのヴィッラと庭園であったといわれているからだ。(中略)カレッジのヴィッラがネオ・プラトニズムの展開と密接な関連を有していたこともまた確かだ。たとえばリーダー格のフィチーノは、この閑雅で静謐な別荘の環境をことのほか気に入り、畢生の大作『三重の生について』(1489年)を同窓で執筆したことを、後年の書簡(1490年)で述懐している。メディチ家の人々は、親しい間柄の知識人たちにヴィッラを自由に使わせていたのだ。また先に触れたように、老コジモや孫のロレンツォはカレッジに足しげく通ったことがわかっているから、滞在中に、アカデミーのメンバーらと哲学的な談論が風発したとしてもおかしくない。

ここでも都市から離れた、自然と人工が混ざり合った場が、知の交流の場となる

この本を読みながら面白いと思ったのが、この点だ。
だから読むのをすこし中断して、これを書いている。
もうすこし話をして進めてみよう。

都市の喧騒から離れて

カレッジのヴィッラを、知の交流の場として使ったのは、マウリシオ・フィチーノや、ピコ・デラ・ミランドラのような知識人たちだけではなかった。
ヴィッラのオーナーであった、コジモやロレンツォら、メディチ家の人々もその話に積極的に参加しているのである。知は知識人たちだけのものではなかった

フィレンツェや、その他、現在のイタリアという国として統一されている地域にとどまらず、アヴィニョンやロンドンなどに至るまで銀行の支店をもち、当時のヨーロッパの政治的・軍事的情勢を左右していた側面をもっていたメディチ家当主たちにとって、都市での生活は、非常にストレスフルなものだった。

彼らは、その都市を離れて、このヴィッラに休息を求めて訪れたのだ。
コジモなどは植物の栽培が好きで自らさまざまな接ぎ木の技術を開発したという。ヴィッラに庭園がつくられるのは自然な流れであったのだ。

知識人たちとの知の交流もまた、都市の喧騒やストレスから逃れて行う休息に必要不可欠な要素だったのだろう。

ヴィッラ内のロレンツォの書斎には、セネカやトゥキディデス、聖アウグスティヌス、ダンテ、ヴィッラーニ、プルチら聖俗の著作が多数所蔵されていた一方で、フィレンツェ市内のメディチ本宅の書斎にあったような珍品奇物のコレクションは見当たらない。物質的な豊かさや表層的な新奇性を誇示するのではなく、静謐な学究ないしは思弁や詩作の場としてこの地が想定されていたことが推察される。

やはり、都市の日常から離れて行うことは学究であり、思弁であり、詩作なのだ。

実際、このカレッジのヴィッラには、フィチーノやピコら以外にも、さまざまな詩人や芸術家が訪れている。
その中には画家のボッティチェッリもいて、彼の有名な作品「プリマヴェーラ(春)」はこのカレッジの庭に着想を得たものだと言われているのだ。

都市の日常を離れてすることは何か?ということを考えるさせられる。

ロクス・アモエヌス

そもそも庭園のような自然のなかで学び、知的な交流を行うという伝統は、カレッジでのプラトン・アカデミーの元ネタともいえる、古代ギリシアのプラトンのアカデメイアに遡ることができるのだ。

ここで注目したいのが、西欧哲学揺籃の地アテナイに咲き誇った哲学学校の庭である。なかでも最大の名声を博したのが、プラトン(前427-347年)が前387年頃に開園したアカデメイア学園であった。同園はアテナイ市の北西1.5キロの郊外に位置する。霊妙森厳な雰囲気がただよう聖林・体育場の中に位置していた。その樹林は古の英雄ヘカデモスにちなんでアカデメイアと呼ばれ、そこに居を構えたプラトンの学園といつしか同一視されてゆく。後世に伝わるプラトンの数々の哲学対話篇の名作は、この緑豊かな環境で執筆されたのだ。実際アカデメイアは生い茂る樹木の豊富なことで有名で、プラタナスを筆頭に、オリーブ、水松、白ポプラ、ニレなどの巨木や喬木の蓬々たる茂みが、一帯を欝然と蔽っていたという。

学びというものを、室内で行うものと考えるのは1つのバイアスだということが、この話から気づかされる。
そして、机に向かって1人で黙々と行うことが学問というより、そもそもこうした日常の喧騒から離れた議論の場こそが学究の場にふさわしいのだろう。そこには書類を処理したり、ディスプレイに向かってばかりする机やテーブルは不要だ。それらはむしろ議論することの、知の交流を行うことの障害となるのだから。

であれば、本来の学びも、仕事も、創造も、都市のような場所ではできないのではないか?
むしろ、そんな都市の事務や喧騒、ストレスから自由な休暇の場でこそ、そうした活動は行われるべきなのではないか?

美しさと快適さを兼ね備えた優しき自然の一画は古来、さまざまな文学や哲学の舞台となってきた。文芸においては一般に「ロクス・アモエヌス(心地よき場/悦楽境)」と呼ばれる定型的な場面設定(トポス)である。(中略)自然の美と快を人工的に増幅した庭園という空間もまた、当然のこと定型的なロクス・アモエヌスとなりえた。庭もまた、いや庭こそは、愛・智(フィロソフィア)のための理想の環境だったのである。プラトンが郊外の神さびた聖林を選んで自身の哲学学校を開いたのは、きっとそのような心地よき自然/庭が秘める知的活力を知悉していたからに違いない。

違う意味での緊張はあるものの、しっかり社会から距離をとってさえいれば、僕らはある意味、いま、このロクス・アモエヌスな状況を手に入れやすいのではないだろうか(もちろん、そうでない人もいると思う)。

少なくとも、僕はこの何日かは幸運にもその状況を手に入れられている。これはこれで幸運だと思う。

せっかくの悦楽境だ。存分に楽しみたい。


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