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アクターネットワーク理論

本を買うタイミングと本を読むタイミングは同じではない。

読みたいから買うが、いますぐ読むかは別であることがほとんどだ。家に届いたあと、しばらく積んでおいて、読もうかなと思ったときに読みはじめる。

そんな読み方をしてるからか、多くの本は本当に読みたいときに読みはじめられ、そして、たいていの場合、本当にドンピシャのタイミングで読めたと感じられる。

現代社会を相対化する

今年の2月に買ったブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』も昨夜読みはじめた。500ページ超えの大著なので読むのに時間がかかりそうだが、80ページくらいは読み進められた。
うん。この本も実に良いタイミングで読みはじめられたようだ。すでにそう感じている。

ラトゥールの本を読むのはこれが3冊目だ。『近代の〈物神事実〉崇拝について』昨年の11月に読み『虚構の「近代」』今年の2月に読んだ。2冊目を読んでいた頃、ちょうどこの『社会的なものを組み直す』が新刊として発売されたので買っておいたというわけだ。振り返るとラトゥールとの出会いはまだ1年経っていない。

ラトゥールという人は、社会学者であり人類学者である。彼は、未開の民族をみる人類学的な視点を、自分たち現代のヨーロッパ人の民族的な文化へと向け、それを相対化する。

自分たちが知ってるつもりのそれらのものを相対化してみせることで、自分たち自身が知らないこと、あるいは知らないふりして知ってることがあることを暴きだす。
その意味では1つ前で紹介したソクラテスの無知の知を重視する態度に近い。
自分たちの無知について知るには、ラトゥールが行うような人類学的な目を向けることは1つの方法である。

昨夜、ラトゥールのこの本を読みはじめようと思ったのは、たぶん、そうした流れがあったからだ。

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人とモノの民主主義

ラトゥールは、科学やテクノロジー、社会や文化というもののそれぞれの確固とした純粋さや絶対性を疑い、「近代は自然と社会の混合物=ハイブリッドをひたすら増殖させてきた」と述べた(『虚構の「近代」』)。

そこでラトゥールが問題視したのは、近代がハイブリッドを生んだことそれ自体ではなかった。ハイブリッドを大量に生み出しているのにそのことに知らんぷりしていることだ。

近代人は、自ら生み出す発明が社会秩序にどのような影響を与えるかについてはまったく頓着していない。それが彼らの保険になっている。一方、人類学者の主張を信じれば、前近代人は自然と文化の繋がりを、取り付かれたように入念に調べ上げる。有り体に言えば、ハイブリッドについて熟考する人々(前近代人)はそれをできるだけ制限しようとし、逆に、ハイブリッドをどのような危険にも結び付けずにただ無視しておこうとする人々(近代人)はそれを極限にまで増殖させるのである。

近代は、自ら生みだす自然と人工のハイブリッドに知らんぷりを押し通すことで、それを増殖させた。
人は、自分たちの社会を民主主義の社会にしたが、自分たちが生みだした大量のハイブリッドには知らんぷりを続けていたので、民主主義の主権を与えなかった。
そのため、ハイブリッドたちは好き勝手に暴れ放題。人間は自分たちが生みだしたハイブリッドたちのせいで、社会は大混乱、自然環境は荒れ放題にされてしまった。

ラトゥールはそのことに異議申し立てる。

これまではハイブリッドの増殖を視野の外に置き放置してきたが、それを広く承認された管理生産へと切り替えようというわけである。つまり、新草案における第4の保証--おそらくこれがもっとも重要な保証だろう--は管理生産を担保することである。さて、そろそろ民主主義について語る必要があるだろう。もっともここで問題にするのは、モノにまで拡張された新たな民主主義である。

この人とモノとの民主主義こそが、『社会的なものを組み直す』で語られるアクターネットワーク理論だと言って良いだろう。

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アクターネットワーク理論

人間とモノをともに社会を構成するアクターとして扱うアクター・ネットワーク理論。略してANT。

その理論においては、人がこの世のさまざまなつながりをつくりだすアクターなら、モノも同じようにつながりをつくるアクターなのだ。
「つながり」と書いたが、ラトゥールは人やモノが社会の構成要素として参加するものとは考えず、人やモノがつながることで社会はつねに形成されるものと考える。

だから、ラトゥールにとって社会学は以下のような形で解体されるべきものなのだ。

社会学を、「社会的なものの科学」と定義するのではなく、つながりをたどることと定義し直すことで、社会科学の本来の直観に忠実であり続けることができる。この第二の意味において、社会的という形容詞は、白羊のなかにいる黒羊のように他とは異なる事物を指し示すのではなく、それ自体は社会的でない事物同士のある種の結びつきを指し示すものである。

社会を構成する社会的なものがあるわけではない。そもそも社会は、何か固定された領域を指す言葉ではない。
社会は、人やモノといったアクター同士がつながることで、常に生みだされ、変化し続けるその動的な状態を指すのだろう。アクターネットワーク理論が示そうとしているのは、そうした動的で不定形な新たな社会の像だ。

だから、ラトゥールは社会学を「つながりをたどること」と定義し直そうとする。

ハイブリッドたちの異種多様な組み合わせ

けれど、ラトゥールは「一見、この定義は馬鹿げている」と。

社会的という語が、化学結合から法的拘束まで、原子間力から法人まで、生物の有機体から政治集会まで、ありとあらゆる種類のまとまりを指すことになれば、社会学が薄っぺらなものになりかねないからだ。

と。

だが、これこそラトゥールが人とモノとの民主主義と呼んだものだろう。

化学結合も、法的拘束も、原子間力も、法人も、そうしたもの同士が生みだすグループ、つながり、まとまりはどれも社会なのだ。
人間が自分たちが生みだすハイブリッドにちゃんと目を向ければ、それらもまた民主主義的な社会であることが見えてくる。

「ありとあらゆる種類のまとまりを指すことこそ、この新たな社会理論の一派が指摘したいと望んでいることである」とラトゥールはいう。それがアクターネットワーク理論という新たな社会理論の射程とする「社会」だ。

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直示的でなく遂行的な持続可能性

そして、それらの社会的なまとまりは、人やモノのように、あらかじめ存在が確定していて、あれだこれだと指し示すせる類のものではないとラトゥールは指摘する。それはその存在を認められることではじめて存在しうる遂行的存在なのだ、と。

社会的なまとまりは、直示的な定義の対象―― マグカップや猫や椅子のように人差し指でさせる―― ではなく、遂行的な定義の対象でしかないと言うことができる。社会的なまとまりは、「それが存在する」とさまざまなかたちで言われることで作られるということだ。

そのまとまりは恒常的に存在し続けるものではなく、僕らが存在すると認め続けない限りまとまりを維持できないようなものだ。それはつねにまとまること、つながることを更新し続けなくてはならない運命にある。

社会的なものの社会学者は「社会的慣性」に訴えることを好み、まるでどこかで紐帯が貯蔵されており、その蓄えは長い時間をかけてはじめて減少していくものであると言わんばかりだ。ANTに言わせれば、グループを作り続けることをや止めれば、グループはなくなってしまう。「社会的な力」から生まれる力の蓄えが助けてくれることはない。

だから、きっと持続可能であること、サステナブルであることというのも、そうした遂行的なものである人とモノとのあいだのハイブリッドなつながりの連続性として考える必要があるのだと思う。
この観点がわからずに持続可能性を問うても、近代が犯したことを繰り返すことにつながる罠にはまってしまうに違いない。

『虚構の「近代」』でラトゥールはこう語る。人とモノとの新しい民主主義の世の中ではモノにも代理人を立てて主張をさせようと。

代理人に話をさせてみよう。例えば、1人がオゾンホールに代わって語る。2人目がモンサント社を、3人目が同社の労働者を代表し、4人目がニューハンプシャーの有権者を、5人目が極地域の度量衡学を代表して語る。さらに6人目が国家を代表して語る。困ることなどあろうはずがない。すべての代理人は同じ話題を扱っている。彼らが共同して作り出した準モノ、「対象-言説-自然-社会」という連関について語っている。その準モノの真新しい特徴が私たちすべてを驚嘆させる。そのネットワークは、私の家の冷蔵庫から化学、法律、国家、経済、そして衛星を通じて南極へと延びていく。居場所がなかった複雑なもつれやネットワークが、いまや場所全体を占拠している。代理を立てるべきなのはそうしたもつれ、ネットワークの方であろう。今後、開催されるだろうモノの議会は、それらをめぐって開かれることになる。

僕たちはもはやハイブリッドなモノ、そして、ハイブリッドな自分たち自身に目をつぶってはいられない。




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棚橋弘季。人間の思考はどんなふうに作られているか?を問うことがライフワーク。とりわけヨーロッパ文化史に興味あり。中世後期から19世紀あたりまでを広く守備範囲に。渋谷のロフトワークという会社で働いてます。

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