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何かは何故起こるのか?

人は何かの不満を言うとき、何故、特定の対象を指定してその問題点をあげるのか?

そんなこと、あらためて問うまでもないだろう。そう、思う人が多いかもしれない。僕もついさっきまでそんなこと疑問に思わなかった。

でも、あらためて考えてみると、不満の原因ってそんなに簡単に正しく特定できたりするのだろうか。
自らに不満をもたらす原因を、もしかしたらそれが対象であるものに濡れ衣をかけることになるかもしれないとすこしも迷うことなく、ひとつに絞って特定できるような、そんな優れた観察眼や分析力が備わっている人が果たしてそれほどにも多いのだろうか。

そのことのおかしさにふと気づいてしまった。

原因と結果を混同しない

きっかけは、先日から再三紹介している『社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 』のなかのこんな一文だ。

権力は、社会と同じく、あるプロセスの最終結果なのであって、おのずから説明をもたらしてくれる貯水池、備蓄庫、資本なのではない。権力や支配は、生み出され、作り上げられ、組み立てられなければならないものだ。

従来の社会学がさまざまな社会的問題の要因として、社会の非対称性を当たり前のように上げてきたことに対して、著者のブリュノ・ラトゥールは、自ら提唱するアクターネットワーク理論(ANT)の立場からそう書いている。

ラトゥールは「非対称なものが存在するのはその通りだが」と、非対称性があることを否定するのではなく、「それはどこから来ており、どんなもので作られているのか」をちゃんと問おうとしているのだ。

「ANTは権力や支配をどこにやってしまったのか」と詰問する人がいるかもしれない。しかし、私たちは、そうした非対称を説明したいと望んでいるからこそ、非対称という語をただ繰り返して満足したくはないのである―― 非対称のもの何ら改めることなく遠くへ移送するわけにはいかない。ここでも、原因と結果を混同したくないし、説明する側と説明される側と混同したくない。したがって、とりわけ重要になるのは、こう主張することである。

そう。権力を何かの社会的な問題の原因にあげることは簡単だ。だが、それで何かを説明できたことになるのか。そして、もっと大事なこととして、権利を批判して問題に解決になるのか。批判だけでなく、権力を持つ現政権をすっかり入れ替えたりしたら問題は解消されるのか。

そういうことを考えた上で特定の対象に問題の全責任を負わせ不満を言っているのか。その原因の特定は本当に正しいものなのか。

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中間項と媒介子

ラトゥールが区別している2つのものに、中間項と媒介子というものがある。あることがある主体(アクター)に起こるときの、要因となるエージェンシーの2つの区分だといえばよいだろうか。
とはいえ、中間項としてのエージェンシーと、媒介子としてのエージェンシーがあるというよりも、同じエージェンシーをどちらの見方で見ることができ、前者としてみるのが旧来的な社会学的姿勢であり、後者の見方がラトゥールらのANT(アクターネットワーク理論)的な見方となる。

まず中間項に関してラトゥールはこう書いている。

中間項は、私の用語法では、意味や力をそのまま移送(トランスポート)するものである。つまり、インプットが決まりさえすれば、そのアウトプットが決まる。

いわゆる因果関係が成り立つ際に、AとBのあいだをつなぐ、要因といえるCが中間項である。この場合、中間項Cは、インプットであるAが決まれば、間違いなくBを返す方程式のようなものだ。行き先が明確な電車のような移送手段だ。

一方の媒介子は、それほど単純ではない。

媒介子は、自らが運ぶとされる意味や要素を変換し、翻訳し、ねじり、手直しする。

媒介子の行き先は決まっていない。あるものをまた別のあるものの状態へと変化させはするが、いつも決まってそうなるようなものではない。

だから、それはアクターに何らかの作用もするし、作用の結果、アクターが何らかの変化をする際のエージェンシーの役割を担ったのが媒介子であるとは言えるが、それがどんなエージェンシーであり、どう作用したかが容易にはわからないのが媒介子である。

中間項はどんなに複合的であろうとも、実際には、きっかりひとつのものとみなされるだろう―― あるいは、簡単に忘れ去られてしまうこともあるために、物の数に入らなくなる場合すらある。媒介子はどんなに単純に見えようとも、複雑になる可能性がある。

僕は、多くの不満の元として、中間項のような明確に特定できる要因となる対象があるとは思わない。
誰かの、何かのせいにして、自分の問題から来るつらさをどうにかしたいと思う気持ちはわかるが、きっと本当に問題そのものを解決しようとしたら、決して単純ではない本当の理由にじっくりと向き合おうとしないといけないのだろう。

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エージェンシーは報告する

「どんな人やものが私たちを動かしているのかが確実にわかることは決してない」とラトゥールはいう。そして、「しかし」と続けて、「起きていることに対してなされる相反する主張には常に見られる特徴があり、それをリストにすることができる」のだという。

そのリストはこうだ。

①エージェンシーは報告によって定義される
②エージェンシーには何らかの姿形が与えられる
③エージェンシーは他の競合するエージェンシーと対置される
④エージェンシーは何かしらの明確な行為の理論をともなう

ここでは、この4つのリストのすべてに説明を加えている余裕はないが、僕が「なるほど」と思ったのは1つめだ。

ラトゥールはこんな風に説明している。

報告がなく、思考がなく、差異がなく、何かしらの事態に変化がなく、検出力のある参照フレームがなければ、当のエージェンシーについて何か意味のあることが言われることはない。差異を作らず、変化を生まず、痕跡を残さず、報告に入らない不可視のエージェンシーは、エージェンシーではない。

世の中にはたくさんの不満がある。社会問題がある。
けれど、不満の矛先と社会問題の内容が一致するかというと、そうでないケースが多いのだろう。いや、不満の声の大きさに問題の本質が歪んだりもする。

これは不満を発する本人にとっては仕方がないことだと思う。
だが、その問題を分析して、解決に向かわせようとする立場の人にとっては、安易に起こっている現象をひとつの単純な要因に結びつけるような架空の因果関係をでっち上げるのは避けなくてはならない。問題を何か特定の対象のせいだと決めてかかる前に、何かが起こったときにそれに関わったあらゆる人、非人の報告をちゃんと受けることなんだと思う。

マッピング

そこにどんな差異が生じたのか、変化が生まれたか、痕跡が残ったのか、そうしたことを人類学的なフィールドリサーチのアプローチで明らかにすることが大事なんだろう。
特定の原因と結果のフレームワークのバイアスがかかった目で見るのではなく、じっくりと変化の現場に登場する、すべてのエージェンシーの報告を聞くことなんだと思う。
現場の多くの声を聞き、人ならぬ物の声にならない主張を観察によって拾い上げる行為から集めたデータから、現象というまとまりがどんなつながりを通じて生み出されているかをちゃんとマッピングできるようになることが必要なんだろうなと思う。

ありきたりの図式的な構図に当てはまる敵対関係に乗っかって、誰かを悪者にしたところで、この複雑になりすぎた社会における問題はなにひとつ解決しないはずだ。何かひとつをスケープゴート的に悪者にしたところで、それは偽物の因果関係でしかないから、何の問題解決にもつながらない。

「どんな人やものが私たちを動かしているのかが確実にわかることは決してない」。
だからこそ、アクターネットワーク理論という方法をちゃんと理解して、おおよそのアクターとエージェンシーのネットワークのマップを描けるようになりたい。


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