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お気に召すまま/シェイクスピア

牧歌という理想郷的自然。それほど人工的な夢想はない。
そこは自然の見せかけで彩られてはいても、あまりに人間じみた時のとまった世界である。

『シェイクスピアの生ける芸術』のなかで著書のロザリー・L・コリーは、シェイクスピアの『お気に召すまま』について、こう書いている。

このロマンティック・コメディの大枠の構造は、まさに標準的な牧歌劇の型―― 追放や出奔の後、自然界で休息=再創造(リクリエーション)としての滞在をし、そしてついには、流謫の地から「本来の住処へと」帰還する、それも田園で同胞(kind)と情(kindness)に触れることで道徳的な力を強められて帰還するという型―― を踏まえている。

「自然界で休息=再創造(リクリエーション)としての滞在」、そして、帰還。

なんとも夏休みに読むのにぴったりの本ではないか。
だから、僕も夏休み最終日にさくっと読んだ。1時間ちょっとでさくっと読めるのがシェイクスピア作品のいいところだ。

牧歌劇とは

ヨーロッパ文化史についてのおすすめ7冊」でもすこし紹介したが、ロザリー・L・コリーは、「駆け出しの頃から、文学の素材……文学上の慣習、伝統、ジャンル、様式、創作に利用できるありとあらゆる要素や道具……を扱うのが驚くほど巧みだった」とシェイクスピアのことを評している。
そのシェイクスピアがその形式を用い、さまざまな応用をしたものの1つが「牧歌劇」という形式だ。

牧歌劇は、羊飼いの生活、あるいはそうした農園労働者に混じって田園生活を送る人々の生活を、ロマン主義的に描いた演劇で、16世紀のイタリアに登場している。自然と人間の調和を歌うことの多い牧歌劇は、劇形式としては悲劇と喜劇を融合させたものとして知られてもいる。

1588年から90年頃に書かれた『ヘンリー6世 第1部』でデビューしたウィリアム・シェイクスピアにとって、それは同時代の新しい演劇形式だったといえる。

そして、それ自体、悲劇と喜劇の混淆スタイルである牧歌劇は、文学の素材を巧みに扱う才に富むシェイクスピアにとって、そこからさらなるバリエーションを考案するのに打ってつけのスタイルだったのではないだろうか。
現に、彼は『冬物語』や『リア王』、『テンペスト』といった牧歌劇の牧歌劇らしくないバリエーション作品を生んでいる。

その彼にとって、牧歌劇らしい牧歌劇といえるのが、この『お気に召すまま』なのだ。

羊飼いたちの住む黄金の世界

典型的な牧歌劇は、華やかな宮廷からの流謫、流謫の地での休息の日々、そして、その地で仲間やその他の力を得ることで、華やかな宮廷へと帰還する、そうした一連の流れをもつ。

その意味でこの『お気に召すまま』でも、理想郷的自然の場であるアーデンに幾人もの登場人物が、流謫されてくる。

劇のはじまる前からすでに流謫されていたのが、ヒロインの父でもあり、その弟によって公爵領を簒奪された元公爵である。

その彼は、登場の最初のセリフでこう語る。

公爵 吾がさすらいの友であり兄弟である皆はどう考える、慣れてしまえば、こういう日々の暮しも、あの虚飾に彩られた宮廷のそれよりは遥かに楽しいものでないか? 猜疑に満ちた宮廷よりこの森の方がずっと危険が少ないとは思わぬか? ここでこそ私たちはアダムの受けた罰を、四季の移り変りを身に沁みて感じはしないだろうか?

そう、この言葉のとおり、彼はこのアーデンの地に流されてきたことをすこしも嘆いてはいない。むしろ、彼はお供をする者たちとともに、このアーデンの森での狩や羊飼いたちとの暮らしを楽しんでいる。

あとからやってくる公爵の娘であるロザリンドも同様で、羊飼いの小屋を買い、そこで暮らし始めるのだ。

劇中では、そうした彼らと羊飼いたち、あるいは羊飼い同士の会話を通じて劇は進んでいく。それについてもロザリー・L・コリーの分析を引く。

羊飼いの生活についてのこのお喋りは、この劇では主題のうえで重要であるが、その背後にはより壮大な人類学的概念が潜んでいる。それは、黄金の世界という(牧歌の)神話、生まれつき善意しか知らない人々のあいだに完璧な交流や相互扶助が存在する「古き世界」、すなわち黄金時代の親和である。古典期には、牧歌的生活は黄金時代に営まれたとされた。そこで人々は相互信頼のもとに暮らし、羊や家畜の群をともに養い、生まれながらの性質は彼らが住む優しい世界に調和し、財産はみなで心地よく安らかに共有していた。

ギリシア神話では、黄金時代、白銀時代、青銅時代、英雄時代、鉄の時代と時代は流れる。
時代が下るにつれ、人間は堕落し、世の中には争いが絶えなくなるのだが、クロノスが神々が支配していた黄金時代においては、人間は神々とともに住んでいて、不死ではないものの不老長寿で、あらゆる産物が自動的に生産されるので労働の必要もなかったとされる。それゆえ、争いも犯罪もない、調和と平和に満ちた時代が黄金時代だ。

なるほど、確かにアーデンの森は、黄金時代さながらの平和で争いのない世界である。

時がとまった世界

クロノスがゼウスにとって変わられた後、白銀時代が訪れるのだが、そのクロノスが時間の神であるというのが重要だろう。

というのも、このアーデンの森、まさに夏休みであるかのように、人々は、労働の時間や日常の時間から切り離されて過ごしているからだ。

後からやってきた主人公のオーランドが「飢死にしそうなのだ、食う物が欲しい」と言えば、公爵は剣を抜いて突然あらわれた見ず知らずの彼に対して「腰を下ろして食べるがよい、喜んで食卓を共にしよう」と返して、「そうまで優しく?」と森の醸し出すものにまで慣れていないオーランドの方があっけにとられる始末。

あらゆる産物が自動的に産出されるとまではいかなくても、狩をすれば簡単に労なく獲物が獲れるのだから、確かにこの森は、争いのない平和な黄金の土地だといえる。そこで人々は仕事を忘れた夏休み中の人たちのように、呆けて暮らす。

ふたたび、コリーの言葉を引く。

一面だけ見れば、アーデンは現に休日であり、それゆえ無時間である。それは回復と贖いの契機を与え、いまや矯正され浄化された現実世界の、パロディ風の、より高邁な模倣となる。アーデンでは、愚者たちはまぎれもなく輪のなかにいて、男たちは鹿肉と葡萄酒で優雅に宴を張る。

本来、自然というのは変化をともなうものだ。ほっておいても時とともに姿を変えてみせるのが自然である。その変化は突然訪れたり、そうかと思うとほとんど変化が感じられなくなったり、予想がつかないものでもある。
その意味では、牧歌といい、あたかも自然を謳歌するような歌い方がされたとしても、その光景は時間の流れや変化を排除している点で、自然を偽装した不自然な人工的な書き割りなのだ。

夏休みがいつかは覚める夢のような時間であるように、牧歌の時間は現実的ではない。
そして、どんなに時間の流れを忘れたつもりでも、現に時間は止まらない。

だが、我々がたえず思い起こさせられるように、彼らがそうしているあいだにも時は流れ、時計はなくても人々は熟れて腐っていくのである。

そう。夏休みの真っ只中にいると時間の流れがわからなくはなるが、それでも時間は過ぎてゆく。
ちゃんと時間の流れる外の世界からは、公爵を追放した弟フレデリックが軍勢を従えて、アーデンの森への進軍を進めているのだ。

終わらない夏休み

ところで、僕たちの夏休みは本当に終わる/終わったのだろうか?

あらゆる産物が自動的に産出されるのが黄金時代、牧歌の世界だとしたら、あらゆる商品はもちろん、交通や宿泊や医療などのサービスも有償ではあるものの自動的に提供され、それどころか場合によっては仕事そのものすら自動的に与えられるような現在の生活において、その日々の暮らしはいったいアーデンの森とどこが違うといえるのだろう?
「男たちは鹿肉と葡萄酒で優雅に宴を張る」牧歌の時間=変化を欠いた空間は、現代の日常的な空間は、何か違いはあるだろうか?
考えなくても仕事が与えられ、自分で考えることなく日々敷かれたレールの上をあちこち移動するだけの自動運転の生活。これは21世紀の黄金時代でなくてなんだろう。

僕らはその意味で、永遠の夏休みの時間のなかにいるのかもしれない。決して抜け出すことのできない夏休みの真っ只中に。

いろいろあって宮廷への回帰が決まった公爵は、集まった人々に対して、こう言う。

ところで、まずこの森の中で事の決着をつけておこうではないか、めでたくもこの森で始まり、この森で実を結んだ事の成行を。

公爵たちの夏休みはこうして終わりを告げる。

それに引き返し、僕らの夏休みはいったいいつになったら終わるのだろうと嘆かわしくなる。
時間はいつ動きはじめ、僕らが変化に参加し自ら変化をつくりだせるよう考え行動しはじめられるのは、いつの時代だろうか。

人工的な書き割りのなかで考えもなしに自動運転のような暮らしを続けながら、刻刻と自然環境が悪化していくのも忘れてすごす永遠の夏休み。
いま、あらためてルネサンス期の牧歌劇を読んで感じるのはそんなことだ。


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