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美はすでに人間的なものではなくて

まだ、自分のなかでもきちんと消化しきれてないんだけど、備忘録的に書いておこう。

美とは、アリストテレスの畏怖すべき定式化によればτο ευσυνοπτον(容易に理解しうるもの)のことである--すなわち、われわれの目に1つの関連として概観され、全体として見渡されうるもののすべてである。

フリードリヒ・キットラーの『ドラキュラの遺言』からの引用。「象徴的なものの世界--マシンの世界」という小論から。このあとにキットラーは、美学はパターン認識からはじまったと書いている。そして、こんな話を続ける。すこし長いが、そのまま引用する。

アリストテレスのτο ευσυνοπτονの射程はひそかにカント美学における超越論的転回も経由して、ことによればニーチェのアポロン的なものにまで達している。カントにおいて美は他のすべての表象から突出しているが、それは構想力と悟性が所与の事実やデータ(そうカントも述べている)を総合しようとして共同作業を行う際に、美がその両者にとってきわめて容易に処理できるものだからだ。だとすれば美は依然として、まずは構想力と悟性による認識を自ら促進するような視覚的なゲシュタルトとして機能するわけである。というのも、崇高は桁外れの大きさ(数学的崇高の場合)ないし桁外れの威力(力学的崇高の場合)のためにその全体を容易に概観しえないものであり、このことによって崇高が美から定義上分離されることになるからである。

認識を促進させるものとしての美。それに対するものとして挙げられるのは、全体認識を超えているがゆえに、全体のゲシュタルトを構成しえないような、謎めいたもの--つまり容易に理解しえないもの--としての崇高だ。

美と崇高の違いに関しては由良君美さんも『椿説泰西浪曼派文学談義』で、こう書いている。

〈美〉がたんに有限の〈ここちよさ〉を示すものとすれば、〈崇高〉の原因はある〈恐怖〉であり、或る〈苦痛〉である。それは驚嘆であり畏怖であり畏敬であり尊敬であって、こころよさを打破して「苦痛を生起せしめる物の性質にちかづき、そのはてに、崇高の観念を生起さす」。

ここちよさと恐怖の対比。恐ろしさゆえに後者を嫌ってそこに近づこうとせず、前者にばかり安寧しようとする態度をクリエイティブ=創造的とは言いたくない。美ばかり追う姿勢がつまらないのは、まさにそのせいだと感じる。認識など、うまくできない対象に臨むほうが面白いと感じてしまう僕などからしたら、美しいだけのものより、すこしくらいは畏怖の対象になるものの方に惹かれる。その意味で、由良君美さんが論じるロマン派の芸術家たちの感覚はよくわかる。
たとえ、ドラクロワの絵に描かれたものがどんなに血なまぐさくても、それはテクノロジーの進歩と無縁ではない。

さて、この認識を促進させる美学という問題に関して、1950年代の半ば、次のような思考実験をフランスの精神分析家ジャック・ラカンは行なっている。

実験の舞台となるのはとある山岳地帯。生きた人間はそこからすべて消滅してしまっているのに、美学はまだ消滅していない。「後に残るのは滝と泉ばかり、それに稲妻と雷鳴」とラカンは書き、それに続けて人間が存在しなくなってもまだその山岳の「鏡に映った像、湖に映った像」は存在するのだろうかという問いを立てている。

鏡としての湖に映った像、それは稲妻の光で消去されるだろう。つまり、鏡は知覚の装置としては機能しても、記憶保存の装置としては機能しない。その記憶保存による図像の同一性の保持を行い、認識を成立させ続ける--そう、これが美学の問題だ--には、人間を必要とするとして、ある哲学者はラカンを批判する。
けれど、それに対するラカンの回答は、現代の僕らにとっては、きわめて当たり前だと思えるものだ。こうである。

例の山岳の写像は、ラカンによれば「依然として存在し続ける」のであり、それは「きわめて単純な理由によるのです。つまり、私たちが到達した高度な文明の段階は意識に関して私たちの抱いている幻想をはるかに凌駕しており、その文明段階においては、私たちは次のような装置を作り上げてしまっています。それらの装置はきわめて高度な複雑さをもったものとして思い描くことができるもので、すなわち、それらは自動的にフィルムを現像し、小型カプセルに封入し、冷凍庫に保存することができるほどのものですが、そうした想像が少しも大胆ではないのです」。

もはや、そこに人間は不在で良い。伝達し記憶するために人間的な認識はそこでは問題ではなくなった。伝達から記憶にいたる流れはもはや機械的な制御で充分以上に可能である。

精神分析とは、そのような人間的な過程を機能に置き換える試みだった。

精神分析は意識のさまざまな幻想から機能を技術的に明確に分離することを提唱する。第1に鏡のような伝達メディアがあり、第2に映画のような記憶保存メディアがあり、第3に(そしてこれは先取りして言えば)単語を数字をみずから操作するマシンがある。

フロイトが「心的装置」という用語を導入することで、魂という夢想を退け、精神の問題をマシンの機能の観点から考えられるようにしたことからはじまる唯物論的精神分析は、フロイトの時代においては、まだ第3のメディアとしてのコンピュータ機能だけは有していなかった。だが、すでにカメラのような光学機器や、エジソン発明の蠟管蓄音機という形で第2のメディアまでは有していたし、その後継者にあたるラカンの時代においては、もはや第3のメディアも兆しとしては見えていたわけである。

アラン・チューリングがチューリングマシンを提示したのが1936年、ペンシルヴァニア大学で最初のコンピュータと言われるディジタル計算機ENIACが作成されたのが1946年である。1952年には、IBMが商用のプログラム内蔵式コンピュータIBM 701を発売開始している。

ちなみに、ラカンはチューリングマシンが発明された、その年に「鏡像段階」という生後6ヶ月から18ヶ月の子供が鏡に映った自分の姿を見て同一化しながら自我の輪郭を形作る段階を呼ぶ。ようは、これはメディアにあてはめれば映画であることをキットラーは指摘する。映画を通じて、人間は自分たちを人間として認識した。しかし、それは精神分析が示したような3つのメディアの機能をもった存在としてである。

ラカンの考えに、想像界、実在界、象徴界という区分があるが、この区分にあてはまるメディアをそれぞれ順にあげれは、想像界には光学的伝達メディアとしての鏡や映画が、実在界にはアナログな記憶装置としての蓄音機やレコードが、象徴界には自動計算機としてのコンピュータが対応する。

このアナログな記憶装置とデジタルな記憶装置でもあるコンピュータの違いがちょっとわかりにくいのだけれど、アナログメディアのほうはノイズに対してNOといえない(ノイズ・リダクション機能をもたない)点が指摘される。

1837年にマレーによって発明されたクロノグラフィーのことを指摘しつつ、ラカンは哲学者たちが「常に忘却している」こと、すなわち、音響の技術的な記録によって、言語が「何か物質的なもの」であることが証明された、ということを強調している。まさにそれゆえにエジソンの蠟管蓄音機によって始めて、実在界と象徴界の、音声学と音韻論の方法的にすっきりした分離が可能になり、かくして構造主義言語学が可能になったのだった。

このノイズのある実在界から、コンピュータの象徴界に情報を移行するための方法を具体的に考え出したのが、情報理論の父として知られるクロード・シャノンだろう。
ノイズのない回路で効率よく情報を伝達するための符号化と、ノイズのあるルートで情報を正確に伝達するための誤り検出訂正がそれだ。いまも情報伝送の基礎になっている、このシャノンの方法においては、いわゆる人間的な観点での意味とはノイズでしかない。

このノイズの除去を可能にするデジタルな情報処理の延長で、いまではもはやGPUやGPGPUにその役割を奪われたDSPであるものの、キットラーはその登場によって、カントが天使にも機械にもできないと考えた、反省的な判断--つまり美学--がついに自動化されたことを次のような形で示している。

デジタルシグナルプロセッサは通常のパーソナルコンピュータとは異なりマイクロ秒という領域で同時並行的に複数の乗法計算をこなすことができるが、それは山岳や幼児の鏡像を厳密にシャノンに従って走査し、不連続積分法によって像領域間の近傍を、不連続微分法によってコントラストを算定し、実在的なものの雑音から象徴的なものの方程式のシステムが出てくるまでそれを続ける。そしてシグナルプロセッサが鏡面の歪みや湖面のさざ波のために生じた像の変化までも修正するとき、つまり像の変化を知覚しまたそれを消去するとき、カントの反省的な判断力はついに自動化されているのだ--ひとつのマシンがゲシュタルトを認識し、与えられた手本から反省を区別することができるのである。

暴力的に単純化して言えば、ようはパターン認識が完全に人の介入なしで自動化されるようになったということだ。そんなことはキットラーに言われるまでもなく、昨今の画像認識技術や画像生成技術を知っている僕らにはもはや当たり前すぎる。

しかし、その一方でいまだ僕らは美的判断を人間的なものと勘違いしてるのではないだろうか?

僕は実は、グラフィック・デザイン的なものがあまり好きではない。いや、アウトプットとしてのそれが好きじゃないというよりも、人がそれを制作することを好まないのかもしれないと、このキットラーの文章を読みながら思った。
το ευσυνοπτον(容易に理解しうるもの)という単語なパターン認識と関連するような美的なものの生成はもはや人間的な仕事ではないのではないかもしれない。

ラカンやチューリングより前に、パウル・クレーが彼の造形理論を考えるうえで「人工の秩序は、もとより貧しいものだが、知覚し得るという点では、明快である」と言っているのを思いだす。

最後に、コンピュータは人間のように思考することはできないのでないかというありがちな批判に対するラカンの考えを紹介して閉じよう。

ラカンはこう答えているからである。すなわち、人間はマシンと同一のオペレーションを行なっているのであり、まさにそれゆえマシンと同じように思考などしていないのである、と。

ただ、違いがあるとすれば、人間は実在界のノイズのなかでも生きているということだろう。たとえ、ラカンが言うように人は決して実在界には接することができないとしても。

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