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痕跡の確保

ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』は吸血鬼小説などではない。

たしかに僕もそんな風には読まなかった。それは前回の紹介を読んでもらえればわかると思う。
けれど、フリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』中の、この読みは言われてなるほどだが、読んでいて思いつくことはなかった。

主人のディスクールというものの可能性の条件そのものを清算することが問題なのであれば、男たちと女たちは、もはや互いに秘密を持つことは許さない。ストーカーの『ドラキュラ』は吸血鬼小説などではなく、われわれの官僚制化(オフィスによる支配の貫徹)についての案内書なのであろう。それを恐怖小説と呼ぶことも自由である。

何百年も生き長らえてきた吸血鬼ドラキュラがタイプライターで記録された情報を操る19世紀末ロンドン市民たちによって滅せられる。
けれど、この世紀末において滅ぼされる旧来的な勢力はドラキュラのみではない。手書きの速記法という専門的技能を駆使する弁理士ジョナサン・ハーカーの専門性は、まさにその妻となるミナ・ハーカーが操るタイプライターによって駆逐されるのだ。タイプライターを手に入れ、オフィスに進出しはじめる女性たちの台頭は、この小説においては、ドラキュラ退治に集まる男たちに唯一参加するミナによって象徴されている。

「1874年、アメリカ南北戦争の終結以来生産過剰で経営が悪化していたレミントン兵器工場は、最初の大量生産可能型タイプライターを発売した」という。『ドラキュラ』が出版されたのは1897年だから、それより20年とすこし前のことだ。そのタイプライターは、「しかし、奇妙なことに商業的成功はその何年か後のことであった」のだそうだ。

すべてのジョナサン・ハーカーたち--主人のディスクールを同時速記し、清書に起こし、場合によってはインクを湿らせるか何かして社内資料用に写しを取る、といったことを仕事とする、これら男性秘書たち--が、この新しいディスクール機関銃を侮蔑的に拒否したのである。ひょっとすると彼らは単に、その長い就学期間をかけて習得したこの手書き文字という持続的で文字どおり個別的な、すなわち彼らをそれぞれ独立した諸個人として結び合わせ、狂気から守ってくれる紐帯に、過度な誇りを抱いていたのかもしれない。

と、キットラーはタイプライターの市場での普及が遅れた理由を推測している。そして「ハーカーがトランシルヴァニアへ旅行用タイプライターを携行しなかったのは、レミントン・タイプライターの技術的後進性のせいではない」と言っている。そう、考える理由はこうだ。

彼が後に妻とするマリー嬢が5ヶ月後に同じ目的へと旅に出た時には、その旅行用タイプライターはとうに発売されていて、彼女はそれに胸を躍らせていたのである。

実際、ミナはドラキュラを追いかけ、東欧に向かう旅にタイプライターを持っていっている。
そして「旅行用のタイプライターを発明した人に、私はほんとにお礼がいいたい」と10月30日の夕方の日記に書いている。もちろん、それもタイプライターで。

これを1台手に入れてくれたキンシーさんにも同様に感謝している。ペンで書いていたら、とてもこんな面倒な仕事は面倒くさくてできなかっただろう。

この記述は、ドラキュラ追走の捜査からある理由によってしばらく外されていたミナが久しぶりに復帰して、自分がいないあいだに手書きの日記という形で残されていた記録を、読込み、タイプライターで記録しなおすシーンでのことだ。タイプライターが時間短縮を可能にしてくれたおかげで、先に進んでいた男たちからの遅れをあっという間に取り戻す。
旧時代の記録方法しか用いることのできない男たちに対する、新しい記録方法としてのタイプライターを操るオフィスレディーとしてのミナの優位性がここにある。だから「官僚制化の案内書」というわけだ。

僕もこの文章をはじめとするnoteでの記述は、スマホとnoteというアプリがなければこんなに頻繁にはできない。同じような時間短縮、面倒なことからの解放が、手書きからタイプライターによるタイピングの間でも起こったのだ。
キットラーはこう書いている。

束ねられたデータが約束するのは、誰にでも読めるものであること、そしてその処理に最低限の時間しか要しないことである。そして、データ処理時間のエコノミーによって初めて、超自然的なものの電撃戦略への反撃が可能となるのであるから、セワード博士がフォノグラフに書き込んだプロトコルもタイプで転写されねばならない。

データの入力が短縮されたことはデータの集積やそれを用いた分析力を格段に上げ、鉄道の発達で陸路での移動が格段に早まったことと相まって、旧時代のパワーであるドラキュラを簡単に追い詰めることを可能にした。

しかも、短縮されたのはデータの入力時間だけではない。「2週間のタイプライター速習コースが7年間の学校教育を、意味のないものとしてしまった」というように、男性が長い就学期間を経て身につけた手書きによる速記法そのものを無意味化し、女性が文字通りあっという間に「ひとつの労働市場の隙間を占拠してしまった」というようなことが起こったのだ。ほかでもないオフィスという環境において。

彼女たちの競争相手たち、すなわち19世紀の原則的に男性であった秘書たちは、その高慢さゆえにこの隙間を見落としたのである。レミントンの販売部門とその広告業者は、単に職を持てずにいた女性たちという集団を見出すだけで、ちょうど1881年という意義深い年のことであったが、タイプライターを大量生産品目とすることができたのである。

もちろん、ドラキュラが簡単に追跡できる時代だ。記録されたデータの蓄積の分析を駆使して、どんな難事件でも解決する誕生するのはその時代においては当然のことだろう。むろん、1887年に『緋色の研究』ではじめて登場したシャーロック・ホームズのことである。

エジソンとフロイト、ヴァン・ヘルシングとホームズ--ギンズバーグの美しい言葉を用いるなら、彼らは皆、科学の新しいパラダイムを創設したのである。痕跡の確保という名の科学である。

キットラーがそのホームズと、『ドラキュラ』においてその追跡をリードするヴァン・ヘルシングを並んで記述し、さらに蓄音機などで音さえも記録可能にしたエジソン、そして、精神の謎解きの先駆者であるフロイトを同時代人と並べて、彼らの功績を「痕跡の確保」の科学と呼ぶセンスは素晴らしい。

なんだかんだ言っても大きな意味ではいまだ僕らもこの「痕跡の確保」の延長線上にいる。その確保の頻度は自動化されることでより精度を細かくなり、もはやそれを分析するのも自動化され、ホームズやヴァン・ヘルシングは必要とされない。
現代ならドラキュラがいくら神出鬼没だろうと常に居場所はgoogleマップなどを使えば一瞬にわかるだろう。きっといろんな人がその様子をSNSでアップしてくれているはずだし。ミナ・ハーカーのタイプライターがスマホに進化したことは言うまでもない。

第4次産業革命の時代と言われるくらい、僕らはまだまだ最初の産業革命の延長線上にしかいないように思う。その意味では今がそんなに大それてイノベーションの時代にというわけでもないと思ったほうが良いだろう。そのあたりは冷静に見極めたいね。

タイプライター小説、あるいは、OL小説としての『ドラキュラ』。
そのオフィス革命を扱った作品であって、ドラキュラ退治などは、単に女性の役割が重要になったオフィスで扱われる一事例でしかない。
そういうビジネス小説、イノベーション小説として読んだ方が、いま『ドラキュラ』を読む意味はある。

つまり、本そのものよりも読む力。
対象のせいにするのではなく、自分の力が足りないことをどうにかすることをもっと考えよう。

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