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都市の詩学/田中純

本のなかには時に、何冊もの他の本へと誘ってくれるキーとなる本がある。
田中純さんによる『都市の詩学』という一冊もそうだ。

これまで、この本を起点として読んだ(読み途中のものも含め)本には、カルロ・ギンズブルグの『闇の歴史』、中井久夫『徴候・記憶・外傷』、ホルスト・ブレーデカンプ『ダーウィンの珊瑚』、アルド・ロッシ『自伝』の4冊がある。
どれも『都市の詩学』のなかで紹介されていて読んでみたくなった本なのだが、共通点があるのに気づいただろうか? どれも記憶あるいは歴史といったものを扱っているということに。

ギンズブルグと中井さんの本にはそれぞれタイトルに「歴史」や「記憶」があるからいうまでもないし、ダーウィンを扱ったブレーデカンプの一冊が進化論という大きな自然史を扱っていることもわかるだろう。そして、アルド・ロッシの『自伝』は彼の自分史である以上に、建築の記憶を探る本であったりする。

『都市の詩学』自体、サブタイトルに「場所の記憶と徴候」とあるとおり、それが過去に関する記憶や歴史のような記述だとか、それとは時間的には逆方向にある「徴候と予感」でも扱ったような未来に関する主観的な印しの発見のようなものを相手にしている。

読んでみて、興味深く思ったのと同時に、不気味さをも感じたのは、記憶も歴史もいずれも単純な過去ではなく、現在に気味わるく残存した歪んだ過去のイメージであることに、この本が様々な事例をもって気づかせてくれるからだ。

例えば、中井久夫さんが著者で区別する幼児型記憶と成人型記憶の話で、人は3歳以降に、重層性や階層秩序性があり時間的空間的前後関係によって決定される文脈依存性をもった成人型記憶を獲得すると、幼児型記憶のほとんどは消去されるが、ごく一部が残存すると言っている。そして、それは、

通常、成人が想起できる幼児型記憶は、大部分の消去のあとに残された無害なものばかりで、それを中井は「たわむれに撮った写真がアルバムに貼られないまま散らばっているようなもの」と譬えている。

だと書いているのだが、これは、アルド・ロッシの自伝のはじめの方でささやかれる「最後の夏」に関することばから派生する、こんな思考ともリンクする。

「どの夏という夏も私には最後のものに思われた」と書くロッシの「発展のない体液停止の感覚」は、この建築家が現実とほとんど見分けがつかない類推的都市の建築へといたる「発展」のための条件だった。彼はその道程を「建築を忘れること」とも呼ぶ。骸骨じみた建築累計を飽くことなく反復するロッシの手法は、そんな忘却を目標としていた。それはちょうど、同じく言葉を繰り返し唱えたり筆写するうちに、その意味が失われてしまうのに似ている。反復は類推を建築の抜け殻に変えてしまうのである。

ロッシはあえて「建築を忘れる」。そして、忘れられた建築に残る抜け殻は、まさに秩序なく散らばった写真のような幼児型記憶のようなものになるのだろう。
後付けの意味によって現時点からの整合性が合うように編集され直される傾向のある成人型記憶(あるいは常に現代に都合よく書き換えられる歴史)の裏には、意味を剥奪され、いや、そもそも意味に回収されることのないまま無視された幼児型記憶や建築の抜け殻がある。

それはまた表紙にも使われた写真家・畠山直哉さんの『Underground』中の一枚を見て、語られる、こんな言葉にも重なっていく。

暗渠の写真では、トンネルの中心に据えられた、三脚に載った光源そのものが撮影されている。それによって、この世界にとって光源は異物であることがはっきり示されている。洞窟の壁面、そこに棲息するネズミ、コウモリ、昆虫、小魚といった動物たち、水中・水面で増殖したカビや汚泥や七色の油の膜、そして、正体の定かではない色とりどりの異形のものたちは、そんな光を必要としていない。闇を照らす光によって、そこをいわば「人間化」しようとする営みは、彼らの「無関心」の前に挫折する。

こう記述されているのを読むとき、成人型記憶に消し去られたはずの記憶の奥底に眠る、秩序なくぶち巻かれた写真のような幼児型記憶が、この暗渠に隠れた様々な生物の姿にも重なってはこないだろうか。
それは意味を超えた美しさを魅せつけてもくる。

抑圧された記憶。
それはときに押し寄せてきては人を苦しめるトラウマでもある。

それは単に個人のなかで回帰してくるだけでなく、歴史においても忘却のうちに押し込めようとしても繰り返し戻ってくるものでもある。

そうした歴史的イメージを美術史、表象の歴史のなかで抽出してみせたのが、アビ・ヴァールブルクである。

症状の歴史に作用する「トラウマ」の無意識的記憶に対して「事後性」がもつ関係は、ヴァールブルクにおける「残存」がイメージの歴史的記憶に対してもつ関係に対応する。抑圧された過去が事後的にのみトラウマと化すのと同じく、古典古代のニンフの身ぶりが症状としての情念定型と化すのは、あくまで事後的に、イタリア・ルネサンスにおいてなのである。

トラウマ的な出来事は元から病的なものではなく、病になった際に病的な記憶となるように、過去が現在の症状となるのも後世である。それはそれらを排除しようとする側の排除そのものによって忌むべきものとなるのだろう。
しかし、その抑圧とそれに伴って変形された過去が何度も反復的に回帰することで、排除によって正常化を企んだ精神や歴史そのものが錯乱してしまうこともあるのだから、意味を織り成すという精神や歴史の立ち振る舞いは、かなり危ういバランスのもとに成り立っているのだと感じる。

問題なのはこの「差異を孕んだ反復」であった。ヴァールブルクの探究とは集団的な「表現の歴史心理学」だったのだが、そこにおいては、歴史的時間の観念が心的な症状の時間によって錯乱されてしまうのである。そして、フロイトもまた、影響力をもった忘却とその無意識的記憶をめぐる「症状」の歴史として、みずから『モーセと一神教』を書かざるをえなかった。

しかし、この幼児型記憶や無意識的記憶が置き忘れられてある地点にこそ、通常の成人型記憶の意味にあふれた文脈からは抜け落ちた、忘れられた価値の源泉があるのだろう。

そこへのアクセスを可能にしてくれるものこそが「メタ世界」というnoteでも書いた、兆候であり予感であり、索引であり余韻なのであろう。こうした感覚的な揺れを感じてメタ世界に通じる入り口を通り抜けることができるかどうかというところに、さまざまなものの発見に到れるかどうかの分かれ道はある

そして、そうしたものを読み解くことができる視点こそが、いまは忘れられた狩猟や占いといった世界の読み解き方なのだろうと思う。

この「予言」という言葉も示唆するように、狩人的パラダイムと古代メソポタミアにおける占いのパラダイムとは酷似している。狩人が獲物の糞、足跡、毛、羽毛を仔細に探るように、占いの場合には動物の内臓、水面の油、天体の配置に運命解読の手がかりが求められる。狩人も占い師も痕跡を「読む」。

しかし、この狩猟者や占い師のような情報の扱い方は、必ずしも現代には存在しない読み解き方ではない。
実際、この狩猟者の目、占い師の目をもって、通常では読み解けない歴史を紐解こうとしたのが、歴史家ギンズブルグだろうと思うからだ。

ギンズブルグは、物語を語るという思考そのものが、痕跡の観察を通じて「あるものかそこを通った」という物語的な配列を生み出す、狩人の経験から生まれているのではないか、と推測している。部分から全体を見て、結果から原因を探る狩人の痕跡解読法はそもそも換喩的なものであり、叙事詩的な物語の文飾に通底しているからである。

まさに、このギンズブルグの具体的な手腕は『闇の歴史』に見事に展開されている。ギンズブルグが中世サバトの儀式の源泉を探る際にみせた、ヨーロッパという地理的境界も超え、中世という時間にも縛られずに古代や先史時代にまで目を向けて「記憶」を探ろうとする様は、まさに「部分から全体を見て、結果から原因を探る」狩猟民の探索法と変わらない。それは記された定型の記録にばかり頼っていては排除されてしまう、幼児型記憶を救いだす方法なのだと思う。

もし、こうした排除された記憶を救いだす手立てを僕らが放棄したら、こんな風になってしまうのだろう。

コロンブスたちは目にしたものを「印し(記号)」として解読し、それをひとつの理論、ひとつの欲望が実現される見込みととらえるプロセスを繰り返している。そこには、ものごとを特定化する「視覚的なもの」と、一般化・抽象化する「言語的なもの」との緊張関係を表わす「行間休止」があるとグリーンブラットは言う。書記を介して伝えられるコロンブスの観察は、はじめからひとつの期待と知覚認識の構造に依存していた。目にしたことをまず登録し、すぐ続けてその意義を登録するとき、「書記の説明力は目の対象の不透明さを、透明な記号に変換することによって、繰り返し飼い馴らしている」。だから、コロンブスはじつは既知のものしか発見していない。「印し(記号)」はつねにガラスのように透明で、彼は見つけるであろうと期待しているものを見つけるために見ている。そこにはもはや「驚き」の心的痙攣はない。

驚きや発見から自分たちを遠ざけるのは、まさにこうした物事の見方なのだ。
その姿勢に隠されてしまうものの方にこそ、本当の発見はあるのだろう。

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