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大人の学び

いま読んでるエイドリアン・ベジャンの『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』は、いろいろ示唆的だ。

例えば、税収を増やすには、所得と資本に対する税率を下げるといいという話かある。「なるほど」と思った。

アメリカの経済学者アーサー・ラッファーは、所得と資本に対する税を減らすことを提案し、それが税収の増加につながると主張した。彼は正しかった。彼が提唱した変化は経済全体の流れを解放し、経済が成長したからだ。現在の結果、効率と生産性と経済活動が増加した。

所得や資本に対する税率を下げて、個人や法人の活動量を増やし、彼らの収入と消費量が増えれば、下げた税率文化以上に課税対象額が増えて、結果、税収は増加するということだろう。

ようは流れを最大化したほうが、得るものは大きいということだ。であれば、流れを妨げる障害を取り除くことで、得るものを増やすことにつながる。

大きな川はより大きな流れとともに、より大きな力を生むが、小さな川の小さな流れがもつ力は小さい。
それは経済でも同様で、多くのモノや人の流れがある都市は大きなお金を生むが、流れが多くない街が生みだす経済的成果は少ない。

そして、流れの量と結果が比例関係にあるという話は、知識に関しても同様だと思うのだ。今日書きたいのは、そのことだ。

大人になって学習量が減る

ある程度、大人になったあと、極端に学習量が減る人がいる。そういう人がいる、というよりも、きっとそういう人の方が多いのではないかと思う。

大学や大学院を卒業して、社会人になっても数年間はみんな学ぶ姿勢があるし、人それぞれ量に差はあっても実際に学ぶ。彼らは学ばないと、そもそも社会人としての最低限の仕事もできなかったりすることからのスタートだったりするから、とにかく仕事ができるようにと学ぶ。

けれど、ある程度、仕事ができるようになってくるとあやしくなる。「みんな学ぶ姿勢がある」といえた新人からしばらくの時代のようには、いかなくなる。
そう。学ぶ姿勢を忘れた人が出始めるのだ。

もちろん、学ぶ姿勢がゼロになる人はなかなかいない。だけど、学ぶ姿勢が完全に受け身になってしまう人は増える。学ばなくてはいけない事柄が向こうからやって来たら学ぶのだけど、自分から学ぶべきことを見つけたり、常に学ぶべきものを探そうとする姿勢を保てる人の割合は意外と少ないのではないか?

そういう意味で、ここ最近、僕は大人の学びが極端に不足しているのではないかと考えている。
そして、問題は、学ぶことが減ると、自分の中を流れる知識の量が減るということだと思う。

学びの量と仕事の成果の量

ということもあって、先の流れの量と結果の比例関係を知り、思うことがあったのだ。

学びを得て、その学びを外部化する。
そういう知識の流れを作ることが学びだ。
だとすれば、この学びの量が減るということは、仕事における成果の量も、少なくとも増えにくいのではないかと思うのだ。

もちろん、仕事に関する流れは必ずしも、学習だけではない。
仕事における作業などの活動も流れを生む。その流れが多ければ成果の量も大きい。

けれど、経験的に感じるのは、同じ活動量だとしても、よく学んでいる人とそうでない人とでは、成果の量は前者のほうがやはり大きいということだ。
逆の言い方をすれば同じ成果を出すのにも普段の学習量が少ない人は苦労するし、学習量が多くの知識の出入りが多い人は少ない労力で結果を出せる。

同じ時間をかけても、人によって、その時間内にできる仕事量は違う。要領が良い人とそうでない人がいると言えば、それまでだが、その要領の良さは結局、大人になってからも学べているかということと関係しているのだと思う。

デザインにとって自由は善

先の税収の話と同じなんだと思う。
ようは、同じ仕事量でより多くの成果を出そうとすれば、流れの効率が良くなるよう障害になるものを取り除いたり、より良い流れのルートをデザインしたりすることが必要なのだと思う。

この効率化のための変更には、目の前の仕事をしているだけではダメなのだろう。
直接はその仕事に関係なさそうな知識から、仕事の流れを効率化するためのヒントを得るような、そんなひらめきが生まれるようにすることが大事だ。学習によって、自分の中を知識がより多く流れるようにしておくことが必要なのだと思う。

大人になった人々の中でも相変わらず学び続ける人もいれば、学ばなくなってしまう人もいたり、逆に若いとき以上に学ぼうとする人もいる。
それは世界において、ものの流れが大きい地域とそうでない地域があるのと同じことなのだろう。

先に紹介した本で著者のベジャンはこんなことを書いている。

発展途上の地域をものの流れの中に取り込む最善の方法は、力や財、人、情報の河川が全地球に行き渡るのを許すことだ。これは、あらゆる種類の力の拡がりを通して、すでに起こりつつある。

たしかに、これはインターネットの普及や世界的に経済発展が進んだことで、力や財、情報の行き渡ることに対する許容範囲とその量は昔に比べてずいぶんと増えているはずだ。相変わらず、格差はあるにしてもだ。

ベジャンはこう続けている。

この進行をなおさら速めるためには、流動構成に形を変える自由を持たさなければならない。自由はデザインにとって善だ。

ここでの「デザイン」という言葉は、その前の「構成」という言葉と同義である。
ようは物事の流れをつくる構成=デザインにとって、それが自由に変更可能で、常により良き構成=デザインに変えることができることが善なのだ。

大人の学びを許容するしくみづくり

この流れのデザインの自由度を確立することが、発展途上のエリア(経済的に発展途上の地域であれ、学習面で発展途上の人であれ)を「ものの流れの中に取り込む」ことにつながるのだとしたら、大人になっても学び続ける人を増やすには、本人の努力はもちろん、大人にも学びが行き渡るような流れをつくるしくみのデザインももっと必要なのだろう。

大学などの教育機関に行かなくては学べないのではハードルが高い。
本を読んで学ぶのにもたくさん、いい本を読もうとすればそれだけお金はかかる。
そもそも仕事をしながら学ぶには時間の融通がつきにくいという面もある。

というわけで、大人の学びには障害があるのも確かだ(むろん、学ぶことができないほどの障害ではないから、学ぶ人はちゃんと学んでいる)。

だから、こういう面でまだまだ、学べるしくみづくりをする余地はあると思う。このあたりで知識の流れをよくするしくみというものを考えてみる価値はありそうだ。

でも、それはいわゆる教育コンテンツとか学校のように教えてもらうようなしくみではない。
学ばなくなった人が多く生まれる要因は、子供の頃に、教えてばかりで、学ぶ機会をあまり与えられてこなかったこともあるだろうから。
教えるしくみではなく、学びやすくするしくみ、知識が流れやすくするしくみづくりだと思う。

とはいえ、そんなしくみができるのを待たずに、あ、マズイなと自分で感じた人は今日からでも大人の学びをはじめた方がいいとは思う。

学習というのは段階的なので、ある程度、知識がつかないと学べないことはある(ベジャンのコンストラクタル法則にも流れの大きさによる階層化という考えがあるが、段階的というのはその意味だ)。だから、本当は大人になったからこそ学べることがあるので、学びを止めるのはまったく理に適っていない。
そのこと自体に気づけるといいのだけれど。


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