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2020年の終わりに

「経済を回す」ことより「生活を回す」ことだし、
「持続可能な開発」ではなく「持続可能な生態系」を目指すことだろう。

世界的にコロナ禍に見舞われた2020年。経済や開発といった手段の継続性にフォーカスするのではなく、ほかのものには変えられない目的であるはずの生活や生命と健康をこれからも無事に維持していけることを視野に入れるべきだということを、あらためて考えさせられた年ではなかったか。

経済の成長なくとも、これ以上の開発がなくても維持できる、生活の形、命と健康の尊重の仕方を模索していくことが本当に必要なことだろうと思わされた。

コロナ禍でもこれだけ大きな変化があり、痛みを覚えた。実際に病気になった人だけでなく、経済的にも、差別などの面、精神的なストレスの面でも、痛みがあった。これが気候変動による地球環境そのものの影響が大きく出始めたらどうなるのか?と不安を感じずにはいられない。

経済を回すことや、開発を持続させていくことがそうした不安のタネを解消することには思えない。SDGsが僕らがこの先も人間が生きて生活していくうえでのゴールとは到底考えられなくなるような大きなきっかけがこの1年だったように感じている。

We are the 99%

斎藤幸平さんは『人新世の「資本論」』で、こう書いていた。

要するに、生産や分配をどのように組織し、社会的リソースをどのように配置するかで、社会の繁栄は大きく変わる。いくら経済成長しても、その成果を一部の人々が独占し、再分配を行わないなら、大勢の人々は潜在能力を実現できず、不幸になっていく。
このことは、逆にいえば、経済成長しなくても、既存のリソースをうまく分配さえできれば、社会は今以上に繁栄できる可能性があるということでもある。

斎藤さんは、この本で脱成長社会への移行を強く提案している。

「労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を乗り越え、自由、平等で、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。これこそが、新世代の脱成長論である」と。

それにしても、経済成長とはなんだろう?
特に、こんなにも大きな経済格差をうみだす経済成長とはなんだろう?と考えさせられる。

経済格差の問題がこれほどまでに表面化したのもコロナという危機があったからだ。同じように気候変動が危機をもたらすとしたら、経済格差そのものが危機をより大きなものにする人為的な要因であることは、今年1年で学べたことではないか。

昨年の9月に惜しくも亡くなったデヴィッド・グレーバーは2011年のウォール街占拠運動に際して、"We are the 99%"という有名なスローガンをうみだした。

米国の歴史的な景気拡大は上位1%の超富裕層の富を膨らませ、彼らの資産はミドル層とアッパーミドル層の人々の合計資産額を上回ろうとしている。

と、Bloombergの2019年11月11日の記事は伝えている。

何のための経済成長か?

成長しているのは、99%の僕らではなく、たった1%の人たちだ。
だとしたら、そのために経済を回す必要があるのか。僕らが利益を生むための仕事をする必要があるのか。そのために資源やエネルギーを浪費する必要があるのか。

回す必要があるのは経済などではなく、みんなの、特に困窮している人たちの生活のはずではないか、と思う。

2019年にノーベル経済学賞を受賞したアビジット・V・バナジー & エステル・デュフロという2人の経済学者は『絶望を希望に変える経済学』のなかで、こう指摘している。

一因は金融にあると言えるだろう。アメリカとイギリスは「ハイエンド」な金融、平たく言えば金持ち向けの金融で他国の追随を許さない。投資銀行、ジャンク債、ヘッジファンド、モーゲージ担保証券、プライベート/エクイティ、クォンツの類いは英米の独壇場だ。そしてこの方面では近年天文学的な報酬が支払われている。ある資産によると、金融仲介業者を使う投資家は、投資総額の1.3%を毎年ファンドマネージャーに払うという。つまり退職に備えて30年にわたって資産運用を行うとすると、最初の投資額の約3分の1がファンドマネージャーに入る計算だ。(中略)投資額が年々増えるとすれば、この手のファンドマネージャーたちが途方もなくリッチになるのも不思議ではない。(中略)アメリカでは、最上位所得層に占める金融従事者の割合が1979年から2005年にかけて2倍になった。

こんなほんの一部の人たちのために、企業は成長しなくてはならないのか。地球はストレスを与え続けられなくてはならないのか。そう考えるとあまりにやるせない。

デヴィッド・グレーバーが『ブルシット・ジョブ』で書いていた、こんなことを真剣に考えてみないといけない。

ビジネスという視点からすれば、なるほど家や学校は使える労働力を生産し、育て、鍛えあげる場である。しかし、人間的観点からすれば、食べ切れないほど大量の食料を消費するために何百万ものロボットを組み立てたり、国民が死滅してしまっては経済に悪影響を与えるからという理由でHIVに対応せよとアフリカの国々に対して勧告すること(周知のように世界銀行はしばしばこれをおこなっている)は、まったくもってイカれている。カール・マルクスは、かつてつぎのように指摘した。産業革命以前には、最大の富はどのような条件においてつくりだされるのかという問題について本を書こうなどという発想は、だれの頭にも浮かぶことはなかった。しかし、最良の人間がどのような条件においてつくられるのか――すなわち、友人や恋人、仲間や市民として共にありたいという気持ちを抱かせるような人間をつくりだすために社会はどのようにあるべきなのか、については多数の書物が著されてきた。アリストテレスや孔子、イブン・ハルドゥーンが関心をよせた問題はまさにこれであり、つまるところいまだ真に重要なただひとつの問題がこれなのである。人間の生活とは、人間としてのわたしたちがたがいに形成し合うプロセスである。極端な個人主義者でさえ、ただ同胞たちからのケアとサポートを通してのみ、個人となる。そしてつきつめていえば、「経済」とは、まさに人間の相互形成のために必要な物質的供給を組織する方法なのである。

人間同士がたがいに形成しあうプロセス、その相互形成に側な物資の供給のためのしくみとしての経済。

一部の人が儲けるだけで再配分のしくみもなく、コロナ禍で生活が困窮することをこんなにも許してしまう状態を指して、経済が回っているかどうかという話をするのはあまりに観点がズレすぎている。

環境からの搾取

岸本聡子さんが『水道、再び公営化! 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと』で紹介してくれる、イギリスの民営水道会社のこんな話を知ると、さらに経済成長とは何か?と訝しく思わずにはいられない。

テムズ社は長年、EUの最低基準以下の下水処理しかしてこなかった。下水処理能力を向上させるために必要ない投資額40億ポンド(約5600億円)が調達できないと言い訳をし、十分に浄化されていない汚水をテムズ川に垂れ流していたのだ。
だが、テムズ社は2012年だけで2億7950万ポンド(約391億3000万円)も株主配当している。もし公営事業体であったなら株主配当は不要なので、14年もあれば下水処理の向上に必要な40億ポンドを蓄えられた。
(中略)
民営化は自治体にとってコストパフォーマンスが悪いだけでなく、環境保全のための貴重な時間―― その間にもテムズ川の水質は悪化する――までも奪いとってしまったのだ。

ほかの人たちから搾取するだけではなく、地球環境からも搾取してしまう資本主義というもの。なくそうとまでは言わなくても、さすがに、これまでの成長はもういいだろうという気持ちにはなる。

気候正義(climate justice)という言葉は、日本語としては耳慣れない言葉かもしれないが、欧米では毎日のようにメディアを賑わせている。気候変動を引き起こしたのは先進国の富裕層だが、その被害を受けるのは化石燃料をあまり使ってこなかったグローバル・サウスの人々と将来世代である。この不公正を解消し、気候変動を止めるべきだという認識が、気候正義である。

と、斎藤幸平さんが書いていることをすこしは真面目に受け止めていかないといけない。

ブルーノ・ラトゥールも『地球に降り立つ』で「移民の増加、格差の爆発、新たな気候体制――実はこれらは同じ1つの脅威である」と明確に述べている。

かつての「自由世界」を支えた最大の担い手国、英国と米国が他国にこう告げる。「私たちの歴史はもはやあなた方の歴史とは交わらない。あなた方は地獄へ向かうのです」。

こんな自分たちのみ一抜けの姿勢で負債のみを渡されたのではたまらない。

成長が必要だとしても、それはもう先進国に住む僕らのためではないだろう。

先進国が、膨大なエネルギーを使って、さらなる経済成長を求めることは、明らかに不合理である。ましてや、経済成長がそれほど大きな幸福度の増大をもたらさないなら、なおさらである。
しかも、同じ資源とエネルギーをグローバル・サウスで使えば、そこで生活する人々の幸福度は大幅に改善するはずなのだ。だとしたら、カーボン・バジェット(まだ排出が許される二酸化炭素の量)は彼らのために残しておくべきではないか。

と斎藤幸平さんが書くように、成長の余地を残す必要があるにしても、それはグローバル・サウスの人たちのためのものだろう。

民主主義的な自治へ

とはいえ、どうすれば具体的に、斎藤幸平さんやグレーバーの言うような、脱成長のしくみに社会を変えていけるのだろう。

彼らが示してくれるヒントとして、サパティスタやヴィア・カンペシーナなどのグローバル・サウスにおける民主的な抵抗運動がある。

斎藤幸平さんはこう書く。

農業を自分たちの手に取り戻し、自分たちで自治管理することは、生きるための当然の要求である。こうした要求は、「食料主権」と呼ばれる。
中小規模農業従事者の多いヴィア・カンペシーナが目指す伝統的能力やアグロエコロジーの方向性は当然、環境負荷も低い。この団体が発足した1990年代といえば、冷戦終結後、二酸化炭素の排出量が激増した時期であった。その裏では、グローバル・サウスにおいて、サパティスタやヴィア・カンペシーナのような革新的な抵抗運動が展開されていたのだ。

グレーバーはこう言う。

垂直構造ではなく水平構造の重要性。発議は相対的に小規模で、自己組織化を行う自律的な諸集団から上がってくるべきものであって、指揮系統を通しての上意下達をよしとしない発想。常任の特定個人による指導構造の拒絶。そして最後に、伝統的な参加方式のもとでは普通なら周縁化されるか排除されるような人びとの声が聞き入れられることを保証するために、何らかの仕組みを――北米式の「ファシリテーション」であれ、サパティスタ式の女性と若者の会議であれ、無限に存在しうるほかの何かであれ――確保することの必要性。多数決の支持者とコンセンサス・プロセスの支持者のあいだの対立のような、過去の苦い対立の一部は、おおむね解決されてしまった。いやおそらくより正確に言うなら、次第に意味のないものとなってきたように思われる。というのは、ますます多くの社会運動が、小規模の集団内部においてのみ完全なコンセンサスを用いつつ、大規模な連合に際しては様々なかたちの「修正コンセンサス」を採用するようになってきているからだ。

そして、さらにこうしたグローバル・サウスの動きに学び、それを自分たちの民主主義的な活動へと変化させた形が、岸本聡子さんが紹介するヨーロッパでの「ミュニシパリズム」の運動だろう。

「ミュニシパリズム」とは、新自由主義的な政策を進める中央政府によって人権、公共財、民主主義への圧力が強まるなか、自治体が国家行政の最下位単位とみなされることを拒否し、地域で住民が直接参加して合理的な未来を設計することで市民の自由や社会的管理を公的空間に拡大しようとする運動なのだ。

その一例がバルセロナ市で、水道の公営化を目指す運動を皮切りに、「地域政党「バルセロナ・イン・コモン」(現地語名バルセローナ・アン・クムー)まで誕生し、市長を二期連続して擁立することにも成功した」例や、イギリスで、2016年に組織として整い始めたばかりのグループ「モメンタム」が開催している「The World Transformed」というイベントで、こんなことが起きている例がある。

毎年、労働党党大会と同時並行して開催されるため、すぐ近くの党大会の会場から、労働党の政治家たちもTWTに積極的に通ってくる。だからTWTに参加する若い世代の人々も、忌憚なく政治家たちと意見を交わすことができる。
政治家たちも、草の根の人たちから現場の苦しみや声をじかに聞き、彼らの要求のなかから生まれてくる政策案の重要性に気づいていく。
このようにTWTは、草の根の社会運動と政治がまさにつながる場として、大きな役割を果たしているのだ。そのなかで、一般の人たちも、自分自身の生活に直結する政治的な事柄について、まさに「自分のこと」としてなんとか変えていきたいという意識をもつようになっていくのだ。

この状況を打破する方法はないわけではないのだ。
そして、そこでのキーワードは民主主義、自治である。僕ら自身がこの世界でどう生活していきたいかを考え、行動する(あるいは行動をやめる)ことをしていかないと何も変わらないのだ。

今年はいろんなことを諦めた1年だった。
来年は、これからの生活や生命の持続性のためには、何を諦めるかを本気で議論できる場が各所で生まれてくることを切に願う。



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