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接触仮説

自分と同類とばかり一緒にいると、ちがう視点に立てなくなり、ちがう価値観を理解できなくなる。これは大きなデメリットだ。

いま読んでいる『絶望を希望に変える経済学』という本に書かれた言葉だ。

2019年のノーベル経済学賞を受賞したアビジット・V・バナジー & エステル・デュフロという2人の経済学者による指摘は、 BLMや香港のデモなどに代表的にみられる、現在ますます悪化しているように感じられる格差や差別、それにともなう異なる集団同士の誹謗中傷や暴力の問題に関するものだ。

個々人ではまともな判断をする人たちが、自分の仲間、同志と呼べるような集団のなかに入ると、途端にまともな判断から逸れていく

集団間のコミュニケーションの断絶

「人々は合理的な判断に基づき、自分自身の意見を引っ込めてまで集団に従うものだ」と著者らは言い、こう続けている。

集団の外の意見が遮断されていたら、事態は一段と悪化するだろう。最終的には異なる意見を持つ排他的な集団がそれぞれに孤立し、他の集団とはほとんどコミュニケーションをとろうとしなくなる。

集団間のコミュニケーションの断絶により、集団間の誤解はさらに悪化し、関係性は危機的な状態に陥る
BLMや香港のデモなどは、これが顕在化したものだろう。
そして、コロナ禍で世界中でよりいっそう明らかになった、それ以外の格差や人種間、ジェンダー間の問題もまた、ここで指摘されているとおり異なる集団間でのコミュニケーションが欠如することで、同じ事情が正反対に解釈されることが日常茶飯事となり、もはや対立、衝突の温床でしかなくなっている
いつでも戦争に発展しかねない有様だ。

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危機が対立を加速させる

争いによって生命にも危機が及ぶという点では、これも気候変動同様の持続可能性の問題にほかならない。SDGsにおいて、貧困やジェンダーや平等の問題が17のゴールのなかに含まれる意味があらためてわかるというものだ。

『絶望を希望に変える経済学』で、著者らはこう書いている。

民主主義の意味が薄れていけば暴力が拡大する。アメリカでは黒人、女性、ユダヤ人に対して、インドではイスラム教徒や下位カーストに対して、ヨーロッパでは移民に対して、という具合に。暴力の拡大は、現在の二極化された状況で、一国の指導者も含め、剥き出しの暴言が容認されるようになったこととおそらく無縁ではあるまい。暴徒化する群衆や銃乱射なども、虚偽の情報に翻弄され被害妄想的な思考が渦巻く中から出現したものと思われる。

BMLや、香港デモにおいて暴力が加速していくさまは、まさに異なる集団同士がたがいに異なる虚偽の情報に翻弄され被害妄想に陥った結果なのだろう。

現実世界でもそうなのだが、地球規模での人類滅亡の危機が訪れた世界を描いた、劉慈欣の『三体Ⅱ 黒暗森林』でも、やはり異なる考えをもつ集団同士がたがいに疑心暗鬼になり、誹謗中傷合戦や暴力による争いに発展していく様が繰り返し描かれる。

「社会がぴりぴりして、なにかうっかりしたことを口にしようものなら、ETOだとか反人類主義者だとかレッテルを貼られるから、みんなびくびくしていた。それから、黄金時代の映画やテレビ番組が規制されはじめて、やがて全世界で禁止になった。もちろん、数が多すぎて完全に禁止なんかできなかったがな」

「移民の増加、格差の爆発、新たな気候体制――実はこれらは同じ1つの脅威である」とブリュノ・ラトゥールが『地球に降り立つ』で指摘したとおり、危機的な状態の到来は、限られた資源の取りあいを誘発し、コミュニケーションが断絶したもの同士を敵対関係にする

ティッシュペーパーやマスクを買い占めていたのが記憶に新しいだろう。
そうした個人間の争いがやがては集団間の対立に発展する。
若者と高齢者の間の対立関係が生まれたり、自粛派と経済をまわす派の対立が生じたように。

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異なる集団が断絶するインターネット空間

個々人としては、それほどおかしな考えをしない人たちが、なんらかの集団に加担している気になったところからおかしくなっていく。

そん集団間の断絶が起こりやすいのがインターネット空間ではないだろうか。

2人の経済学者はこう指摘する。

インターネットのコミュニケーションではとかく揚げ足取りやあら探しがされやすいため(ツイッターはとくにそうだ)、単純化した単刀直入な表現が好まれ、経緯や背景の説明が省略されがちで、注意深い慎重な議論の基盤が失われつつある。その結果、ツイッターは汚い言葉や強引な宣伝の格好の実験場になってしまった。

まさにツイッターを見てると、コロナ禍以降、政治的対立が誹謗中傷、暴言、言い争いの嵐となっている。ひとつの発言が文脈を外され、異なる集団間でまったく異なるものとして解釈され、終わりのない対立に発展して、溝は大きくなるばかりなのを日々見かける。

それはリモートワーク(テレワーク)が中心となった仕事の環境でも似たようなことが起こり得ている。
似たもの同士はオンライン空間でもなんら問題ない(ような)コミュニケーションを続ける。しかし、もともと腹の内になにかをもっていた者同士、集団同士はオンラインでしか繋がりえない距離がますます溝を含めて、たがいを疑心暗鬼にする。

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防御から攻撃に

なぜ異なる者とわかりあえないのか
わかり合うためには、その過程でかならず自分を一部でも変える必要があるからだ。
これができないのだ。

ふたたび『絶望を希望に変える経済学』から引こう。

人間は考えを変えるのを嫌うものだ。なぜなら、変えるということは、最初の考えがまちがっていたと認めるからである。また私たちは、自分の倫理観を問われるような情報も避けようとする。

自分の間違いを認識することを避ける。
自分の一部であってもみずから、それを否定する機会が訪れることを回避する。
自分を守りたい
自分の取り分、自分のものである資源を失いたくない感情と共通してある。
利己的な考えが、他者を敵と見做し、排除する方向に気持ちが傾いてしまう

僕が未知を知ろうとすることの大事さを繰り返し伝えているのも、こうした利己的な姿勢に流れてしまうことをなんとしても避けなくてはならないと思うからだ。それはここまで見てきたとおり、持続可能性に関わる問題なのだから。とにかく知を愛する心が必要だと思う。「学びの願望」があるかどうかだ。

「こうした回避戦略の深みにどんどんはまっていくのは時間の問題である」と『絶望を希望に変える経済学』の著者らは言う。

たとえば自分を人種差別主義者と考えたくないので、誰かに対して否定的な意見を抱いた場合、その誰かを責めることで自分を正当化しようとする。そこで、小さな子供を連れて不法に国境を越えるからいけないのだ、と移民の親たちを責めることで心の安らぎを得ようとする。あるいは自分が正しいという証拠を見つけようとする。どんなささやかなニュースでもいいから探し出してそれにすがり、他のニュースは無視する。

この防御で済めばいい。

しかし、外部の拒絶はかならず外部に対する疑心暗鬼を生む。疑う心がありもしない他者の陰謀をでっちあげはじめる。

これも劉慈欣が『三体Ⅱ 黒暗森林』で描いていたことだ。
疑心暗鬼は他者が自分たちのかけがえないものを奪いにくるという妄想を育み、それなら、やられる前にやってしまえ!という発想〜行動に人を駆り立ててしまう

やがて、最初は本能的な防御反応だったものが、次第に隙のない論拠らしきものを形成するようになる。そうなると、自分の意見と相容れない主張は、いかに健全に見えようと、自分の倫理観に対する攻撃であるとか、自分の知性に対する侮辱だというふうにみなすようになる。そうなった時点から対立は激化し、暴力的になりかねない。

こうした断絶からの暴徒化を促しやすいのがインターネット空間だろう。
オフラインでの接触がいまだ制限され、オンラインでのコミュニケーションが中心となっている現状で対立が表面化しやすいのもそのせいだろう。

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接触仮説

ラトゥールはこう書いている。

換言すれば、パニックに近い空間識失調の感覚が、現代政治の場を縦横に回遊しているのだ。私たち全員の足下で地面が一斉に崩れ始めている。私たちの住処も、所有物も、すべてが攻撃対象となっている。そうした感覚なのだ。
自然を守れと言われたときと、自分のテリトリーを守れと言われたときでは、湧いてくる感情が違うことに気づくだろう。自然を守れと言われれば、あくびは出るし退屈なだけだ。しかし自分のテリトリーを守れと言われると、目が冴えて瞬時に臨戦態勢を取り始める。

気候変動によって居住可能な場所が減るのではないかというおそれ、あるいは移民が押し寄せてきて自分たちの仕事や空間を奪うのではないかという不安、経済格差や人種やジェンダーの違うもの同士がたがいに自分を守ろうとするがゆえの争い。
誰も彼もが自分を、自分のテリトリーを守ろうとして臨戦態勢に入っていきそうになる

断絶が疑心暗鬼を生み、コミュニケーションの欠如が異なる者同士がわかり合う機会をなくしてしまっているのだとしたら、もっと異なるもの同士がつながる場や機会があればよいのではないか?と考えたくなる。

そして、実際、そう考えた人がいたことを2人の経済学者は教えてくれる。

人種差別、反移民感情、支持政党のちがいによるコミュニケーションの断絶といった問題の多くは、初期段階で接触のないことに原因があるの考えられる。心理学者のゴードン・オルパートは1954年に「接触仮説」を発表した。適切な条件の下では、人同士の接触が偏見を減らすうえで最も効果的だという考え方である。他人と時間をともにすることで、相手をよく知り、理解し、認められるようになる。その結果、偏見は消えていくという。

『絶望を希望に変える経済学』では、異なる集団と過ごした経験がある人たちの方が、その経験を持たない人たちよりも、異なる集団と協力しあうことができるもいう実験結果がいくつも紹介されている。
オルパートの接触仮説の正しさが証明されているのだ。

しかし、接触仮説には、それが成り立つ条件があるようだ。

オルパートの接触仮説では、接触が偏見を減らす効果を発揮できるのは、一定の条件が満たされたときだけとされている。接触をする時点で集団同士が対等の関係にあること、共通の目的があること、集団間の協力が可能であること、監督機関や法律や慣習などの後押しが得られることなどだ。

これらの条件が満たされない場合、「敵対関係にある集団を強制的に一緒にしても、接触の好ましい効果は得られない」のだという。
2つの集団がすでに対等の関係ではなくなってしまっている場合には、「強制的に一緒に」することはかえって対立を加速させ、衝突を招いてしまうというのだ。

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目的を共有できないか、夢の共有は?

ひとつ前に「新しい夢をみる」という記事を書いた。

この絶望的なまでに断絶され、たがいに敵対関係にある、各自が自分(たち)のなかに閉じこもって妄想で外部を敵視しあっている状態をなんとか変えていくには、いっしょに新たな夢をみる、みるための夢を描く作業をしていくしかないのでは?と思うからだ。

共有すべきは、きっと目的なんではないか?と思う。
それぞれ自分(たち)の内部に引きこもった人類を、いまの自分から変えて、ともに地球の生存可能な薄膜のことを考えていけるポストヒューマンに変身してもらうためには、その目的をともにつくっていく作業を共有するしかないのではないだろうか。

とにかく、僕らは自分たちを変えなくてはいけない
他人に変わってもらうことを強要するのではなく、自分たちもいっしょに変わることに同意しなくてはならない。
だからこそ、自分という殻を破るために、未知を愛する姿勢が不可欠だ。

そのとき、接触仮説に基づくなら、夢づくりという目的をともにする人たちは、対等の関係でその作業に当たれるようにしなくてはならない

「失敗を招く単純な理由がある」とラトゥールは言う。
「それは、方向づけの概念に結びついている」のだと。
僕らはいまこそ対等な立場で目的を共有しなおすことができる環境をつくるという意味で、政治の意識を変えなくてはならない。

見た目とは違い、政治の要は政治意識ではなく、地球の形と重さなのである。政治意識の機能はそれに反応することだ。
政治は対象、掛け金、状況、物理的実体、身体、風景、場所に常に向けられている。いわゆる守るべき価値とはつねに、あるテリトリーが抱える課題への反応である。そしてその課題を各テリトリーが記述できること、これが条件である。これこそ政治的エコロジーが発見した確たる事実である。つまり、対象に適応させた政治ということだ。そのため、テリトリーが変われば政治意識も変わる。

記述
コミュニケーションの断絶が問題であればこそ、「課題を各テリトリーが記述できること、これが条件である」というのはもっともだ。

『絶望を希望に変える経済学』もまた、偏見や誤解をファクトフルネスな記述により、改めようとする本である。

僕らに必要なのは、偏見や誤解にしか通じない思い込みで語ったり、考えたりする自分の殻にとじこもった思考スタイルをやめることだろう。
そして、つねに自分の間違いに気づけるようファクトデータを机上において、他者とともにこれからも地球上で生き続けるための夢を語りあうことではないだろうか?




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