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僕らは世界にアフォードされながら創発的に発想してる

自分の発想がどこから生じるのか?
自分はどうやって仕事をしているのか?

部分的にオフィスワークを復活させてみて、5日ほど出社してみたけれど、あらためて感じたのは、そんなことだ。

まわりに生きた世界がないと思考がちゃんと働かず、まともな仕事ができないなーというのが、明確にわかった気がする。
その意味では、オフィスに出社すれば良いというだけでもない。
むしろ、オフィスに限らず、いろんな現場に足を伸ばしていろんなものを観察し、いろんな話を聞かせてもらう機会を増やすことが大事だ。
新たな発想のヒントはそうした他者との絡み合いから生じることが多い。

むろん、引き続きのコロナ禍の環境においては、そこまでは望むべきではない。がまんがまん。

だけど、かといって、家でも仕事ができるなんてことを何の疑問もなく言えてしまう人の感性には疑問をもつ。
自分の思考も、自分の仕事も、外部との予測しない関係性、変化をもとに生みだされている。そういうことが日々ものすごくたくさんあるはずだ。
なのに、そうした自分の頭のなかでの思考の生成という出来事に気づけない感性のありようは、自分の思考力や創造性への配慮が欠けているようでもったいなく感じてしまうのだ。

自分の発想がどこから生じるのか?
自分はどうやって仕事をしているのか?

そういうことを、まわりの環境やそこで起こりこととの関係性という観点で考えてみると、どうすればもっと発想が生みだせるようになるか、仕事の成果をよりよくできるかのヒントが得られるはずだから。

生成の過程

誰かに言われたことをやること、やると決まっていたことだけをやることが仕事ではないのは言うまでもない。そうしたプログラミング可能な領域は今後もますますオートマティックになっていく。

まだ、やると認識されていなかった仕事を生みだし、かつ、それを実行する仕事のほうがより価値がある。ある課題の解決のために、新たに生みだされる仕事。仕事そのものが仕事の実行と同時に生成されてくる。そんな創造性が伴う仕事。

そういう仕事をする時こそ、自分以外のもの(人に限らない!)との関わりあい、あるいはすこし距離を置いての観察から、自分のなかにないものに刺激を受けることが発想が生まれるために必要だと思う。
外から投げかけられるものから刺激を受けつつ、それがもとより自分のなかにさまざまな記憶や知識と組み合わさりながら、その小さく高速に行われる外と内との連結の連続から、新しい発想が創発してくる

『物質と記憶』で、アンリ・ベルクソンが書いている、こんな言葉が思い起こされる。

私が「宇宙」と呼ぶところのイマージュの総体においては、ある特殊なイマージュ、その典型が私には自分の身体によって与えられるイマージュを介してでなければ、本当に新しいことは何も生じえない、という具合にすべては進んでいる。

宇宙という外のイマージュを、身体という自分に属するものを介して与えられるイマージュとして受けとることから、新しいものは生じる。

いや、本当は新しいものだけではない。
あらゆるものが外と内とのイマージュの交換の過程として生成される。
ある意味では、あらゆるものはすでにそこにあるのではない。
あらゆるものは外と内との関わりあいのなかで生成されてくるのだと思う。
その意味で宇宙そのものも、僕ら自身も、存在しているというより、常に生成過程の真っ只中にあるのだと思う。

それを何か固定したものがあるように考え、決められたことだけを仕事としてやろうとするから、生成過程にある世界から取り残され、それなら家で仕事をしてても構わないなんて考えになってしまうのではないだろうか?

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運動と休止

いわゆる西洋に長くはびこる心身二元論を超えるものとして、精神そのものを身体によって与えられる特別なイマージュの組み合わせによる創発的な生成過程とみるベルクソンは、こんなことも書いている。

われわれの想像力は、何よりもまず言葉にする際の便利さと物質的生の諸要求に心を奪われているので、以上の項の本来の順序を逆転させるほうを好む。この想像力は、すっかり校正済みでもう動かないイマージュ、我々の利益のご要求の変わらなさを何よりも反応しながら外見上固定されたイマージュからこの想像力は、すっかり構成済みでもう動かないイマージュ、われわれの低次の諸欲求の変わらなさを何よりも反映しながら外見上固定されたイマージュから成る世界の中に自分の支点を求めることを習慣としているので、どうしても休止の方が動きに役立つと考え、休止を基準点扱いして、そこに身を落ち着けてしまい、最後には、運動とは距離の変化にすぎず、空間は運動に先立って存在する、ということにせざるをえないのである。

本来「運動」であるものが、日常生活における便宜上「休止」したもの、固定化したものに置き換えられる。言葉は本来意味の生成でもあるはずなのに、意味の固定であるかのように扱われる。

すこし前「"Stay home"から"Go home"へ」でこんなことを書いた。

定義を求めるよりも、相手がそれをどういう意味で用いているのかを知ろうとしてあげるほうが、はるかに意味ある態度なんじゃないだろうか。
椅子がそれを用いている相手がなんの用途(荷物を置く、高いところのものをとる補助など)で用いているかを理解することでそれが何を意味するか(荷物置き場、踏み台など)をちゃんと把握できるように、言葉だってその言葉を使っている相手がどんな意味で用いているかを常に理解してあげようという姿勢があれば、別に定義なんて必要ないんじゃないだろうか。

人と人の関係性、人と非人との関係性のなかで意味はつねに生成されてくる。その生成のなかでは自分自身もまた新たに生成される

そんな視点に立てば、言葉の定義は、やたらと求めるものではないと僕なんかは思う。
すくなくとも定義はそれを使う人同士のあいだで生成させたうえで、そののち使っていくようにした方がいいと思う。世の中でどういう意味で使われているかなんてことに過度に頼ってしまうのではなく。
定義として意味の生成を行う過程にこそ意味=価値はあるのだから。

休止した意味としての定義よりも、他者とのあいだの運動のなかで生成される意味に重きを置くだけで仕事をすること、何かを発想することへのスタンスが変わるはずだ。
そして、スタンスを変えるためにも、自分自身の仕事への向き合い方や考えるということの方法の変更が促されるだろう。

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予期せぬものとの関わりのなかで

リモートワーク明けに、若い同僚の言ってたことが印象的だった。

一人暮らしをしていて他人と合わなくなると、自分の選んだものしか情報として入ってこないことに問題を感じたというのだ。
自分でいろんなものを積極的に吸収しようとしても、結局は自分自身で選んでいるから、コロナ禍以前のように、自分では予期していなかったものと出会うということが極端に減ってしまっているということだった。
良い感性だ、と思って、僕はその話を聞いていた。

自分で選択可能なものの多くはやはり、すでに自分のなかである程度何故それを選ぶか?を言語化できるものになってしまうだろう。
ここで「言語化できる」と言っているのは、意味がある程度固定化されている、意味の生成が休止状態にあるということだ。

この状態を問題に感じるのは、創造的仕事をしようとするスタンスがある人なら感じるべきことだろう。
その意味で、この話を聞いたとき、その人が仕事で成果を出せてる理由がわかった気がした。

自分の内側にあるものだけで創造的な生成をし続けるのはむずかしい。けれど、外から新たな刺激を得ようにも、自分の視点というフィルターが新たなものの取得の障害となる。インターネット上での情報検索の問題としていわれるフィルターバブルと同じだ。

だから、自分の内にないものも外から得ようとすれば、それはある程度偶然に期待して、予期せぬものの到来を待つ戦略をとるしかない。

幸い、外の世界は、そうした偶然に満ちている
ちゃんと外に出かけて、感度をしっかり高めて予期せぬものの示すサインを見逃さないようにすれば、いくらでもそれは得られる。

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3種の記号

『森は考える 人間的なものを超えた人類学』のなかで、エドゥアルド・コーンはこう書いている。

記号は、モノ以上である。それは、音、出来事、言葉の中にきっちりと収まるものではない。厳密に身体に存在するのでもなく、ましてや精神のうちにさえたしかに存在するものでもない。それは現在進行している関係上の過程であるために、正確にはこのようにして位置づけられるものではないのかもしれない。その感覚的な質は動態の一部をなすだけで、その動きを通じて、記号は世界の中に現れ、成長し、効果を生み出すようになる。

コーンは、この本のなかで記号というものを、チャールズ・パースの記号論を理論的根拠としつつ、イコンとしての記号、インデックスとしての記号、象徴としての記号に分類した上で、象徴としての記号は人間のみが用いることができるものだとしている。
逆にいえば、ほかの2つは人間のみならず、生命あるものなら使えるもの、いや、それを使わなければ生命そのものが成立しないと考えている。

イコンは、対象そのものに類似(ライクネス)をもつ記号を指す。日本語における擬音語などのオノマトペは、このイコン的な記号に近い。その記号を見たり聞いたりしただけで、その対象のイマージュがわくものだ。

一方、インデックスは対象との類似性を持たない。「代わりに、それは別の何かを指差する」。
その記号はそれを示された人に何らかの反応を呼び起こすものだ。
僕はそれをアフォーダンス的な記号だと理解した。
デザインとは、このインデックス的記号をうまく駆使する仕事なんだと思う。

最後に象徴的な記号。これは対象との類似性もなければ、別の何かを指差することもなく、ひたすら人間界の取り決めやほかの象徴的な記号との関係性において意味を成り立たせるものだ。「象徴は規約を必然的に含んでいる」。
つまり、言葉の定義のところで書いたのは、この象徴記号の規約をつくること自体を自分たちでやるか、他人に任せにするかという話である。

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予期せぬものにアフォードされて

僕が、2ヶ月ほどの自宅での自粛生活明け(いま、まだ完全には明けておらず、継続して自粛する必要がある部分もある)を経て、外世界に一部復帰して感じたのは、この非人間的な記号過程を経て生成される発想の大事さだった。
特に、外界の人間のみならず、非人間も含めたものが見せてくれる動きや変化にともなって得られるインデックス的記号が、頭のなかで記憶や感情を呼び覚ましたり、そこから自分のなかのさまざまな象徴記号で構成された知識と組み合わされ、そこで創発的な生成が行われることの重要性だ。

すこし長いが、またベルクソンから引用してみよう。

実際、完全な知覚というものは、われわれがその前へと投げかける記憶イマージュとその知覚が融合しているという点でのみ、それと定義され、他から区別されるものだ。注意はそのためにあるわけで、注意がない場合に存在するのは、機械的な反応を伴った諸感覚の受動的な並置だけである。しかし他方、もっと先で見るように、記憶イマージュというのも、純粋記憶の状態に縮減されているかぎりは効力をもたないままだろう。純粋記憶は潜在的なものであり、自分を引き寄せてくれる知覚によってでなければ現勢的なものになれない。また、それは無力なものでもあって、自分の生命と力は、そこへと自分が物質化していくところの現在の感覚のほうから借り受けるしかない。以上からすると、結局、判明な知覚が引き起こされるのは、向きが正反対の2つの流れ、一方は求心的で外的対象のほうに由来し、もう一方は遠心的でわれわれの言う「純粋記憶」を出発点としている、これらの2つの流れということなのではないか。(中略)互いに結びついてこそ、これら2つの流れは判明かつ再認された知覚を両者の合流点において形成できるのである。

ここで書かれている、求心的で外から内への流れと、遠心的で内側から外へと姿を表す流れ。
この2つが前者が外界からの身体的認知によるアフォーダンスと、頭の内側で展開される自分の知的アーカイブの探索というものが、「互いに結びついてこそ、これら2つの流れは判明かつ再認された知覚を両者の合流点において形成できる」のであって、これが創造的な発想の生成を生まれる際のプロセスの概略図なのだろうと思っている。

だとしたら、創造的な仕事をするため、創造的な思考をするために必要なことは次の2つということになる。

1. 自らの創造行動がアフォードされるような外界からのサインをできるだけ多く得られるよう観察機会を増やし、インデックス記号に触れられる場に多く出向くこと
2. 外界から得られたものを起点に、そこからさまざまな知のアーカイブを使って、創造的生成が可能になるよう、日頃から自分の内に利用可能な知のアーカイブを形成しておくこと。そのための知的狩猟活動を怠らないこと

というようなことを考えるきっかけをくれたのは、実は、元同僚がFacebookメッセンジャーを通じてくれた問いかけだったりする。
ここまでオフラインから得られる思考活動をアフォードする予期せぬ刺激についてばかり書いてきたが、その意味では、決してオンラインでは、思考をアフォードしてくれるような刺激が得られないという話でもないのだ。

こういうこと考えるの楽しい。



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