見出し画像

"Stay home"から"Go home"へ

つまらないなー。
何かを定義したがる思考の仕方って、不自由だなと感じてしまう。

ここ最近ちょっとスランプで、ひさしぶりのnoteなのに、いきなりネガティブなことからはじめてしまったが、言葉に対して過度な期待をしてしまうひとが増えてしまうと世の中、窮屈になってしまうと思う。

デザインとは何か、クリエイティブとは何か、民主主義とは何か、正義とは何か、暴力とは何か、ハラスメントとは何か、などなど。

そんなところに引っかかるのは時間の無駄だといつも思う。言葉にひとつに定義できる意味なんてあるはずもないのだから、そこを求めるのはナンセンスだとぼくは感じる。

言葉も所詮はモノだから

言葉は確かになんらかの物事を表象し、ある意味を有するものではあるけれど、そんな言葉だって、ほかのモノ同様、ただのモノのひとつには違いない。
モノである以上、ほかのもの同様に、それが決まった意味に固定されることなど現実的にあり得ない。

ユーザビリティなどの領域ではよく例にされたりするけど、椅子はかならずしも座るモノであることを意味しない。
それは時には荷物置きにもなるし、高いところにあるものをとりたいときの踏み台にもなる。
僕は子どもの頃、家のダイニングにあった椅子を組み合わせて基地をつくって遊んだものだ。つまり、それは遊具にもなる。

どうユースするかは、モノそのものに規定されたものではなく、ユーザー(の頭のなかの文脈)との関係によって決まる。

同じように、言葉だってそうだろう。
言葉の意味だって、その言葉を使う人(の頭のなかの文脈)との関係によって決まっている。
もちろん、さすがにそんな意味では使えないだろうという間違った意味での使い方というのはあるだろうけど、それでもたったひとつの意味でのみ固定された言葉なんてないはずだ。
特に抽象的な言葉であればあるほど。

椅子でさえ、多彩な意味をもちうるのに、デザインだとか愛だとか平和だとか悪だとか理性だとか創造性だとか、そんな言葉たちがひとつの意味だけをもつなんて考えて、その定義を求めるのはちょっとナンセンスだと考えることが、よくある。

そして、あー、窮屈だなーと感じる。

定義よりも、理解し合い

定義を求めるよりも、相手がそれをどういう意味で用いているのかを知ろうとしてあげるほうが、はるかに意味ある態度なんじゃないだろうか。

椅子がそれを用いている相手がなんの用途(荷物を置く、高いところのものをとる補助など)で用いているかを理解することでそれが何を意味するか(荷物置き場、踏み台など)をちゃんと把握できるように、言葉だってその言葉を使っている相手がどんな意味で用いているかを常に理解してあげようという姿勢があれば、別に定義なんて必要ないんじゃないだろうか。

もちろん、定義が無意味とは言わない。

たとえば、特定のプロジェクトだとか、何かしらの会だとかで、特定の言葉をどういう意味で使っていくかの共通認識をつくって、毎回、発言者各々がどんな意味でその言葉を使っているかを確認しなくても済むよう、効率化したいときなど、定義はあったほうがよい。

ただ、そのほうが効率的だからあったほうがいいのだけれど、定義があった時でも、言葉は別の意味で使っても構わないということが担保されてることが実はとても大事なことだと思う。
そうではなく定義にこだわり、誰かが定義された意味以外の意味でその言葉を使うのを咎めるのはナンセンスだと思う。
それはいま問題になっている自粛警察の態度となんら変わらないのだと思う。

自分が楽な方ばかり選んではいけない。
ましてや、その選択により他人に不利益が及ぶならなおさら。

異なる思考を受け入れるキャパシティ

自粛警察的な態度に走る人がそうであるのと同じように、結局、定義で簡単に済ませようとしたがる人は、自分と違う考えをもつ他人を受け入れるキャパシティが足りないのだと思う。

だからこそ、定義ばかりが必要とされると世の中が窮屈になってしまうのだ。
ひとりひとりがもっと許容度をあげて、他人のいろんな考え、他人のいろんな行動を許容できるようになる必要がある。

いろんな正義があって良いし、いろんなクリエイティブがあって良いし、いろんな愛が、いろんな友情が、いろんな生き方、働き方、自粛の仕方、経済活動のはじめ方、ビジネスの回復のさせ方があっていい。

そういういろんなあり方を許容できる姿勢が大事だし、同時に、自分が考えていることをほかの人に許容してもらえるような丁寧なコミュニケーションが必要だ。
もちろん、その「丁寧」さにもいろいろあっていいし、それはどちらか片方の側にあるのではなく、たがいに相手に丁寧に接しようとする他人の同士のあいだにあるものだ。

人間たち的なものを超えた

そんなことを思ったのは、さっき読みはじめたエドゥアルド・コーンの『森は考える 人間たち的なものを超えた人類学』に刺激を受けたからだ。

サブタイトルにもあるとおり、人類学(文化人類学)領域の本で、そもそもその分野は多様な文化を受け入れる姿勢をもった領域なんだけど、そこにさらに「人間たち的なものを超えた」という言葉も重なるのだから、その他者を受け入れる姿勢の柔軟さは半端ないわけだ。だって「森は考える」だよ。

『森は考える』では、非人間的存在に対する人間的な関与を理解するためのより強固な分析枠組みを開発することで、人間を例外的なものとして――またそのようにして世界の残りの部分から根本的に分離されたものとして――取り扱ってきた方法に向けられる、ポストヒューマン批評に寄与することに努めたい。

非人間なもの、動物もそうだし、植物もそうだし、そうしたものの総体としての「森」もそうなんだろうけど、そういうものも「理解してあげる」対象として、自分たちのキャパシティを広げるのだ。

人間にとっての、正義とか、平和だとか、生命だとか、持続可能性だとかに限定することなく、動物や、植物や、「森」にとってのそれらの意味を考えることにほかならない。

人間的な窮屈な定義の外にでる試みなのだ。

今日の様々な形式の社会・文化人類学は、とりわけ人間的である属性――言語、文化、社会、歴史――を扱い、またそれらを用いて、人間を理解する道具をこしらえる。この過程において、分析対象はその分析と同形となる。その結果、人々をより広い生命の世界につないでいる数多くの道のりを、すなわち、いかにこの基礎的なつながりが、人間的であることの意味を変えるのかを理解できないのである。このために、人間的なるものの向こうに民族誌を拡張することが重要となる。

こういう姿勢が大事なんだと思う。
いまみたいに大きな変化をうながす出来事ができ、先行きの見えない不安から、多くの人が自分とは異なる人びとの動きに疑心暗鬼になって、それぞれが自分の正義を振りかざしてしまいそうになる状況では。

"Stay home"から"Go home"へ

安心したかったらひとつのところに居座ろうとするのではなく、つねに変わり続けて生き延びるための努力を、これまたつねに変わっていくであろう自分のまわりの人びとといっしょに行っていくことではないかと思う。

そういう変化によってこそ、本当の回復(レジリエンス)は望める。
回復とは、元の場所に戻ることの謂ではなく、そうでありたい場所をつねに創造しつづけることの謂である。

そのとき、僕らは"Stay home"の状況を脱して、"Go home"の状況へと移行することができるのだろう。

帰るべき家はつねに更新され続けるものだ。
ひとつの定義された固定的な「家」を求めてしまうからこそ、僕らは帰るべき家すら見失ってしまうのだ。

そんな場所にこそ、ステイしたくない。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。