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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#コラム

もってる知識は多いほどいい

同じものを見たり、同じ話を聞いたりしても、人によってどう認識し何を理解するかは大きく異なる。 解釈は人それぞれだというが、では、何がその解釈の違いを生んでいるのかと言えば、各自がもつ情報量・知識量の違いだろう。ありきたりの解釈ばかりが生まれてくるとしたら、そこに集まる人たちの知識の幅がきわめて常識的な範囲に狭く収まってしまっていたりするからなんだろうと思う。 解釈の違いは、価値観の違いから生じるとみることもできるが、その場合も何が価値観をつくっているのかというとどんな情報や

目的を見失った仕事

どんな場所を目指すのかがわかっていなければ、どんなコンパスや地図があろうと、目的地にたどり着くことはできない。 目指す場所がわかっていなければ、どこにたどり着こうとそこが目的地なのかが判断できないのだから。 手段ではなく目的に焦点をこんな当たり前のことは誰でも理解できるのに、なぜか目的地のことをおざなりにして、ツールや方法に固執してしまうのを目にすることは少なくない。 一言でいえば、手段が目的になってしまうということなのだが、そうなると、それが何の手段かは見えなくなり、それ

事実も、地球も、個室も、日記も、救貧法も、17世紀につくられて

気候変動や経済格差といった問題を根本的に考えようとするとき、17世紀にヨーロッパで起こった変化に目を向けないわけにはいかない。そこにこそ、この危機をもたらしている原因に対し対策を行うためのヒントがあるはずだから。 17世紀にどんな変化が起こり、それが現代の環境・社会の問題にどんな影響を与えているのか。ひさしぶりに超絶長くなるが(12000文字超)、書き進めてみよう。 まずは手始めに、アメリカのモダニズム文学の研究者ヒュー・ケナーはその小さな大著『ストイックなコメディアンた

本を読めない病

このゴールデンウィーク、本が読めない病に陥った。 ほんと何年かに一度程度にしか起こらないことなんだけど、前に明確に記憶にあるのは、もう15年以上前だ。 普段、ごくごく自然に読んでいる本が突如読めなくなるので、それなりにびっくりする。焦る。 本に書かれたこととの距離が埋まらないもちろん、文字が読めなくなるとかそういうことではない。その間もスマホでネット上の情報は普通に見ているからだ。そこに変化はない。いや、本を読まない分、時間にしたら多いのだろう。だから、文字を読めなくな

この気候危機のなか、水さえも私物化され、金融商品化されていく

今日知って驚いた。 アメリカ・シカゴの先物取引所「シカゴ・マーカンタイル取引所(CME)」は、2020年12月7日、ナスダックと提携して世界で初となる水先物を上場したという。 増大する水不足のリスクに備えて、需要量の大きい農業や製造業を中心にして水資源の管理に役立つとされているが、足りないものを資本のある一部のものが先物買いしてしまえば、水にありつけない者がたくさん出るだけだ。 ただでさえ、水道サービスが民営化されていて、料金が高騰していて、コロナ禍でも水で手が洗えない

ルールとセオリー

昨日の岸本聡子さんと林篤志さんをゲストに迎えてのオンラインセミナー「コモンズを民主化する」は、とても深いお話が聞けて、僕自身、さまざまな刺激をもらえて、やってみてとてもよかったと思う。 その内容は別途レポートするとして、その中でも議題の中心のひとつとしてあったのは、コモンズの利用に限らず、時間の猶予なく突きつけられている気候変動やそれに複雑に絡みあった経済格差や人権、移民などの問題の回避に向けて、限られたコモンズ(物理的なものだけでなく知的なものも含めて)をどう効率的かつ倫

無縁、あるいは、あらゆる法権利の放棄

道を自由に歩いてよいのは、法的に許されているからなのか。 空気を自由に吸いこんでも咎められることのないのは、法的に認められているからなのか。 また、他人を殺めてはいけないのは、法で決められているからなのか。 他人を誹謗中傷したりするのがいけないのも、法がそう定めているからなのか。 自由と法、やってはいけないことと法の関係をあらためて考えてみてもいいのかもしれない。 コロナ禍で不要不急の外出の流れをとめる/減らすには、法の改正が必要なのか、を問われているいまの状況だからこ

Bonne année 2021

2021年、あけましておめでとうございます。 2020年、社会が大きな危機に晒されるなか、デヴィッド・グレーバーに出会えたことは僕にとって大きな出来事だったと思う(その彼が9月に亡くなってしまったことも含めて)。 グレーバーが『民主主義の非西洋起源について』で書いていた、こんな言葉が新しい年になったいまでも僕の頭のなかを占拠している。 何かが起こっている。問題は、それに呼び名を与えることだ。この動きの主要原理の多く(自己組織化、自発的結社、相互扶助、国家権力の拒絶)は、

2020年の終わりに

「経済を回す」ことより「生活を回す」ことだし、 「持続可能な開発」ではなく「持続可能な生態系」を目指すことだろう。 世界的にコロナ禍に見舞われた2020年。経済や開発といった手段の継続性にフォーカスするのではなく、ほかのものには変えられない目的であるはずの生活や生命と健康をこれからも無事に維持していけることを視野に入れるべきだということを、あらためて考えさせられた年ではなかったか。 経済の成長なくとも、これ以上の開発がなくても維持できる、生活の形、命と健康の尊重の仕方を模

脱成長コミュニズム

まだ読み途中だけど、これは絶対読んだほうがいい。 そう、声を大にして言いたいくらい、持続可能な社会を問う上で素晴らしく、かつ独自性のある提案をしているのご、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』だ。 ひとことで、その特徴を言うなら、斎藤さんはこの本で持続可能性の実現のためには、資本主義を停止させ、脱成長の経済へと移行する必要があると言っていることだ。 『資本論』以降のマルクスその思考の根底をなすのが、『資本論』以降の著書に結実していないマルクスの思考だ。 晩年のマルクス

意思をもって流れに身を任せる

仕事をする際――いや、もっと広く日常的に暮らしているとき全般に言えることだと思うが――、何をするにも他者のことを慮ることはとても大事で、かつ、そうすることが当たり前なことだと思う。 自分たちが望む状態を実現し、かつ、それができるだけ持続できるようにするためにも、自分本位でだけではなく、利他的な視点ももって、事を進めなくては、よい結果は得られない。 そうじゃないと、苦労しても水の泡になることもある。 だから、どうやって進めるかを考えることは大事だ。 何のために、どうやって

わかるとはどういうことだろう?

わかることに苦手意識をもっている人。 そういう人は、わからないということに必要以上に怯えていたりするんではないだろうか。 自分だけわかってないと疎外感を感じる? わかってないとダメなんじゃないかと不安? でも、ちゃんと考えてみてほしい。 この世界、そんなにわかってることだらけのはずはないではないか。むしろ、わからないことだらけで当たり前だろう。 わかることができないことにそんなに怯える必要もない。 もし、決定的にわかってないことがあるとすれば、そのことだ。 この世界は

読むことと意思

文章だとわかりにくい。 話さないとわからない。 これっていったいどういうことなのだろう。 文章の方が自分のペースでゆっくり吟味できるから、わかるのに向いてそうだ。 でも、「テクストベースのチャットツールだと伝わらないので、zoomで話しましょう」というのはよく言われることだ。 文章だとわかりにくいものが、口で説明するとわかったと言われることもある。 なんで、そんなに文章だとわからないとなるのだろう? 不思議じゃない? なんでだと思う? 話し言葉だとわかるという幻

デヴィッド・グレーバー、「経済とは何か?」を問う

亡くなってはじめて、その人の偉大さに気づかされるということばかりをくり返す。 僕ら人間はそんな愚かな存在だ。 デヴィッド・グレーバーのことも先日、訃報を知ったあと、いろいろ調べるようになった。 あらためて調べてみればみるほど、デヴィッド・グレーバーという人の存在の大きさを感じている。 そのなかで『民主主義の非西洋起源について』の出版元である以文社のサイトにある、いくつかの記事を読みながら、思ったことを書いてみたい。 経済とは何か?「コロナ後の世界と「ブルシット・エコノミ