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ニック・ランドと新反動主義/木澤佐登志

未来への希望がゼロとなった状態を見通す、どこまでもダークでホラーな思想。

それなのに何故だろう。
暗い見通しを表現したものをとにかく好む傾向が僕にはある。
小説でも、音楽でも、映画でも、絵画でも、そして、こうした思想書でも。特にイギリス発のダークな作品はジャンルに関わらず、ずっーと以前から好きだ。

その意味で、この本もとても良かった。
木澤佐登志の『ニック・ランドと新反動主義』
ペイパル創業者にして、Youtubeをはじめ、LinkedIn、Airbnb、 Space X、 Tesla Motorsといった錚々たる企業への投資を行う投資家であり、トランプ支援者であるピーター・ティールのリバタリアン的思想、暗黒啓蒙という思想の源泉となる思想を展開したカーティス・ヤーヴィン、そして、タイトルにもなっている加速主義的思想の父ともされるニック・ランドという、未来にシンギュラリティ的な暗い特異点をみる現代の思想的な展開について紹介する1冊。

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今年の5月に出版される前から話題になっていた一冊らしい。僕もamazonでずっとレコメンドされていた。なので、内容もほとんど知らないまま、なんとなく気になっていたのだが、最近ようやく買って読んでみた。

イグジットを目指すリバタリアン

先入観も何もなく、読み進めていたのだけれど、読み進むほど、興味がわいて、面白くなった。

当たり前といえば当たり前だけど、この時代のさまざまな問題――多様性を志向しつつどんどん不寛容さを増す社会、経済的格差、環境破壊、シンギュラリティという恐怖、民主主義というシステムの限界などなど――を前に、現在、僕らはみな、今後どのような姿勢を取るかが問われている。
そうした状況において、この本に登場する人たちの選択する姿勢がことごとく、未来をどうしようもなく暗いものと想定して、そこからの"イグジット"を志向するところが新鮮で興味を惹かれたのだ。

たとえば、民主主義制度に関しては、こんなことが書かれている。

リバタリアンは「イグジット」というコンセプトを対置させる。民主主義制度のもとで愚直に「声」を張り上げるのではなく、黙ってその制度から立ち去って、新しいフロンティアを開拓していく。これこそが、リバタリアンが選択すべきもっとも賢明なプログラムとなるだろう。

従来の左派リベラルが精神的な自由のみを求め、経済的な自由に関しては比較的無頓着で経済的な制約が課せられることに寛容な面があるのに対し、ティールらリバタリアンは精神的な自由と同時に経済的な自由も求める。自分たちの経済活動に対し必要以上に政府が介入することを拒否する。

その経済的自由を求める点では、右派保守派と同様だが、保守派が精神的自由に関しては政府の介入に寛容であることを考えると、リバタリアンは左でも右でもない姿勢をとる。

左なのか右なのかは、ようするに、精神性を重視するか、経済性を重視するかという二者択一を迫り、前者が労働者視点で、後者が富裕層的視点というマルクス主義的な対立の構図を前提としているところがある。
あるいは、精神とモノという二元論な対立の構図とも見ることができる。

啓蒙が覆い隠してきた人間の根源的なあり方

だから、そういう観点からみれば、リバタリアンが問題視するのは、人間は物自体に近づくことができないとし二元論の構図に人間を閉じ込めたカント以降の思想であり、そして、その構図のなかで展開される資本主義的な社会をブルジョワと労働者の対立の構図の解消の問題と位置付けたマルクス的な思想からなる西洋的「近代」そのものだ。

カント以来の近代の嘘を問題視するという点において、最近紹介しているブリュノ・ラトゥールグレアム・ハーマンらの問題意識と重なる部分もなくはない。もちろん、思弁的実在論のカンタン・メイヤスーとも。

けれど、ティールらが近代的なものを批判するのは、その近代の偽の構図への盲目的な信頼が、その構図の外部からの攻撃に晒されて危機的な状況をつくってしまう点にも向けられるという意味では、ラトゥールやハーマンの問題意識とはすこし異なる。

ティールは言う、17世紀後半以降、つまり啓蒙の時代以降、西洋はヒューマニズムという普遍的かつ偽善的な価値観のもと人間の根源的なあり方を覆い隠してきた。その根源的なあり方とは、人間に潜在する暴力性と悪徳である。ティールからすれば、オサマ・ビンラディンとは、モダニズムが抑圧してきたものの文字通り暴力的な回帰なのだった。そして、この西洋の「外部」からの暴力の洪水=テロリズムが、我々を健忘症的な眠りから叩き起こすだろう、何かのあやまちから「啓蒙」と名付けられたこの深い眠りから……云々。

啓蒙が隠した「人間に潜在する暴力性と悪徳」。
いま19世紀の歴史家ブルクハルトが書いた『イタリア・ルネサンスの文化』という本を読みながら、驚いているのだが、14-15世紀のルネサンス期のイタリアは、まだ統一されておらず、なおかつそれまで半島全土を支配していた教皇権力が弱まったために小さな専制君主国家が群雄割拠し、それぞれ存続のために隣国を併合しようと攻め入ったり、同時に国の内部での権力争いから暗殺事件は多発し、家族間での相続争いも多くの専制君主やその家族の命を奪うのが当たり前だったということを知り、ティールらが指摘する「人間に潜在する暴力性と悪徳」というものにあらためて納得感を感じている。

そして、まさに、そうした人間の「根源的なあり方」がさまざまな場面で噴出しているのだといえるのが、現在だといえるだろう。
この本には繰り返し、ニーチェの名が登場するのだが、次のようなニーチェのルサンチマンはまさしく現在デモや誹謗中傷という形であちこちで日々表出している、寛容性を欠いた者同士の衝突の根源にあるものだろう。

ニーチェは、平等主義を信奉する心理の根底にはルサンチマンがあると指摘している。「毒ぐもタランチュラ」という具合を用いてニーチェが指摘するところによれば、隠れた復讐心を持つタランチュラは、権力にありつくことができないという嫉妬心から、「われわれに対して等しくないすべての者に、復讐と誹謗を加えよう」と企てる。

自由、平等、博愛。
フランス革命のスローガンであり、第3共和制においてフランス共和国の標語として取り入れられた、この近代が目指した3つのキーワードが覆い隠そうとした人間のダークな側面がいま噴出しており、その流れの思想的側面にこの本はフォーカスしている。

他者の取り扱い方

近代の啓蒙への批判として「暗黒啓蒙」というコンセプトを打ち立てるのが、この本の主人公ともいえるイギリス出身の思想家ニック・ランドだ。
ランドは、ティール同様に、カント以降の近代の啓蒙的なあり方を疑問視し、資本主義の経済性とテクノロジーによる変革をより加速させることで、近代的なあり方からのイグジットを目指す。

その際、ランドがそこからのイグジットを目指す近代とは、たとえば、このようなものである。

ランドからすれば、近代の狡知とは他者の取り扱い方にこそあった。植民地主義に始まる西洋列強の外部世界への拡大志向、それは還元すれば他者を自己=西洋の内部へ際限なく取り込むことを意味していた。もちろん、他者との相対は常に自身の自己同一性を揺るがす危険な経験となりうる。よって、西洋における近代の課題とは、いかに自身の自己同一性を保ったまま他者を自己の内部に「同化」させるか、というものとなる。と同時に、そこに啓蒙のパラドックスがある。なぜなら、他者を自己に同化させた瞬間、それはすでに本来的な意味での他者とは言えなくなるからだ。そこには自分の鏡像、つまり他者の抜け殻しか残らない。

この他者を自分の内部に同化させ、他者を抜け殻のようにしてしまう近代における「他者の取り扱い方」は、なにも植民地主義に限らない。地球環境も同じように扱ったからこそ、現在のような環境危機が訪れている。それは自己の精神に対する、自己の身体に対しても同様だったといえる。精神面を重視しすぎるがゆえに身体は置き去りにされた。
そして、現在の自分とは異なる者たちに対するヘイトも、誹謗中傷も、デモ活動も結局、この延長線上にある。内部化を試みようとしたのに、それが叶わなかった場合、子供が駄々をこねるように暴れまくるのは、それこそ「近代の狡知」の成れの果てなのだろう。

こうした傾向をもたらした「この啓蒙=近代のプログラムを完成させるための重要な位置を占めたのが、誰あろう哲学者のイマヌエル・カントであった、とランドは論じる」とされるのだが、この自分の意識のモニター越しにしか、他者を見ることができない、まさに「物自体」としての他者には接触できないというような、他者の取り扱い方こそが、イグジットすべき近代として捉えられているのだ。

他者は主観側の相互作用によって表象として現象する。これが、ランドが「抑制された総合」と名付けるものである。つまるところランドの認識によれば、カントによる「抑制された総合」とは、他者の他者性を圧殺するためのプログラムに他ならず、またそうである限り、近代における西洋列強の植民地主義とも相即するものであったと見なされる。

「抑制された総合」。
その校閲が入りまくりの捻じ曲げられた「総合」的な外部の表象にしか目を向けられない近代のあり方が、その視界への外部へと追いやった者どもからいっせいに視野の外からの反撃を受けているのが現在だろう。
環境が僕らに牙を向き、AIやバイオなどのテクノロジーが僕らを脅かす。そして、人間同士がたがいに不信感をいだきながら、イタリア・ルネサンス期の専制君主たちがそうだったように、いつ身の危険に晒されるのかという不安に怯えながら生きなくてはならなくなっている。

加速主義のヴィジョン

ランドは、こうした状況から抜け出す=イグジットする方法として、加速主義を唱える。市場化を加速し、テクノロジーによる変革を加速する。その先に、シンギュラリティのような特異点を創出し、近代の考え方では捉えることがようなものを生み出し、そこに逃げ込むことだ。

ニック・ランドは左派加速主義のムーブメントに対して明確に批判的である。左派加速主義は経済とテクノロジーを切り離して取り扱うことが可能だと考えている。だがランドによれば両者は一体のものであり、市場化の加速なしにテクノロジーを加速させることは不可能であるという。ランドは「テコノミック」なる合成語を挙げながら、「加速はテコノミックな時間である」と書きつける。そして次のような結論を述べる。「加速主義とは資本主義の自己認識に他ならない。そしてそれはまだほとんど始まっていない」

だから、ランドは、イーロン・マスクが推し進めるような火星への移住にも肯定的だし、トランスヒューマニストたちの目指すマインドアップロードにも肯定的だ。

以前に紹介したアダム・フランクの『地球外生命と人類の未来』という本でも主題に関係するものとして扱われた「グレートフィルター仮説」というものがある。これは、物理学者エンリコ・フェルミによる、宇宙にある膨大な恒星の数からすれば地球のような惑星が恒星系の中で形成され、宇宙人は広く存在していて、そのいくつかは地球に到達しているべきだが、実際には1つもそのような事例のないことを指摘した「フェルミのパラドックス」に対する、1つの回答として示されたもので、それは高度に発達した文明を創出するような知的生命体が惑星に生まれた場合、戦争や環境破壊などの問題を引き起こし、恒星間移動の技術を発達する以前に滅亡してしまうからだというものだ。

ランドの思想も、このグレートフィルター仮説を前提としている。

ランドがグレートフィルター仮説から抽出しようとするのは、より未知で不定形な存在論的ホラーの感覚である。私たちはXリスクを未だに摑みきれていない。真の根源的な絶滅可能性は、常に私たちの認識(あるいは科学的知)の〈外部〉にとどまっている。そのような〈外部〉からのサインを、認識を経由せずに直接的に感覚してしまうこと、それこそがランドにとってのアブストラクト・ホラーという概念であり、ひいては哲学的知による実践に他ならない。

人類を消滅に導くXリスク。僕らはそれが何かも認識できていない。未来にあるのは、その真っ暗で得体のしれないホラー=恐怖だ。

その恐怖からのイグジット。ランドが思い浮かべる思考は、「屍者の帝国/伊藤計劃×円城塔」でもすこし紹介した19世紀末のロシア宇宙主義、それを主導したニコライ・フョードロフの思想とも重なっていく。

ニコライ・フョードロフは19世紀後半に活躍したロシア宇宙主義を代表する哲学者。彼の哲学によれば、発展していく科学技術は、外界たる世界だけでなく、やがて自分の器官そのものにも向けられる必要があるという。つまり自分の器官を統御し、発達させ、根底から変容させるべきなのだ。人間はやがて空を飛べるようにならなければならないし、水中で生活できるようにならなければならない。しかし、それだけではない。「人間がもっとも元素的な物質、すなわち原子や分子から、自分自身を復元できるようになってはじめて、天上の空間の全てが、天上の世界すべてが、人間のものとなる」。

フョードロフは、「最後の審判」でキリストが再臨し、すべての人類を生き返らせるというヴィジョンの実現をテクノロジーの力を使って早めようとした。すべての人類が生き返ったら地球という環境では手狭だろうと、地球外で生きる道を探ってもいる。
まさに、ランドの思想の先達ともいえる狂ったヴィジョンの持ち主だった。

しかし、その加速主義のヴィジョンが狂ったように見えるとしても、それ以上に狂っているのが、近代以降から現在に至るまで続くこの社会システムだというランドらの指摘に共感するところは大きい。

けれど、リバタリアンらのいう、経済的自由というのも、カントが精神とモノを切り離したのとほぼ同時近代に、ジョン・ローのフランス銀行による紙幣の発行を基点として、モノ(硬貨)としての価値と貨幣の額面の価値とが切り離されたことをもって、拡大が可能になったことはやはりほぼ同時期にゲーテが『ファウスト』に書いているとおりで、結局のところ、それ自体、近代に絡めとられた思想でしかないとも思い、そこにはまるで共感できない。

そういう異論は結構あるが、最初にも書いたとおりで、この世界に対するダークな認識自体には大きく惹かれ、共感することが多い。この本で紹介されているマーク・フィッシャーの本などもあらためて読みたくなった。


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