見出し画像

黄昏

もやもやする、という言い方が嫌いだ。もやもやしてる状態を嫌うような姿勢が感じられるからだ。
という僕自身は、つまり、もやもやした状態が嫌いどころか、歓迎したいくらい好みだ。なんだか腑に落ちないものがある状態、気持ちが晴れない状態こそ、チャンスがある。違う場所に足を踏み入れるチャンスがあると思うからだ。

黄昏が「誰そ彼」であることを示すように、夕暮れには人の姿が見分けにくくなり、表情や輪郭はぼやけてしまう。人間と亡霊の区別もつけがたい。世界が薄明のなかに沈んでしまうことで、自分の存在までもが夕闇にまぎれて、自他の境界が溶暗してゆく。この寄る辺なさゆえか、黄昏は逢魔が時(大禍時)と呼ばれて恐れられた。

「もやもやする」というのは、この大禍時としての黄昏に似ている。上の引用はとりあえず田中純さんの『都市の詩学』からのものだが、この黄昏感自体は日本の古代の研究などで常に語られることだ。
自他の境がなくなる、この黄昏の時は、2つの世界の境界にある領域だ。それは単なる境界線ではなく、2つの世界のどちらにも属していない中間領域で、私でもなければ彼でもなく、生きているのでもなく死んでいるのでもないから、もやもやする。

ちょうど、境界の時間である黄昏は、場所でいえば、「虹の下で」で紹介したような辻や巷であり、その境界の場所である辻や巷で、境界の時である黄昏時に、行われたのが夕占という占い。
視界があやしくなった黄昏時に辻に立ち、通り過ぎる誰か彼の話す言葉を耳にし、それを神の託宣として聞く占いだ。

この占いを通じて、神の託宣を聞き分けられるかどうかが、もやもやを苦にせず、むしろ、好むことができる瀬戸際だと思う。いや、なにもオカルト的なことを言いたいわけではない。
それが結局、物事が不明瞭な状況から何か自らに役に立ちそうな徴候を見つけだし、そこから自分自身で答えを組み立てられる力があるかどうかということに他ならないからだ。「もやもやする」と愚痴をのぼす人にないのは、ようするに、自分で状況を打開するためのヒントを見つけ、それを自分に納得いくような説明に落とし込む技術でしかない。

田中純さんは、占い師が未来を解読する手がかりを見つける能力を、狩人が動物の手がかりとしての痕跡を見つける能力に、こんな風に重ねてみせる。

この「予言」という言葉も示唆するように、狩人的パラダイムと古代メソポタミアにおける占いのパラダイムとは酷似している。狩人が獲物の糞、足跡、毛、羽毛を仔細に探るように、占いの場合には動物の内臓、水面の油、天体の配置に運命解読の手がかりが求められる。狩人も占い師も痕跡を「読む」。ギンズブルグは、物語を語るという思考そのものが、痕跡の観察を通じて「あるものがそこを通った」という物語的な配列を生み出す、狩人の経験から生まれているのではないか、と推測している。部分から全体を見て、結果から原因を探る狩人の痕跡解読法はそもそも換喩的なものであり、叙事詩的な物語の文飾に通底しているからである。

既存の知識や方法にばかり頼って、自分自身の考えを1から作りだすことができない人に共通しているのは、この狩人や占い師的な痕跡を見つけて読む力だ。
深い森や先行きの見えないもやもやする状況で、みずからが進むべき道を見いだすために、自分で痕跡を見つけだし、その部分から「あるものがそこを通った」といった話の流れをみずから紡ぎだす力が欠けているから、もやもやを嫌う。ようは自分でそこから抜けだす術を持たないから嫌うわけだ。

この能力が、狩人や占い師のような、非現代的な人たちだけではないのは、田中純さんが紹介してくれる、ベンヤミンが写真家の能力を論じる、こんな話からも感じられる。

こうした点から見るとき、写真家を「鳥占い師や腸卜師の末裔」と呼び、都市という「犯行現場」を撮影した写真のなかに罪を発見して、誰がその犯人かを示す使命が写真家にはある、と書いたベンヤミンは、写真を徴候として解読する、1種の推論的知について語っていたことが明らかとなろう。ベンヤミンによれば、その原理はホフマンスタールが言う「まったく書かれなかったものを読む」ことである。写真家カール・ ダウテンダイが婚約時代の妻と一緒に写っている写真を取り上げ、その映像の目立たぬ箇所に「火花のような偶然」が残した「焦げ穴」に似た予兆(具体的には妻の自殺の兆し)を認めようとするベンヤミンは、過去において将来到来するはずだったものを、写真を媒体とした回顧を通じて発見するために、バビロニアの占い師にも似た身振りで推論的知を働かせている。この知を彼は、魔術的な照応や類推、類似の認識を行なう、太古的な「模倣の能力」と呼んだ。

都市もまた、もやもやした異界の地である。日常的にはごくごくシステマティックに整備されたルーティンが行われる場のように見えつつも、時にそれは黄昏時のような表情を見せ、なにか不可解なことが起こっているかのような不安を呼び覚ます、もやもやした場所である。

都市の写真家はそのもやもやした黄昏の場所に何かの痕跡を見つけだす。それは何か目的のもの(獲物である動物そのもの)を直接探す行為とは違い、目的へと通じるサイン、しるしとしての痕跡を見つけようとする行為だ。

だからこそ、「推論的知」というわけである。それはパースのいうアブダクションだと田中さんはいう。

アブダクションは絶対確実な推論などというものではなく、あくまで蓋然的な仮説形成の営みである。それはいわば「憶測」なのだが、この憶測によって仮説を形成し、それを検証することがなければ、知識は何ら前進しない。パースはそこに、無意識に行われる近くレヴェルの判断が働くと考えていた。

憶測をつくれないから、前進するための知識も得られない。
もやもやから抜け出す力がないためにそれを嫌う人たちは、この憶測に賭ける覚悟が足りないのだろう。何でもかんでも確実と思える他人の力に頼ろうとしすぎる。だから、まわりが見えない黄昏のような状況で立ちすくんでしまうのだろう。推論の覚悟とそれへの慣れが必要だ。

そして、おそらく同時に必要のは、推論による仮説としての憶測をちゃんとすぐに検証しようとする態度だろう。憶測を推論として採用できない原因は、かっこつけたり恥ずかしがったりして、他人に評価を求めたり意見を聞いたりする検証ができないことにもあるはずだ。間違えていることを指摘することを恐がるから、自分の推論に検証できない。それができないから、そもそも推論ができなくなる。

この世がほぼすべて黄昏時だと思っていれば、そんなことにはならないのだけど、しっかりしたシステムやルールが確立して、いろんなことをわかった人ばかりが暮らす世だと思っていると、むしろ逢魔時に囚われてしまう。

イノベーションぁこれほど日常茶飯事に求められるトワイライトゾーンのようなこの社会環境において、何かそれをやれぼ正解に辿り着くような方法を前提にしていること自体、間違っている。いわゆるデザイン思考に代表される、イノベーションのための方法論は、それを扱う人か基礎的な力としての推論的知力をもっている前提で、それが機能するスピードや規模、確実性をブーストするには役立つが、0に何をかけても0であるように、そもそも個々人がみずから仮説を紡ぎだすアブダクション力をもっていなければ役に立つはずがない。

だからこそ、痕跡を見つける力とそれを読む力の二重の推論力が欠かせないのだろう。

そして、その痕跡を徴候として読むためには、もう一度、推論的知が必要とされる。写真家はこの二重の徴候解読を担うがゆえに、「鳥占い師や腸卜師の末裔」なのである。写真のなかに隠されたしるしを読みとろうとすることばかりが、この占い師の占術なのではない。むしろ、現実世界の時空につかの間現れる「イメージ」としての痕跡を、視覚のみならず、聴覚、嗅覚、直感、皮膚感覚、あるいは記憶や感情まで一挙に働かせて捕捉し、瞬時の判断によって定着する高速の認識と技術によってこそ、写真家には狩人や占い師のアルカイックな身振りが残存していると言えるのである。

この引用でもわかるように、推論としての痕跡は現実的な意味では写真のような記録に完全に定着させることはむずかしい。それが元より、「視覚のみならず、聴覚、嗅覚、直感、皮膚感覚、あるいは記憶や感情まで一挙に働かせて捕捉」するようなものだから。
僕自身の経験でも、同じようなことごある。何らかの推論的な発見などを他の人に共有するときにそれは起こる。発見をまとめたドキュメントを元に、それがどんな発見だったかを話して伝えた場合にはよく伝わったのに、あとでそのドキュメントだけ見ても、伝わるための何か大事なものがそこには見つからなくてなっていたりする。それは他人が見て、そうだというのではなく、僕自身が見ても、あの発見はどこへ行ってしまったかと感じたりもする。

結局、それが痕跡のもつ性質なのだろう。それはドキュメントや方法のようなシステムで捕らえておけるものではないのだ。「視覚のみならず、聴覚、嗅覚、直感、皮膚感覚、あるいは記憶や感情まで一挙に働かせて」ようやく「捕捉」が可能な繊細で微小なものなのだ。

そして、アブダクションはそういうあらゆる感覚や記憶を働かせたときにこそ働く推論なのだと思う。それは黄昏時のようなすべてがわかりやすいシステムから切り離された中間的領域、境界領域でしか起こり得ない。

だからこそ、もやもやを嫌うことなく、自分の力で堂々と憶測を働かせる覚悟が必要なのだろう。

#コラム #エッセイ #推論 #アブダクション #デザイン思考 #もやもや #思考 #仮説

基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。